悪魔は天使の面して嗤う

汐月 詩

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決断

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 この日は珍しく泊まらずに帰ることになった。それは別に、私たちが気まずくなったからというわけではない。それは前々から決まっていたことで、蓮見が日曜に休日出勤しなくちゃいけないからだった。基本的に、次の日が仕事の日は無理はしない。
 いつも通り車でアパートに送ってもらった。この時間だ、きっとたろちゃんは部屋にいる。ちらりと302号室のドアを見上げると、言いつけを守ってくれているのか、こちら側の電気は消えていた。

「じゃあ……」

「うん、また──」

 小さくなっていく車に手を振る。
 こんな日常もあと僅かだ。数日後には私は蓮見と共に彼のアパートへ帰る。これからは毎日、同じベッドで同じ夢を見るんだ。
 一緒にいることが当たり前のような、そんな二人になれたらいい。私たちはきっと、いい夫婦になれる。
 階段を上り部屋の鍵を開けると、暗闇の中、ぽわんとした明かりがいくつも灯されていた。それはぽつりぽつりと部屋のあちこちに散らばっている。

「あ、おかえりー千春さん」

 玄関で佇んでいると、近くでたろちゃんの声が聞こえた。声のする方に目をやると、明かりに包まれたたろちゃんがこちらに手を振っていた。

「たろちゃん? え、これはなんなの?」

 彼は無言で、ただ自慢げに微笑んだ。明かりを放っているものをよく見ると、小さなキャンドルのようなものだった。

「綺麗でしょ? それ本物っぽく見えるけど、電池で光ってるんだよ」

 柔らかく光るそれは、たしかに幻想的ではある。だけどなぜ今、このタイミング? 相変わらずの意味不明な行動に、私はポカンと口を開けるだけだった。

「千春さんも座りなよ」

 たろちゃんに促されるまま、私は彼の真正面のイスに腰掛けた。テーブルの上、一際明るく光っているものは、周りと同じキャンドルもどきではなく、一本の本物のロウソクだった。しかもただのロウソクではない。小さなショートケーキに立てられた、ロウソクだ。

「これ……ケーキ……」

「うん」

「え……もしかして──」

 私はもう一度周りを見渡す。キャンドルもどきは一、二、三……全部で二十個。そして、このロウソクを合わせると明かりは二十一個。

「今日ね、俺の誕生日なんだ」

 たろちゃんの言葉に驚き顔を上げる。

「誕生日って……」

「雰囲気だけでも誕生日っぽくしようと思って。さすがに俺一人でホールのケーキは食べられないからさぁ、ショートケーキにしたよ。ショートケーキにロウソク二十一本は立てられないから、代わりにキャンドルにしてみた」

「じゃなくて、なんで一人で……たろちゃんだったら、みんなとワイワイパーティーでもするもんだと思ってた……」

 みんなと、そう言ったけど本心は違う。誕生日は『マリコさん』と過ごすものだと思っていたのだ。
 それなのに彼は今、一人で誕生日の夜を過ごしている。私が帰ってこなかったら、そのまま朝まで一人で過ごすことになっていたはずだ。

「意外?」

 たろちゃんが呟いた。

「ていうか俺ってそんなイメージなんだ」

 くすくすと笑いだした彼だったけれど、その笑みはどこか寂しげだった。

「みんなでワイワイとか、苦手。誘われたけど断ってきた。この家でゆっくり過ごしたかったから」

 誰に誘われたんだろう。気になるけど私に聞く権利はない。黙って机の上のショートケーキを見つめた。

「食べる?」

 私が見ていたから勘違いしたのか、彼はフォークに一口大に切ったケーキを乗せて、私の目の前に差し出してきた。

「い、い、いらないよ!」

 たろちゃんの手を突き返す。『あーん』だなんて、できるはずないじゃないか。
 たろちゃんはしょんぼりすると、そのままケーキを自身の口に入れた。Uターンした彼の手が、どこか寂しそうだ。

「あ、の……ごめんね? 私、誕生日だって知らなかったから……その、何も用意してない……」

「え? いいよ、そんなの! 俺、別に欲しいものないし」

 きょとんとした顔が彼を年相応に見せる。二十一歳。まだ、二十一歳。私との年の差は八になった。でもまた少ししたら九に戻る。この差は一生埋まらない。
 埋まらないけれども、もはやそんなこと私には関係なかった。年の差が一だろうが九だろうが百だろうが、私が彼と結ばれることは絶対にないのだから、そんなことを気にするだけ無駄なのだ。そう思った途端、急に胸がチクリと痛む。
 そう、私とたろちゃんはあと数日で正真正銘の『他人』になる。
 『欲しいものはない』と言っているけど、でも私はたろちゃんに何かあげたかった。たろちゃんと過ごせる最初で最後の誕生日だからだ。

「でも……せっかくだから何かあげたい……」

 無意識にそう声が出て、慌てて口を塞いだ。何言ってるんだろう、私。いらないって言ってるのに、押し付けがましいにも程がある。
 けれどもたろちゃんは、私の言葉にゆっくり考える素振りを見せて、口を開いた。

「……じゃあさ、俺のこと『ぎゅう』ってしてよ」

「え──」

 ぎゅうってしてよ?
 なんのことかわからず目を瞬かせると、たろちゃんがケーキの上の苺を口に放り入れながら妖しく笑った。

「『せっかくだし』? ね?」

 彼の微笑みからその言葉の真意を感じ取り、体中がカッと熱くなる。もしかしたら全身真っ赤なんじゃないかと思うくらいに、一瞬にして体温が上がった。

「な、何言ってるの! からかうなら他の人にして!」

「そんなんじゃないよ。俺さ、『ぎゅう』ってされたことないんだよね。だから誕生日くらい、誰かに『ぎゅう』ってされたい。……だめ?」

 だめ? と上目遣いに見つめられ、くらりと目眩がした。こんな時にそんな仔犬みたいな顔されて、『だめ』と言えるはずがない。

「──……わ、わかった……ちょっとだけだよ?」

 私の言葉に、たろちゃんは嬉しそうに目を細めると、ケーキを食べる手を止めおもむろにソファへ移動した。横に座れと言わんばかりに、隣をポンポンと叩く。
 戸惑いながらも近寄り、ゆっくりとソファに腰をおろす。自分の部屋の自分のソファのはずなのに、なぜかとても居心地が悪い。まるで、座ったことのない真新しいソファに座る時の緊張感だ。

 ──落ち着け、私

 隣からふわりと香るシトラス。この香りには慣れたはずだったのに、今は近くに彼がいるという事実をありありと感じてしまい、どうしようもなくソワソワする。

 ──どうしよう……向き合えない……

「こっち向いてよ」

「──あっ……」

 私が正面を向いて座っていると、ふいにたろちゃんの手が私の腕を掴んだ。ぐいっと引っ張られ、体ごとたろちゃんの方へ向けられる。

  ──ち、近い……

 彼の、キラキラした少年のような瞳に吸い込まれそうになる。その笑顔が、存在が、私には眩しい。

「はい、どうぞ」

「えっ……」

 手を広げ、スタンバイオーケーのたろちゃん。これは私が動けということか。

「千春さん、あたたかいね」

「え、え? そ、そうかな……」

「うん、あたたかい。人ってあたたかいんだね。抱きしめられるとそれがよくわかる」

 耳元で囁くように話され、全身が甘く痺れる。絞られるような胸の痛みに頭がおかしくなりそうだった。
 これ以上触れ合っていたら、どうにかなってしまう。どうにか、なってしまいたい……。

『千春──』

 沸騰しそうな頭の中で、ふいに蓮見の声がした。冷水をかけられたように、瞬時に冷静になる。私、何してるんだろう。

「ね、ねぇ……もういい?」

「あっ、ごめん」

 私の言葉にたろちゃんが顔を上げ、体を離した。『もういい?』と自分で言ったくせに、急にひやりとした空気が入り込んだ胸元に、少しの寂しさを感じた。なんて、なんて勝手なんだ。

「ごめんね? この日だから、ちょっと甘えちゃった。ハスミンには内緒、ね?」

 たろちゃんは、いつもとなんら変わりない。楽しそうに笑いながら立ち上がると、おもむろに電気をつけた。
 途端に明るくなる室内。夢のような時間はもう終わりだ。光を宿したこの部屋とは裏腹に、私の心に黒く冷たい影がさす。

「千春さん、ありがと。いい誕生日になったよ」

 今日が誕生日でよかった。そうじゃなかったら、たろちゃんに触れることなんて叶わなかったから。
 だめだ、私、泣きそうだ。だって、本当はずっと抱きしめていたかった。彼に抱きしめられたいと思ってしまった。この瞬間が永遠に続けばいいと、誰にも邪魔されたくないと、そう思ってしまったんだ。
 どんなに嘘をついても、どんなに強がっても、私────


 お風呂に入ると言って、たろちゃんは部屋を出ていった。一人残され、ぼんやりとスマホを見る。
 画面上にうつるのは、蓮見からの『明日、会えない』のメッセージ。なんで、こんな時に限って会えないんだろう。なんで、なんで、なんで……。
 なんで、私はたろちゃん・・・・・なの……。なんで彼じゃないとダメなの。こんなのってないよ。苦しい、助けて、誰かたすけて……。
 まだ温もりが残る両手で、そっと私自身を抱きしめた。



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