黒覆面の若旦那は嘘つき花嫁をほだして愛する

ワタリ

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第38話

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「……一葉」
「はっ! はい!」

 考え事をしているところに声を掛けられ、一葉は慌てて顔をあげる。

「お前は引き続き保胤から情報を集めろ。特にその“堂薗”という男について聞き出せ」
「承知いたしました……!」

 一葉は頭を下げて、部屋を出ようとした。

「なんだ、もう帰るのか。もっとゆっくりしていけばいいだろう。昼餉の準備もさせている」
「……あまり長いをすると家政婦の方に怪しまれますので」
「実家で長居をして何を怪しまれるというんだ。それに、あの人の良さそうな女はそれほど機敏な人間には見えないがな」

 三上のことを悪く言われ、一葉はムッとした。とにかくこれで失礼します、と足早に扉の方へと歩く。

「ところで、保胤にはバレてはいないな?」

 扉にかかった手が止まり、一葉は慶一郎に向き直る。

「はい」
「そうか。あの警戒心の強い男相手によくやっている。今回の出来次第で色々と褒美をやらんとな」
「……約束を守ってくださればそれが一番の褒美です」

 一葉はもう一度慶一郎に頭を下げた。

「お前と結婚したがった男だ。骨の髄まで惚れさせて利用しろ」

 今度は何も答えずに部屋を出た。


(……妙だな)

 慶一郎は窓辺の椅子に座り、深く煙草を吸った。

(……なぜわざわざ軍港のある京都の港町を選ぶ? 中国から鉱石を輸入するなら距離的に九州の方が近いはずだ)

 窓辺から廊下を歩く一葉の姿が見えた。 それを見ながら煙を吐き出す。

(輸送距離が長ければその分運搬費用もかかる。資材の運搬費、燃料費、土地の利権に関する面倒な手続き。軍関係者との交渉。必要以上に金を掛け根回しをする以上のメリットが何かあるはずだ……」

 吐き出された煙草の煙は、廊下を歩く一葉の後ろ姿を覆うように揺らめく。その揺らぎを見つめながら慶一郎は思案を深める。

「……いるか?」
「はい」

 慶一郎が呼びかけると、慶一郎以外誰もいない部屋からどこからともなく男の声がした。

「しばらく一葉を尾行しろ」











 一葉が炊事場の横を通り過ぎたところで話し声が聞こえた。

「旦那様、朝餉を食べたばかりだっていうのにもう昼の準備をしろですって」
「あの子が来てるからでしょ。どうせ嫌がって食べやしないのにさ」
「いや、あの子は意外と図太いからね。それに食の恨みは深いよ? ちゃっかりいただいて帰ります~なんて言うんじゃない?」

 喜多治の屋敷で働く女中たちの声だった。

(ま、またか……!)

 名前が出ずとも自分のことだと一葉は気付いた。そのまま通り過ぎようかと思ったがこの家を出て行った日と同じく口元がむずむずする。思わず、

「やっぱりお昼いただいて――」
「一葉ちゃん」

 ガタガタガタッと激しい物音が炊事場の中から響く。ヤバイッ!という女中たちの慌てた声が聞こえてきた。一葉が振り返ると玲子が微笑んでいた。

「帰るんならちょっと私とお茶しない?」
「……お茶、ですか?」
「本当は一緒にお昼ご一緒しようと思って女中さん方に無理言ってお願いしていたの。だけどあなたも色々と忙しいみたいだし。せめてお茶だけでも、ね?」

 一葉は慶一郎以上に妻の玲子が苦手だった。暴力や暴言といったあからさまな悪意を向けられたことはなかったが、言葉の端々から常に毒念のようなものを感じていた。

 何より、玲子と話をしていると父と母と別れた時のことを思い出して苦痛だった。一葉の母親に危害を加えようとしたことが鮮明に蘇る。


――綺麗な髪ねぇ……貸したお金も返せないのによく手入れされている。ねぇ、これでも売ったら多少は借金の足しになるのかしら?


 一葉は守るように無意識に自分の髪を撫でた。

「……私でよろしければ」

 石を飲み込むような気分を押し殺し一葉は承諾する。

「良かった! 最近ね、この辺りに新しい喫茶店が出来たのよ。あなたと行ってみたいと思ってたから嬉しいわ! 車の手配をさせるから玄関で待っていて頂戴!」

 じっとりとした笑顔を浮かべ、玲子はぱたぱたと軽快な足音を立てて去っていった。

(これも任務……任務……任務……)

 玲子とは対照的に重い足取りで玄関へ向かう。炊事場から覗き込んでいる女中たちに珍しく憐みの目で見送られながら。



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