悪魔は天使の面して嗤う

汐月 詩

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悪魔は天使の面して嗤う

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 目が覚めると、彼の茶色の髪がまず目に入ってくる。その柔らかな髪を優しく撫でると、彼は眠そうに目を擦りながら「おはよう」と囁いた。
 朝日に照らされて、彼の髪一本一本が金色に反射している。白い肌はますます白く輝き、その姿はまさしく『天使』のようだった。

「……どうしたの?」
 
 欠伸を噛み殺した彼──たろちゃんが、不思議そうに私を見る。

「天使が……天使がいるのかと思っちゃった……」

 ぼんやりそう答えると、たろちゃんはフッと目を細めて小さく「バカだな」とこぼした。
 どちらかともなく抱き合うと、互いの素肌の感触を確かめ合う。
 甘いキスが降ってきて、私はそれを受け止めながらも「もう一度」とおねだりをした。

「もう一度?」

「うん……もっと、して……」

「仕方ないなぁ」

 クスクス笑いながら、彼は私に何度も深く口付ける。
 甘い、甘いひと時……。
 ずっとずっとこうしていたい……──

「でもいーのかなぁ?」

 キスの雨が止んだと思ったら、頭上から嬉しそうな声が聞こえてきた。
 瞼を開けると、たろちゃんが、さっきまでの天使のような微笑みから一変し、なにやらよからぬ顔でニヤニヤしていた。

「……え……なにが……?」

 なんだろう、これ。デジャブ? どこかでこんな展開があったような……。

「今日、仕事じゃないの?」

「……え」

 彼が指さす先を見て、息が止まる。現在八時。とっくに病院に着いてなきゃいけない時間だった。

「ちょ! なんで先に言ってくれないのよっ!」

 自分がほぼ裸なのを忘れて、ガバッと体を起こす。

「ふふっ……千春さん、いい眺め」

「……っっ!! バカバカバカ、こっち見ないでっ!」

 慌てて毛布を引き剥がすと、それを体に巻きつけてバスルームへ急いだ。
 ……思い出した。たろちゃんが初めてここに泊まった日の朝、同じやりとりをしていた気がする。
 二年も経ったのに、私たちは全然変わらない。

「千春さん、そのスカート前後逆だよ?」

「えっ!! ……し、知ってるわよ!」

 相変わらずたろちゃんは意地悪だし、

「『キスをおねだりしてて遅刻しました』なんて洒落にならないよ?」

「う……わ、私だけのせいじゃないでしょ?」

 ……容赦ないし。
 でも……──








「行ってらっしゃい。愛してるよ、千春」





 バタンと扉が閉まる寸前、彼はそう呟いた。まだまだ寒いというのに、私の頬だけ、まるで真夏の太陽の日差しを受けたかのように熱い。

「………………もう」

 ──でも、私たちの関係は、二年前とは明らかに変わった。
 病院への道を駆けていく。
 芽吹き始めた街路樹が、視界を通り過ぎていく。頬を撫でる風は踊るように軽やかだ。
 もうすぐ新しい季節がやってこようとしていた。




 コーポひばり302号室には、天使の皮をかぶった悪魔が住んでいる。



 愛しい、私だけの悪魔が……──。





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