黒覆面の若旦那は嘘つき花嫁をほだして愛する

ワタリ

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第44話

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 書斎に入ると保胤はソファに座りながら鼻歌混じりでワイシャツの袖のボタンを外し始めた。一方、一葉は扉の前にべたっとへばりついている。

「そんな警戒しないでください。無理やり襲ったりしませんよ」
「どの口がおっしゃってるんですか……?」

 ほんの数分前に台所で自分を襲った人間が何を言っているのか。一葉は理解に苦しむ。当の本人は全く気にしていない様子だった。

「いつまでそうしているつもりなんです? 僕の休憩時間終わっちゃうなぁ」

 保胤は袖のボタンを外しネクタイも緩め、ソファの背もたれに両腕を広げてもたれ掛かる。組んでいた足をはずして腰から深く座り直すと股を軽く広げた。一葉がここに来るのを待ち構えているようだった。

「……品物が何か分からない内ではお代も支払えません」

 諜報員としてターゲットに翻弄され続ける訳にはいかない。この仕事に誇りなど一切抱いていないが、それでも今回の任務次第で父と母が解放されるのであれば力も入る。

「なるほど……あなたの言うことも一理ありますね。いいでしょう。一葉さんの要望から先に聞きましょうか。今度は何が知りたいの?」

 一葉は慶一郎に言われた言葉を反芻する。

 ――お前は引き続き保胤から情報を集めろ。特にその“堂薗”という男について聞き出せ

「ど――」

 一葉の第一声は一文字でピタリと止まった。

「ど……?」
「あっ、いやっ……ええと……その……」

 急に口ごもる一葉を見て珍しく保胤の頭に?マークが飛んでいる。

(危なかったぁ……ここで堂薗様の名前など出そうものならこの後もっと大変なことになるわ……)

 以前、保胤に身体を触れられた時、堂薗のことを思い出しただけで酷い目にあったことを寸でのところで思い出した。

「……ど、何?」
「うっ……!」

 黙り込む一葉に察したのか、保胤の目に鋭さが増す。

(やばい……勘の良いこの人ならすぐにバレちゃう……!)

 堂薗のこと以外で何か入手したい情報がなかったか。一葉はぐるぐると頭を回転させながら部屋を見渡す。

「あ……」

 壁掛け式の飾り棚が目に入った。
 本や写真立てなどの調度品が飾られている中、一葉は異変を思い出す。

 ひとつだけ下に伏せられた写真立て。

「……ああ。あれ?」

 一葉の目線を追って保胤は飾り棚を見た。

「これだけ伏せられていたら気になりますよね」

 保胤はソファから立ち上がり飾り棚に近づく。棚から写真立てを手に取った。

(あ……)

 保胤の表情が曇っていることに一葉は気付いた。

「これは僕の家族です」

 一葉はあの写真をすでに見たことがある。
 盗聴器を仕掛けるために保胤の書斎へ忍び込んだ時に自分も手に取った。

 庭で遊ぶ少年とそれを見守る若い男女。
 この家のサンルームにある籐細工の椅子に二人は座っていて、母親らしき女性は赤ん坊を抱えていた。

 やはりあの子どもたちは保胤と留学中の妹で、若い男女は両親だった。そして現在では不仲の父とすでにこの世を去った母。

「知りたいことは僕の家族のことですか?」

 保胤に尋ねられて一葉は首を振った。扉から身体を離し急ぎ足で保胤の元へと近づく。 

「お話にならなくていいです」
「どうして? 本当はこの顔の傷のことだって気になっているでしょう?」

 保胤はマスクを外した。もうすっかり見慣れた素顔。深く刻まれたピンクのケロイド。

 一葉は静かに口を開く。

「ご家族のことも、お顔の傷のことも……あなたが言いたいなら聞きます。だけど、そうじゃないなら何も話さなくていいです」

 知られたくないことなど誰しもにある。
 自分にとってこの髪と本当の家族のこと。
 保胤にとってそれは家族と顔の傷かもしれない。

 以前、三上から保胤の母が他界してから父親とは仲が良くないと聞いていた。現に結婚式にも保胤の親族側は誰も参列しなかった。

 米国での新規事業で忙しく息子の結婚式に出ない父親。
 もしかしたら英国に留学中だという妹とも疎遠なのかもしれない。

(興味本位で聞き出していい情報じゃないわ……それに、緒方商会や製鉄所建設に関連のあることだとも思えないし)

「……あの、情報の代わりにひとついいですか?」

 遠慮がちに一葉は保胤に尋ねる。

「何です?」
「その傷……触ってもいいでしょうか?」
「……え?」
「はっ……!」

 目を丸くする保胤の表情を見て一葉は咄嗟に自分の発言を後悔した。

「ご、ごめんなさい……!!」

(最低! 傷を触らせて欲しいだなんて……なんてデリカシーのないことを……!)

 思わず保胤から距離を取るように一葉は後ろに下がる。

「あっ……!」

 後ずさりする一葉の腕を保胤は掴む。その顔は真剣で、どこか縋るような顔だった。

「……いいよ、あなたなら。僕の傷に触れて欲しい」

 保胤は掴んだ手を自らの左頬へと導く。自分で言っておきながら一葉は躊躇したが、それでも彼に導かれるままその頬に指先を落とす。

「い……痛くはないですか?」
 
 触れるか触れないかの距離を保ちながら一葉の指は一本線をなぞる。傷つけないよう慎重な手付きに保胤は苦笑しながら首を横に振った。

「今はもう全く」

 今は、もう。
 その言葉の意味を考えると一葉は切なくなった。

 保胤の傷は、左の小鼻の下から顎下までスパッと縦に切ったような形状をしていた。傷跡自体は歪みなく見事なほどの一本筋だが傷の深さは相当なものだ。周辺の皮膚が固く盛り上がり、薄ピンク色の筋が立っている。

「だけど……痛かった……でしょう?」
「もう忘れました。随分昔のことだから」

 保胤は瞳を閉じて一葉の掌に頬を寄せる。猫が甘えるようにすりすりと何度も頬ずりされて困惑したが保胤の好きなようにさせた。

(これまでこの傷に触れた人は誰かいるのかしら……)

 保胤さん、この広い館にいつから一人で住んでいるのだろう。
 お母様はいつ亡くなられたの。その時あなたは幾つだった?
 幾つであっても悲しかったに違いない。
 その時、あなたの傍には誰かいたの?

 その深い傷に寄り添ってくれる、誰か――

「さっき、嬉しかったです」

 目を瞑ったまま保胤が口を開く。

「傷を触られせて欲しいだなんて……そんな告白めいた言葉をあなたからもらえるだなんて」

 いつもの軽口でも戯言でもなく、心の底からそうしみじみと感じているような声だった。

「わ、私そんなつもりで言ったわけじゃ……!」
「分かっています」

 だけど、と保胤にしては珍しく切羽詰まった声。

「分かっては、いるんです」

 保胤の手に力が籠る。一葉の手を軽く持ち上げて掌に口づけを落とす。

「……いつかあなたが本当に僕のことを好きになってくれたらいいのになぁ」

 一葉は息を飲む。耐えるように下唇を噛んで保胤の頬からゆっくりと手を離していく。保胤はふっと笑って目を開け、一葉の手を自ら離した。

「ごめんなさい。あなたを困らせたいわけじゃないんだ」

 一葉のその態度が答えだと保胤は理解していた。

「どの口が……おっしゃってるんですか……」

 冷たい言葉で返した一葉の方が泣きそうだった。
 切なくて苦しくて、一葉は心の中でこの任務が早く終わることを願った。


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