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夜に堕ちる
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朝起きると、すでにたろちゃんの姿はなかった。その代わりテーブルの上にパンケーキとハチミツと、一枚のメモが置いてあった。
パンケーキの上からハチミツをとろりとかけて、それを頬張りながらメモを見た。
『今日は帰らないから。ハスミンとのデートチャンス!』
昨夜私が蓮見に連絡を取ったことをまるで知っているかのような書き方に、思わず苦笑する。今日は帰らない、というところにひっかかりを感じるけれど、これ以上は考えない方がいいと心の中の誰かが警報を鳴らした。
ハチミツをかけすぎて甘ったるくなったパンケーキを食べきると、着替えて外に出た。
昨日の雨のせいで、地面が少し濡れていた。空はまだどんよりと分厚い雲で覆われている。
──早くすっきりと晴れればいいのに。
私は水溜まりを避けながら、そう思った。
◇
「報告があります」
テーブルの上には美味しそうなお弁当、デコデコなキャラ弁、そしてコンビニのおにぎり二つ。
それらを囲んで真剣な表情の女が三人。
「はい。では千春、簡潔に述べよ」
指揮をとる京子さんの目が、ギラリと光った。二人は、私の言葉を今か今かと待っている。
「はい。実は……私……蓮見と付き合うことになりました」
「きゃーーーーー!」
突然の叫び声。雰囲気をぶち壊したのは、やはり梨花だった。
「ちょ……梨花ちゃん、声おっきい」
「だってだってだって嬉しいんですもん! 梨花興奮しちゃう! やっぱり結ばれるべき二人だったんですよぉ!」
梨花の中では、私と蓮見が『運命の二人』として、ドラマチックに描かれているようだ。ドラマか映画の見すぎなんじゃないかと思う。
「落ち着いて……そんな大袈裟だよ」
「梨花、千春さんがこのまま一生独り身だったらって心配だったんですよぉ。でもよかった!」
梨花が可愛く笑う。でも私は、今の失礼な言葉を聞き逃さなかった。梨花のやつ……。
「とはいえ」と切り出して、京子さんが水筒のコップをかかげた。それに合わせて私も梨花も、同じく水筒のコップをかかげる。
「千春に彼氏ができたことは喜ばしいことね! カンパーイ!」
声高らかにそう言うと、私たち三人はお茶で乾杯をした。
「ね、千春さん。なんて言ったんですかぁ?」
お茶をぐいっと一口で飲み干したところで、梨花が訊いてきた。興味津々といった具合に顔を寄せる。
「え? えーと……えーと……『よろしくお願いします』?」
「ええー! なにそれ、色気がなぁい!」
梨花は不満そうにテーブルの下で足をばたつかせた。そんなこと言われたって、私と蓮見の間には『色気』なんてもの、とうに枯れてしまっている。
そしてふと気づく。蓮見とまた付き合うということは、当然、体の関係も復活するということなのだ。どうしよう。彼と再びそういう雰囲気になるだろうか。全く想像ができなくて怖い。
私がアワアワしていると、京子さんが黙って私の肩を叩いた。
「大丈夫よ、千春。……下着の色は、赤がいいわ」
京子さん、そこじゃないんですけど……。
慈悲深い笑顔の京子さんを前になす術がない私は、とりあえずメモ帳に『下着、赤』と書き込む。ボールペンをしまったところで鐘の音が一つ聞こえた。
この病院の時計は、一時間おきにメロディが鳴る。そして三十分には毎回鐘が一つ鳴る仕組みだった。ということは、今は一時半。そろそろ午後の診療の準備に入らなくてはならない。
「さーて、午後も頑張るわよー!」
立ち上がった京子さんに続くべく、私も席を立とうとすると、梨花が私の袖口をちょん、と引っ張った。
「千春さんっ」
妙に小声だ。京子さんには聞かれたくない秘密の相談事でもあるのだろうか。
梨花はそのまま私の耳に顔を近づけると、更なる小声で囁いた。
「師匠とはどうなってるんですか?」
はて、師匠? 怪訝な表情で梨花を見つめ返すと、彼女は「もーう!」と頬を膨らませた。そして今度は、さっきより大きな声ではっきりとこう告げた。
「だーかーらー! 師匠ですよ! しーしょーお! 千春さんの部屋にい──」
なんのことかわかり、慌てて梨花の口を塞いだ。師匠って、たろちゃんのことだ。
「しー! 梨花ちゃん、しー!」
私の手の中でどんどん赤くなっていく梨花。ヤバいと思って手を離す。
「はぁー、はぁー、千春さんっ……殺す気ですかぁ……」
「ご、ごめん。つい……」
恨めしそうに私を見る梨花。だけど元々は、彼女がたろちゃんのことを言おうとしたのが悪いと思う。
「それで? 師匠がなんだって?」
今度は私が梨花の耳元で囁く。
「だからぁ、まだいるんですか? ってことです」
「え……う、うん。いるけど……」
「えー? 恋人ができたのにぃ? それってなんか──」
「あ! でもでも、もうすぐ出ていくって言ってたよ!」
怪訝な表情をする梨花に、慌てて弁解をした。『そういう関係じゃない』と説明をして一度は納得してくれたはずなのに、どうやらまだ疑っているらしい。
梨花は小さく「ならいいんですけどぉ」とこぼした。なんだか歯切れの悪い言い方だった。
私は彼女のじっとりした視線から逃れるように席を立った。
パンケーキの上からハチミツをとろりとかけて、それを頬張りながらメモを見た。
『今日は帰らないから。ハスミンとのデートチャンス!』
昨夜私が蓮見に連絡を取ったことをまるで知っているかのような書き方に、思わず苦笑する。今日は帰らない、というところにひっかかりを感じるけれど、これ以上は考えない方がいいと心の中の誰かが警報を鳴らした。
ハチミツをかけすぎて甘ったるくなったパンケーキを食べきると、着替えて外に出た。
昨日の雨のせいで、地面が少し濡れていた。空はまだどんよりと分厚い雲で覆われている。
──早くすっきりと晴れればいいのに。
私は水溜まりを避けながら、そう思った。
◇
「報告があります」
テーブルの上には美味しそうなお弁当、デコデコなキャラ弁、そしてコンビニのおにぎり二つ。
それらを囲んで真剣な表情の女が三人。
「はい。では千春、簡潔に述べよ」
指揮をとる京子さんの目が、ギラリと光った。二人は、私の言葉を今か今かと待っている。
「はい。実は……私……蓮見と付き合うことになりました」
「きゃーーーーー!」
突然の叫び声。雰囲気をぶち壊したのは、やはり梨花だった。
「ちょ……梨花ちゃん、声おっきい」
「だってだってだって嬉しいんですもん! 梨花興奮しちゃう! やっぱり結ばれるべき二人だったんですよぉ!」
梨花の中では、私と蓮見が『運命の二人』として、ドラマチックに描かれているようだ。ドラマか映画の見すぎなんじゃないかと思う。
「落ち着いて……そんな大袈裟だよ」
「梨花、千春さんがこのまま一生独り身だったらって心配だったんですよぉ。でもよかった!」
梨花が可愛く笑う。でも私は、今の失礼な言葉を聞き逃さなかった。梨花のやつ……。
「とはいえ」と切り出して、京子さんが水筒のコップをかかげた。それに合わせて私も梨花も、同じく水筒のコップをかかげる。
「千春に彼氏ができたことは喜ばしいことね! カンパーイ!」
声高らかにそう言うと、私たち三人はお茶で乾杯をした。
「ね、千春さん。なんて言ったんですかぁ?」
お茶をぐいっと一口で飲み干したところで、梨花が訊いてきた。興味津々といった具合に顔を寄せる。
「え? えーと……えーと……『よろしくお願いします』?」
「ええー! なにそれ、色気がなぁい!」
梨花は不満そうにテーブルの下で足をばたつかせた。そんなこと言われたって、私と蓮見の間には『色気』なんてもの、とうに枯れてしまっている。
そしてふと気づく。蓮見とまた付き合うということは、当然、体の関係も復活するということなのだ。どうしよう。彼と再びそういう雰囲気になるだろうか。全く想像ができなくて怖い。
私がアワアワしていると、京子さんが黙って私の肩を叩いた。
「大丈夫よ、千春。……下着の色は、赤がいいわ」
京子さん、そこじゃないんですけど……。
慈悲深い笑顔の京子さんを前になす術がない私は、とりあえずメモ帳に『下着、赤』と書き込む。ボールペンをしまったところで鐘の音が一つ聞こえた。
この病院の時計は、一時間おきにメロディが鳴る。そして三十分には毎回鐘が一つ鳴る仕組みだった。ということは、今は一時半。そろそろ午後の診療の準備に入らなくてはならない。
「さーて、午後も頑張るわよー!」
立ち上がった京子さんに続くべく、私も席を立とうとすると、梨花が私の袖口をちょん、と引っ張った。
「千春さんっ」
妙に小声だ。京子さんには聞かれたくない秘密の相談事でもあるのだろうか。
梨花はそのまま私の耳に顔を近づけると、更なる小声で囁いた。
「師匠とはどうなってるんですか?」
はて、師匠? 怪訝な表情で梨花を見つめ返すと、彼女は「もーう!」と頬を膨らませた。そして今度は、さっきより大きな声ではっきりとこう告げた。
「だーかーらー! 師匠ですよ! しーしょーお! 千春さんの部屋にい──」
なんのことかわかり、慌てて梨花の口を塞いだ。師匠って、たろちゃんのことだ。
「しー! 梨花ちゃん、しー!」
私の手の中でどんどん赤くなっていく梨花。ヤバいと思って手を離す。
「はぁー、はぁー、千春さんっ……殺す気ですかぁ……」
「ご、ごめん。つい……」
恨めしそうに私を見る梨花。だけど元々は、彼女がたろちゃんのことを言おうとしたのが悪いと思う。
「それで? 師匠がなんだって?」
今度は私が梨花の耳元で囁く。
「だからぁ、まだいるんですか? ってことです」
「え……う、うん。いるけど……」
「えー? 恋人ができたのにぃ? それってなんか──」
「あ! でもでも、もうすぐ出ていくって言ってたよ!」
怪訝な表情をする梨花に、慌てて弁解をした。『そういう関係じゃない』と説明をして一度は納得してくれたはずなのに、どうやらまだ疑っているらしい。
梨花は小さく「ならいいんですけどぉ」とこぼした。なんだか歯切れの悪い言い方だった。
私は彼女のじっとりした視線から逃れるように席を立った。
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