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春の章
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しんと静まり返った厨房の床を拭きながら、子供の目は一心に過去を追いかけていた。
『今度会うときは士官様だぞ』
得意気に言った、誇らしく晴れやかな表情は今でも瞼の裏に焼きついている。
忘れようと思っても忘れられるはずかない。栄光と勝利の旅立ち。
『いいなあ、お兄ちゃんばっかりずるい』
『まあな。お前とはココが違うんだよ』
頭を指さして、にかりと歯を見せて豪快に笑う。
ふて腐れていると、兄は目元を引き締めて胸を張った。
『じゃあ、行ってくる』
そう言って頭の上に手を置いた――それが最後だった。
兄は一度も振り返らなかった。いつだって道の先を見つめ、何の迷いもなく進んでいった。
置き去りにされる者の気持ちなど推し測ろうともせずに。
そして――。
「よっ。お疲れさん」
出し抜けに声をかけられて子供は飛び上がった。
見ると、軽く片手を上げて立っていたのは、昼前に出くわした赤毛の候補生だった。
「ノイシュっていうんだっけか。でも、それも偽名なんだろ、お嬢さん」
見破られている。
お嬢さんと呼ばれた子供は、とっさに背後に立てかけてあった包丁を手に取った。
「さっきは食べ物くれてありがとね」
と言われて振り向くと、金髪のかわいらしい少年が退路を塞いでいる。
先ほど四人で食堂を訪れた彼らに、食料庫からちょろまかした食材を与えて追い払ったのだった。
「出ていって」
語尾が震え、膝がわなわなするのを止められない。
「怖がらせてしまってすまない。でも、僕たちは君に危害を加えるつもりはないんだ。どうか落ちついて、話だけでも聞いてくれないだろうか」
近づきかけたユリシスに、包丁を振り回して叫んだ。
「来ないで!」
「やめときな」
赤毛の少年は一歩ずつ慎重に距離を詰めた。
「慣れないもの振り回してると怪我するぞ」
事実、刃先は小刻みに揺れて方向も定まらず、両手で握りしめていても取り落としそうなほど震えていた。
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