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第40話:旦那様の優しい嘘
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一葉は困惑しながら玲子に詰め寄る。
「髪を切るのは……保胤さんのためではなかったのですか……!?」
玲子は悪びれる様子もなく鼻で笑った。
「いやだ、そんな怖い顔しないでよ」
「し……質問に答えてください……!」
一葉の目は一層大きく揺れて唇が震えていた。
「なによ。あなたのためを思って言ってあげたんじゃない」
「私の……ため……?」
「いくら任務とはいえ、あなただって見知らぬ殿方と結婚するなんて嫌だったでしょ? 向こうからとっとと離縁してもらえるように協力してあげたんじゃないの」
「そんな……!」
玲子の言い草に一葉は頭に血が上りそうになる。
「どうしてそんなに怒るの? もしかして、本当は保胤さんに気に入られたかった? あなた、まさか彼に惚れたんじゃないでしょうね?」
一葉の顔はますます歪んでいく。
自分がどんな思いであの日を過ごしたか。
あの日。
髪を切ったあの日。
一葉は一度死んだも同然だった。
*
*
*
*
『緒方殿は髪の短い女が好みだそうだ。あの方に気に入られることは何でもやれ。理髪師を呼んでいるから部屋で待っていろ』
慶一郎からそう告げられた時、目の前が真っ暗になった。そして、暗闇の中で浮かんだのは幼き日の思い出だった。
鏡の前で私の髪を結う母の手の動き。
私の髪をなでる父の手のぬくもり。
父と母との幸せな日々。
『……必要ありません。自分で切ります』
せめて誰にも触れられたくなくて鋏だけ借りた。
物置小屋の暗いあの部屋で鏡の前に座り、きつく目を閉じる。切る瞬間はとても直視出来なかった。
――ジョ…………キンッ!
『……ぅ……』
――ジョキ……ジョキ……ジョキジョキジョキジョキ……
『うぅ……ふ……ぅ……』
鋏が入るたびに部屋に響く金属音。一葉は耐えられず嗚咽を漏らす。この鋏でこのまま自分の心臓を刺せたらどんなにいいだろう。少しでも手を止めれば本当にそうしてしまいそうで、一度も手を止めずに一気に切っていく。
目を開けると、泣き腫らした顔と乱雑に切られた頭、床に散らばる髪の束が鏡に映っていた。
『そんなに泣くぐらいなら素直にお願いすれば良かったのに』
顔をあげると部屋に玲子がいた。その後ろには理髪師が青い顔をして立っている。
『みっともない髪ね……意地張って素人がやるからよ。ちゃんと整えてもらいなさい』
冷たくそういうと玲子はさっさと出て行った。
玲子の姿が見えなくなるのを確認し、理髪師の女性が一葉に駆け寄る。一葉を抱き寄せ、何度も何度も背中をさすってくれた。理髪師がなぜそうしてくれるのか一葉は分からなかったが、他人から見てもことの残酷さに胸が痛んだのだろう。
『元が綺麗な髪だもの……短くたって大丈夫よ……私がちゃんと整えてあげるから……』
自分を元気づけようとしてくれる理髪師の優しさに触れて、一葉は余計に涙が止まらなくなるのだった。
*
*
*
*
「……帰ります」
一葉は財布を取り出そうと鞄を開く。
「紅茶ぐらい奢ってあげるわよ。それに帰りも車で送ってあげるから待ってなさいな」
「……結構です」
「勘違いしないで、あなたのためじゃないの。私も保胤さんにお会いしたいし」
「……日中はお仕事で自宅にはいらっしゃいません」
「ああ、そう。じゃあお好きにどーぞ」
一葉は立ち上がり、玲子に会釈して去っていった。
「なにあれ。可愛くないの」
一葉が座っていた席を見つめながらつまらなさそうに玲子は呟いた。
「あなた、お勘定お願いできます?」
隣のテーブルを片付けていた給仕の男に声を掛ける。男は玲子に微笑み、伝票を確認しに会計へと向かった。
給仕の男はすぐに戻って来た。
「お客様、すでにお代は頂戴しております」
「えっ?」
「お連れ様がお支払いになって帰られました」
「……そ、そう。どうも!」
玲子は立ち上がり、出口に向かってズンズンと歩く。
「ほんっと可愛くないんだから!」
その日、昼を過ぎても夕方になっても一葉は緒方家に戻らなかった。
*********
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「髪を切るのは……保胤さんのためではなかったのですか……!?」
玲子は悪びれる様子もなく鼻で笑った。
「いやだ、そんな怖い顔しないでよ」
「し……質問に答えてください……!」
一葉の目は一層大きく揺れて唇が震えていた。
「なによ。あなたのためを思って言ってあげたんじゃない」
「私の……ため……?」
「いくら任務とはいえ、あなただって見知らぬ殿方と結婚するなんて嫌だったでしょ? 向こうからとっとと離縁してもらえるように協力してあげたんじゃないの」
「そんな……!」
玲子の言い草に一葉は頭に血が上りそうになる。
「どうしてそんなに怒るの? もしかして、本当は保胤さんに気に入られたかった? あなた、まさか彼に惚れたんじゃないでしょうね?」
一葉の顔はますます歪んでいく。
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あの日。
髪を切ったあの日。
一葉は一度死んだも同然だった。
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『緒方殿は髪の短い女が好みだそうだ。あの方に気に入られることは何でもやれ。理髪師を呼んでいるから部屋で待っていろ』
慶一郎からそう告げられた時、目の前が真っ暗になった。そして、暗闇の中で浮かんだのは幼き日の思い出だった。
鏡の前で私の髪を結う母の手の動き。
私の髪をなでる父の手のぬくもり。
父と母との幸せな日々。
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物置小屋の暗いあの部屋で鏡の前に座り、きつく目を閉じる。切る瞬間はとても直視出来なかった。
――ジョ…………キンッ!
『……ぅ……』
――ジョキ……ジョキ……ジョキジョキジョキジョキ……
『うぅ……ふ……ぅ……』
鋏が入るたびに部屋に響く金属音。一葉は耐えられず嗚咽を漏らす。この鋏でこのまま自分の心臓を刺せたらどんなにいいだろう。少しでも手を止めれば本当にそうしてしまいそうで、一度も手を止めずに一気に切っていく。
目を開けると、泣き腫らした顔と乱雑に切られた頭、床に散らばる髪の束が鏡に映っていた。
『そんなに泣くぐらいなら素直にお願いすれば良かったのに』
顔をあげると部屋に玲子がいた。その後ろには理髪師が青い顔をして立っている。
『みっともない髪ね……意地張って素人がやるからよ。ちゃんと整えてもらいなさい』
冷たくそういうと玲子はさっさと出て行った。
玲子の姿が見えなくなるのを確認し、理髪師の女性が一葉に駆け寄る。一葉を抱き寄せ、何度も何度も背中をさすってくれた。理髪師がなぜそうしてくれるのか一葉は分からなかったが、他人から見てもことの残酷さに胸が痛んだのだろう。
『元が綺麗な髪だもの……短くたって大丈夫よ……私がちゃんと整えてあげるから……』
自分を元気づけようとしてくれる理髪師の優しさに触れて、一葉は余計に涙が止まらなくなるのだった。
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「……帰ります」
一葉は財布を取り出そうと鞄を開く。
「紅茶ぐらい奢ってあげるわよ。それに帰りも車で送ってあげるから待ってなさいな」
「……結構です」
「勘違いしないで、あなたのためじゃないの。私も保胤さんにお会いしたいし」
「……日中はお仕事で自宅にはいらっしゃいません」
「ああ、そう。じゃあお好きにどーぞ」
一葉は立ち上がり、玲子に会釈して去っていった。
「なにあれ。可愛くないの」
一葉が座っていた席を見つめながらつまらなさそうに玲子は呟いた。
「あなた、お勘定お願いできます?」
隣のテーブルを片付けていた給仕の男に声を掛ける。男は玲子に微笑み、伝票を確認しに会計へと向かった。
給仕の男はすぐに戻って来た。
「お客様、すでにお代は頂戴しております」
「えっ?」
「お連れ様がお支払いになって帰られました」
「……そ、そう。どうも!」
玲子は立ち上がり、出口に向かってズンズンと歩く。
「ほんっと可愛くないんだから!」
その日、昼を過ぎても夕方になっても一葉は緒方家に戻らなかった。
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