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手紙
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その後、どうやって家まで帰ったか覚えていない。
父の病院にもちゃんと行けただろうか。荷物は無事渡せただろうか。なにか一言二言会話をしたような気もするが、もうなにも思い出せない。
目の前がただただ真っ暗で、前に進んでいるのか後ろへ戻っているのか、それすらもよくわからない。水中に投げ出された蟻のように、必死になってもがくもどんどんと沈んでいく。そんな感覚だ。
ハッと気づいた時にはアパートのドアの前にいた。
このドアの向こうで、たろちゃんが待っている。美味しい料理を作って笑顔で待っててくれている。だけど──
体は芯まで冷えているというのに、心臓だけが妙に熱く鼓動を打ち鳴らす。そのくせ、背中を冷たい汗がいく筋も駆け下りていった。
激しい頭痛に吐き気を催し、その場でヘタリ込みそうになる。それをぐっと堪え、右手でドアノブを掴み、体を支えた。
怖い、怖い、怖い……私はこのドアの向こうが怖い。全てをハッキリさせるのが怖い。
震えすぎてうまく回らないドアノブを、左手も添えてなんとか回した。
「あ、千春さん、おかえりっ」
たろちゃんは、やっぱりそこにいた。いつも通りの人懐っこい笑顔で私に手を振る。
テーブルの上には豪華なディナー。真ん中には、オシャレなガラスの花瓶に綺麗な白い花が飾られていた。
いつも通り。何もかも、ふつう。
彼の笑顔を見ているうちに、立ちくらみにも似た感覚に襲われた。視界がぐにゃりと歪み、その笑顔までもが渦巻いて見えなくなる。
たろちゃんの顔が見えないよ。
「……どうしたの? そんな、悪魔でも見たかのような顔しちゃって……」
その声が、冷たく響いた。
無意識にゴクリと喉を鳴らす。
違うよね?
違うよね?
たろちゃん、たろちゃん、たろちゃん
全部、違うよね? 勘違いだよね? たろちゃんは、たろちゃんだよね?
「た、ろちゃん……」
思ったように声が出ない。喉がヒューヒューと鳴った。
「わ……たしのこと……知ってたの……? 知ってて……ここに来たの……?」
なんとか声を絞り出す。自分の声より心臓の音の方がうるさいくらいだ。
「お……お母さんと……お父さん……のこと……う、恨んでる……の……? て……手紙を……お母さんに送ったのは……た、たろちゃん……?」
立っているのが辛い。全身の血液がゆっくりと降りていく。
「お、お父さんと……不倫……していたのが……たろちゃんの……お、お母さん……なの?」
お願い、違うと言って。
いつものように、にっこり笑って「そんなわけないじゃん」と言って。
もう一度、私のことを好きだと言って。
そしたら全部信じるから。全部全部、信じるから。たとえそれが嘘だとしても、私信じるから。
だからお願い、違うと言ってよ。
お願いだよ、たろちゃん──
どのくらい経っただろう。呼吸が苦しい。震えてどうしようもない体を、自身の腕で抱きしめた。
目の前の男は、たっぷり時間をかけて私のそばまで歩み寄ると、天使のような微笑みを私に向けた。
「た……──」
「なぁんだ。バレちゃった?」
え……──
しかし聞こえてきたのは、顔に似合わない低い声だった。
今、なんて言った? 聞き間違い? お願い、そうであって……。
「う、そでしょ……? ねぇ……」
思わず彼の腕を掴む。そんな私の手を、彼は即座に振り払った。
「……あーあ。せっかくの誕生日だったのにね? 予定より早まっちゃったけど、ま、これはこれでアリかなぁ」
鼻先が触れる距離で、彼はふふ、と笑った。
私は息をするので精一杯で、何一つ言葉を発することはできなかった。ただ、彼の瞳を食い入るように見つめた。
「……そうだよ。俺はね、千春さんの父親と浮気していたクソ女の子供。あ、安心して? 俺と千春さん、血の繋がりはないから」
そんな……そんな……そんな……。
「十五年前に自殺したってヒントまであげたのに、千春さん全然疑わないんだもんなぁ。幸せに生きている人は疑うことを知らないって、本当なんだね」
相変わらずの笑顔。けれども瞳は氷のように冷たい。
「じゃ……じゃあ、ここに来たのは偶然じゃなかったってこと……?」
震える声で必死に訴える。目の前のあなたは……誰?
「偶然なわけないじゃん。偶然女の家に転がり込む男なんて、そうそういないでしょ」
まるで早回ししたみたいに、彼の口がよく回る。
「それにしてもさ、『ハスミン』がいたのは好都合だったなー。ほら、俺が近くに居るのにさ、他の男の所へ行けってけしかけられて、どうだった? そいつと会いながら、俺のこと考えなかった? それにさぁ、『好きにならないで』って言われると、余計に意識しちゃうでしょ? 女の子と遊ぶ俺を見て、嫉妬しちゃったでしょ? 結果、何もしてないのにいつの間にか俺のことを好きになってたね、ふふ」
「……そんな……そんなの……酷い……酷いよ……! 私のこと騙したの? 今までの生活は……全部嘘だったの……?」
ここで暮らした一年足らずの日々も、私に向けた笑顔も、一緒に流した涙も、愛し合った夜も、その全てが嘘だったと言うのか。
全部復讐のため? そんなふうに思いたくない。
けれども彼は一呼吸置くと、乾いた声でこう告げた。
「──そうだよ」
息が、止まる。
心臓も止まったような気がした。
頭は真っ白で、目だけを見開いて彼を見ていたら……────涙がこぼれた。
「……くま……」
「ん?」
ボソリと呟いた言葉に、彼が反応を示した。首を傾げると共に、彼の茶色い髪がふわりと揺れた。
目の前が真っ暗な中、ぼんやりと見える茶色い髪。あなたと初めて会った時と一緒だね。
「……私を利用して復讐しようだなんて……あなた…………悪魔よ!」
拳を突き上げ彼の胸元を叩く。
ドンッ…………一回。
ドンッ…………二回。
抵抗は、ない。
「楽しかった? 私が反応するのを見て、楽しかった?」
ドンッ…………三回。
「あなたの策略に嵌っていくのを見て……影でほくそ笑んでいたんでしょ!」
ドンッ…………四回。
「そうだよ、私……あなたのこと、好きになった……! よかったね、ちょろい女で! ねぇ、何か、言いなさいよ!」
ドンッ…………五回。
どんなに叩いても、彼はさっきまでの饒舌が嘘のように何も言わなかった。
「……ねぇ……お願いだから……何か言ってよ……」
叩く手が痛くなり、彼の服をひっぱりながらその場にへたりこんだ。
私……本当に馬鹿。
まんまと騙されて、恋に落ちて……。
彼はやっぱり、天使の皮を被った悪魔だったんだ。本物の、悪魔……。
「──ねぇ、千春さん」
頭上から声が降ってきた。
はらはらと流れる涙はそのままに、前を向くと、しゃがみこんできたたろちゃんと目が合った。
「俺のこと……好き?」
何を言っているんだろう。この期に及んで、なんでそんなことが言えるの?
私はゆるゆると首を振りながら叫んだ。
「……じゃない……好きなんかじゃない! もう……もう顔も見たくない!」
「……──わかった」
彼の声が震えていた。
ねぇ、なんで、そんな悲しい瞳で私を見るの?
彼はそのままゆっくり立ち上がると、いつ用意したかわからない大きな荷物を持って、私のそばを横切った。
──バタン
音のない部屋に、私一人が取り残された。
その日、恐ろしく冷静な自分がいた。
豪華なディナーは食べる気になれなくて、そのまま全部冷蔵庫の中にしまった。
一人で食べるには、きっと二日くらい必要だな、なんて思いながら。
テーブルの上を片付けている時に間違えて花瓶を落としてしまい、右手の指先を切った。
じんわり血が滲む。
こんな時に限って絆創膏を切らしていて、傷をそのまま放置した。
歯を磨いて、パジャマに着替えて、ベッドに入る。
ズキズキするのは指先? それとも──
次の日も、その次の日も、たろちゃんがこの部屋に戻ってくることはなかった。
父の病院にもちゃんと行けただろうか。荷物は無事渡せただろうか。なにか一言二言会話をしたような気もするが、もうなにも思い出せない。
目の前がただただ真っ暗で、前に進んでいるのか後ろへ戻っているのか、それすらもよくわからない。水中に投げ出された蟻のように、必死になってもがくもどんどんと沈んでいく。そんな感覚だ。
ハッと気づいた時にはアパートのドアの前にいた。
このドアの向こうで、たろちゃんが待っている。美味しい料理を作って笑顔で待っててくれている。だけど──
体は芯まで冷えているというのに、心臓だけが妙に熱く鼓動を打ち鳴らす。そのくせ、背中を冷たい汗がいく筋も駆け下りていった。
激しい頭痛に吐き気を催し、その場でヘタリ込みそうになる。それをぐっと堪え、右手でドアノブを掴み、体を支えた。
怖い、怖い、怖い……私はこのドアの向こうが怖い。全てをハッキリさせるのが怖い。
震えすぎてうまく回らないドアノブを、左手も添えてなんとか回した。
「あ、千春さん、おかえりっ」
たろちゃんは、やっぱりそこにいた。いつも通りの人懐っこい笑顔で私に手を振る。
テーブルの上には豪華なディナー。真ん中には、オシャレなガラスの花瓶に綺麗な白い花が飾られていた。
いつも通り。何もかも、ふつう。
彼の笑顔を見ているうちに、立ちくらみにも似た感覚に襲われた。視界がぐにゃりと歪み、その笑顔までもが渦巻いて見えなくなる。
たろちゃんの顔が見えないよ。
「……どうしたの? そんな、悪魔でも見たかのような顔しちゃって……」
その声が、冷たく響いた。
無意識にゴクリと喉を鳴らす。
違うよね?
違うよね?
たろちゃん、たろちゃん、たろちゃん
全部、違うよね? 勘違いだよね? たろちゃんは、たろちゃんだよね?
「た、ろちゃん……」
思ったように声が出ない。喉がヒューヒューと鳴った。
「わ……たしのこと……知ってたの……? 知ってて……ここに来たの……?」
なんとか声を絞り出す。自分の声より心臓の音の方がうるさいくらいだ。
「お……お母さんと……お父さん……のこと……う、恨んでる……の……? て……手紙を……お母さんに送ったのは……た、たろちゃん……?」
立っているのが辛い。全身の血液がゆっくりと降りていく。
「お、お父さんと……不倫……していたのが……たろちゃんの……お、お母さん……なの?」
お願い、違うと言って。
いつものように、にっこり笑って「そんなわけないじゃん」と言って。
もう一度、私のことを好きだと言って。
そしたら全部信じるから。全部全部、信じるから。たとえそれが嘘だとしても、私信じるから。
だからお願い、違うと言ってよ。
お願いだよ、たろちゃん──
どのくらい経っただろう。呼吸が苦しい。震えてどうしようもない体を、自身の腕で抱きしめた。
目の前の男は、たっぷり時間をかけて私のそばまで歩み寄ると、天使のような微笑みを私に向けた。
「た……──」
「なぁんだ。バレちゃった?」
え……──
しかし聞こえてきたのは、顔に似合わない低い声だった。
今、なんて言った? 聞き間違い? お願い、そうであって……。
「う、そでしょ……? ねぇ……」
思わず彼の腕を掴む。そんな私の手を、彼は即座に振り払った。
「……あーあ。せっかくの誕生日だったのにね? 予定より早まっちゃったけど、ま、これはこれでアリかなぁ」
鼻先が触れる距離で、彼はふふ、と笑った。
私は息をするので精一杯で、何一つ言葉を発することはできなかった。ただ、彼の瞳を食い入るように見つめた。
「……そうだよ。俺はね、千春さんの父親と浮気していたクソ女の子供。あ、安心して? 俺と千春さん、血の繋がりはないから」
そんな……そんな……そんな……。
「十五年前に自殺したってヒントまであげたのに、千春さん全然疑わないんだもんなぁ。幸せに生きている人は疑うことを知らないって、本当なんだね」
相変わらずの笑顔。けれども瞳は氷のように冷たい。
「じゃ……じゃあ、ここに来たのは偶然じゃなかったってこと……?」
震える声で必死に訴える。目の前のあなたは……誰?
「偶然なわけないじゃん。偶然女の家に転がり込む男なんて、そうそういないでしょ」
まるで早回ししたみたいに、彼の口がよく回る。
「それにしてもさ、『ハスミン』がいたのは好都合だったなー。ほら、俺が近くに居るのにさ、他の男の所へ行けってけしかけられて、どうだった? そいつと会いながら、俺のこと考えなかった? それにさぁ、『好きにならないで』って言われると、余計に意識しちゃうでしょ? 女の子と遊ぶ俺を見て、嫉妬しちゃったでしょ? 結果、何もしてないのにいつの間にか俺のことを好きになってたね、ふふ」
「……そんな……そんなの……酷い……酷いよ……! 私のこと騙したの? 今までの生活は……全部嘘だったの……?」
ここで暮らした一年足らずの日々も、私に向けた笑顔も、一緒に流した涙も、愛し合った夜も、その全てが嘘だったと言うのか。
全部復讐のため? そんなふうに思いたくない。
けれども彼は一呼吸置くと、乾いた声でこう告げた。
「──そうだよ」
息が、止まる。
心臓も止まったような気がした。
頭は真っ白で、目だけを見開いて彼を見ていたら……────涙がこぼれた。
「……くま……」
「ん?」
ボソリと呟いた言葉に、彼が反応を示した。首を傾げると共に、彼の茶色い髪がふわりと揺れた。
目の前が真っ暗な中、ぼんやりと見える茶色い髪。あなたと初めて会った時と一緒だね。
「……私を利用して復讐しようだなんて……あなた…………悪魔よ!」
拳を突き上げ彼の胸元を叩く。
ドンッ…………一回。
ドンッ…………二回。
抵抗は、ない。
「楽しかった? 私が反応するのを見て、楽しかった?」
ドンッ…………三回。
「あなたの策略に嵌っていくのを見て……影でほくそ笑んでいたんでしょ!」
ドンッ…………四回。
「そうだよ、私……あなたのこと、好きになった……! よかったね、ちょろい女で! ねぇ、何か、言いなさいよ!」
ドンッ…………五回。
どんなに叩いても、彼はさっきまでの饒舌が嘘のように何も言わなかった。
「……ねぇ……お願いだから……何か言ってよ……」
叩く手が痛くなり、彼の服をひっぱりながらその場にへたりこんだ。
私……本当に馬鹿。
まんまと騙されて、恋に落ちて……。
彼はやっぱり、天使の皮を被った悪魔だったんだ。本物の、悪魔……。
「──ねぇ、千春さん」
頭上から声が降ってきた。
はらはらと流れる涙はそのままに、前を向くと、しゃがみこんできたたろちゃんと目が合った。
「俺のこと……好き?」
何を言っているんだろう。この期に及んで、なんでそんなことが言えるの?
私はゆるゆると首を振りながら叫んだ。
「……じゃない……好きなんかじゃない! もう……もう顔も見たくない!」
「……──わかった」
彼の声が震えていた。
ねぇ、なんで、そんな悲しい瞳で私を見るの?
彼はそのままゆっくり立ち上がると、いつ用意したかわからない大きな荷物を持って、私のそばを横切った。
──バタン
音のない部屋に、私一人が取り残された。
その日、恐ろしく冷静な自分がいた。
豪華なディナーは食べる気になれなくて、そのまま全部冷蔵庫の中にしまった。
一人で食べるには、きっと二日くらい必要だな、なんて思いながら。
テーブルの上を片付けている時に間違えて花瓶を落としてしまい、右手の指先を切った。
じんわり血が滲む。
こんな時に限って絆創膏を切らしていて、傷をそのまま放置した。
歯を磨いて、パジャマに着替えて、ベッドに入る。
ズキズキするのは指先? それとも──
次の日も、その次の日も、たろちゃんがこの部屋に戻ってくることはなかった。
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