悪魔は天使の面して嗤う

汐月 詩

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過去、現在、そして

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「ただいまー」

 ガチャリと扉が開いたと思ったら、すっかり懐かしく感じる声が聞こえてきた。

「わー千春さん、なんだかすごい久しぶりに会う気がする」

 実に二週間ぶりに会うたろちゃんは、そんなこと微塵も感じさせないくらい、人懐っこく微笑んだ。
 両手にはたくさんの荷物。知らなかった、いつの間にそんな大量の荷物持ち出してたんだろう。
 たろちゃんはふぅーっと息を吐くと、かつての彼の定位置、ソファに体を預けた。

「いつも遅いのに、今日は早いね」

「うん、ひと段落着いたから。やっといつもの生活に戻れるー」

 そう言って、彼はぐん、と伸びをした。

「ひと段落って……女の人のところに行ってたんじゃないの? もう戻って来ないのかと思ったよ。夜ご飯だってたろちゃんの分、ないよ?」

 少しキツイ言い方をしてしまった。たろちゃんは悪戯っぽく微笑むと、首を傾げて「千春さん、ヤキモチ?」なんて口にした。
 その冗談、今は笑えない。
 私が無言だったからか、たろちゃんは慌てて付け加えた。

「あはは、ごめん、嘘だよ。怒んないで千春さん。実はね、知り合いが入院してて、それでちょっとバタバタしてたんだよね」

 入院──そういえば、喫茶店で『病院』という単語を口にしていたような気がする。ということは、『マリコさん』は入院していたんだ。
 一瞬にして『マリコさん』像が、小悪魔系美女から病弱系美女に変わる。きっと可憐で守ってあげたいような女の人なんだろうな。

「──って千春さん?」

「あ、ごめん、聞いてなかった」

 頭の中の『マリコさん』を振り払う。

「だから、その人が退院したから俺はお役御免ってこと! まぁ何も無くて良かったけど、本当人騒がせだよねー」

 嘘つき。あんな死にそうな顔して飛んで行ったじゃない。たろちゃんにとって『マリコさん』がどんなに特別か、あの時まざまざと見せつけられた。きっと誰も敵わない。『アヤ』とかいう元カノが言った通りだった。

「それは……よかったね」

 努めて冷静にそう答えた。私の心、掻き乱されてなるものか。

「あ、そうだ。たろちゃんに言っておかなきゃと思ってたんだけど」

 気を取り直してたろちゃんに向き直った。たろちゃんは変な顔してこっちを見ている。私が冷静なのがそんなにおかしいのだろうか。

「私、蓮見とまた付き合うことにしたから」

 言えた。心の中の重しがひとつ減った。
 たろちゃんはどんな反応をするだろうかとドキドキしながら待つ。彼は一瞬目を丸くしたが、すぐ満面の笑顔でこう言った。

「わ! おめでとう!」

 なんの迷いもない、真っ直ぐな祝福の気持ち。だけどその言葉が、私の心に影を落とす。
 ほらね、やっぱりたろちゃんにとって私は、ただの同居人なんだ。誰と付き合おうが関係ない。一人で舞い上がって馬鹿みたいだった。これでよかったんだ。頭を冷やせて、よかった。

「じゃー、俺もそろそろ出てかなきゃね」

「え──」

 何を言っているのかわからず、たろちゃんの顔をじっと見た。
 『出ていく』? 聞き間違い? だって、前は『週に三日なら空けてもいい』なんて口にしていたのに──

「だってさ、よく考えたら恋人が出来たのに俺が居続けたらおかしいでしょ? ほら、この前の梨花さんみたいに、いつ誰が訪ねてくるかわかんないし。友達ならまだいいよ? でもハスミン本人だったら……俺、間男みたいなのにはなりたくないし?」

 聞き間違いじゃなかった。彼は、出ていくつもりなんだ。ふいに、みぞおちの辺りがきゅうと痛む。

「で……でもさ、無理して恋人作らないって言ってたじゃん。あれは何だったの。嘘だったの」

 自分でも何を言いたいのかわからなくなって、苦し紛れに立ち上がった。特に用はないけれど、キッチンに立つ。そうすればソファに座るたろちゃんに顔を見られないで済むからだ。

「あーあれね」

 たろちゃんがあははと大袈裟に笑った。
 その笑い声すらも今は耳障りで、とにかく何でもいいから消し去りたくて、蛇口を捻る。勢いよく出てきた水がシンクの底に落ちては跳ね返り、私の袖口を濡らした。

「大丈夫、あてがあるんだ」

 聞きたくなかったのに、水音は彼の言葉を消してはくれなかった。

「……へー。なんだー、そうだったの。そんな素振りないから、全然わかんなかったよ。えーじゃあさ、恋人できたら紹介してよね? って変か。お前誰だよってなるもんねぇ? でも気になるなぁ、たろちゃんが選ぶ子って。前の『アヤ』だっけ? あの子もすごい可愛い子だったもんね。きっと次の子も可愛いんだろうな」

 ペラペラと口が勝手に動く。
 たろちゃんが誰と付き合おうが、どうでもいい。どんな子だろうが、どうでもいい。私には蓮見がいる。蓮見がいるから、大丈夫。

「千春さん、どうしたの? なんか変。幸せすぎて脳内爆発しちゃった?」

「あはは、そうかも。私、すごく幸せ」

 声に出してみると、「幸せ」って案外薄っぺらいものだな。

「気味悪いから明日には治してね、それ。あ、出ていくって言ってもすぐは無理だから、再来月を目処に、お願いします」

「はーい。それまではバレないようにするね」

 あははと笑いながら、私は濡れた手を拭いた。おもむろに振り返るとたろちゃんの真横を通り過ぎ、トイレへと向かう扉を開ける。バタンと閉めると不自然に固まった表情をほぐした。
 ちゃんと笑えていたかな。
 おかしくなかったかな。
 そのままスマホを取り出すと、蓮見にメッセージを打った。

『会いたい』

 早く会いたい。この生活が蓮見でいっぱいになれば、きっと普通に笑えるはずだ。
 返事はやっぱりすぐに来た。

『どうした? 明日、仕事終わりに会おう』

 ホッとしてスマホを胸に抱く。不思議だ。四年前のあの時は、あんなに不安で脆く崩れ落ちた恋だったのに。今では蓮見が私の精神安定剤。
 深く息を吸い込み、ゆっくり吐き出す。再びドアを開けると、たろちゃんはテレビを見ていた。
 ちょうどドラマ『君愛』が始まったところだった。

「そのドラマ、見てなかったよね?」

 たろちゃんが食い入るように見ているので、思わずツッコミを入れてしまう。この前まで『最近の若者はドラマなんて見ないよー』なんて言ってやがったのに。

「んー……ちょっとねー……」

 私は邪魔をしないように急いで前を横切った。彼は一瞬たりともこちらを見ない。

「途中から見て面白いの?」

「んーまぁ……」

 たろちゃんが会話をする気がないようなので、そのまま私はスマホを開く。とくにすることもないのに、いくつものアプリを開いては閉じた。
 この方がいいのかもしれない。別に一緒に暮らしているからって、会話をする必要はないのだ。今までが楽しすぎたんだ。この形でやっていけば、きっと二ヶ月なんてすぐだ。
 私の気持ちも、次第に落ち着くだろう。



 
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