Before long ―痛ガールたちのシェアハウス―

凪子

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【1】羽鳥七瀬

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この家はもともと普通の一軒家だったけど、紫が昨年に改築して現在のシェアハウスとしての造りになった。

不動産会社に仲介させて賃貸する予定だったらしいが、私や千代ちゃんは彼女の知り合いなので、破格の待遇で住まわせてもらっている。

食費は個人で負担することになっているが、実質千代ちゃんが作ってくれるので、材料費と手間賃として月々三万円、私と紫は千代ちゃんに渡している。

不動産業界で働いているから分かるけど、東京二十三区内、駅から徒歩十分圏内にこれだけの広い土地と一戸建てを購入すれば、費用は一億円を下らないはずだ。

取得の経緯を紫に聞いてみたところ、「お客さんに買ってもらった」という答えが返ってきて目まいがした。

土地つき一戸建てをぽんと買ってくれる客って……しかもそれ、紫と一緒に住む予定の家だったのでは?
いわゆる愛の巣ってやつだ。

おそるおそる聞くと、紫は笑って、

「向こうはそのつもりだったみたいだけどね。あんまりしつこいから別れたの」

悪女だ。しかも、ちゃっかり名義は自分のものにしているのだから恐れ入る。

幸い相手もすんなり引き下がってくれたため、紫は実費で改築を施し、現在の『痛ガールの家』ができ上がったというわけだ。

この家には改装直後から瑠依先生が管理人として住まい、紫自身は住む予定はなかったのだけれど、女の子一人というのも物騒だからということで同居するようになった。

そしてその年の冬、私は紫と再会した。

「彼氏できたんだって?」

回想していた私は、出し抜けに言われて紅茶を噴いた。

むせ返っていると、紫は「もう、何やってるの」と席を立ってコップに水を汲んでくる。

目に涙が浮かんできたのを、私は指で拭った。

「いきなり変なこと言わないでよ」

「あら、違うの?千代子ちゃんからそう聞いたけど」

千代ちゃんめ。私は彼女の部屋の扉を恨めしく見やった。

「勘違いだよ。モテまくりの紫様と違って、私に彼氏なんていませんから」

「何でもいいけど、騙されないようにしなさいよ」

私の軽い揶揄を聞き流し、紫はじっとこちらを見つめて言った。

この目。これなのだ。紫のとりこになる人間が後を絶たない理由。

紫は会話している相手を臆面もなくまじまじと見つめる。絶対に目を逸らさない。

その凝視に耐えかねて、大抵の人は視線を外す。

そしてもう一度目を戻すと、その間もずっと紫がこちらを見つめていたことに気づいて狼狽するのだ。

ここまで相手の目を見るのは逆に失礼という気もするけど、紫は多分わざとやっている。

相手との距離の近さ、興味を持っているという無言のメッセージ。

強力なエネルギーが瞳から放たれ、容赦なく攻め込まれていく。

「あんたは素直でいい子だけど、素直すぎて物事の裏を見ようとしないから。目に見える情報だけに頼りすぎないでね」

紫の言葉が少し気になって、私は聞き返した。

「どういうこと?」

「人間は日々変化するってこと。顔も年をとれば変わるし、肩書きだって会社を辞めればなくなる。通帳の残高を見せられても、そのお金が翌日には0円になってることだってある。目に見えるものが、そのまま確実な情報だと信じるなってこと」

「じゃあ、何を信じればいいの?」

私が尋ねると、紫は豊満な胸に手を置いた。

「頭で考えるだけじゃなくて、心にも聞いてみて。頭ではいいと思っても、心が嫌だって言ってるなら、その選択はやめたほうがいい」

「なるほど」

私は感慨深く頷いた。

まさか幼稚園のころからずっと好きだった人と、今こうして恋愛話をしているなんて。しかも、女同士として。

人生って本当に、思いもよらないことが起こるものだ。

紫というのは本名じゃない。そして戸籍上の彼女は、男性として登録されている。

手術によって肉体の一部を女性化した男性、いわゆるニューハーフだ。

実家が近所で二歳年上の彼は、紫になる前は少年として生きていた。

しかも、芸能界からスカウトが来るぐらいの美貌で有名だった。

お互い一人っ子で親同士も仲がよく、私と彼は頻繁に家を行き来して遊んでいた。

私は彼が大好きだった。

最初は優しいお兄ちゃんとして慕っていたが、小学校四年生くらいのときには、もう異性として見ていたように思う。

クラスの粗野で幼稚な同級生たちと違って、彼は知的で洗練されており、恋い焦がれるのも当然だった。

時折、彼が憂いを帯びた眼差しや翳りのある表情を見せることには気づいていたが、その理由を深く詮索したことはなかった。

本来の彼はとても寡黙で、本を読んだり、プラモデルを作るのに没頭していることが多かった。

私は彼のそばにある静寂を愛していたし、一緒にいるだけで心が落ちついた。

彼が彼女になったのは、高校二年生のときだ。

どうして打ち明けてくれたのかはいまだに分からないが、最初にそれを知ったのは多分私だと思う。

中学三年生の私に性同一性障害という概念は理解しづらいものだったけれど、それを聞いたとき、ああそうかと腑に落ちたのを覚えている。

こんなにも美しく人気者なのに、なぜか一度も彼女を作らず男子校に通っていたこと。

時々すごく苦しそうな、溺れる者の目をしていたこと。

生きづらさが深い闇となって彼を包み、呼吸をするだけで精いっぱいだった。

だから彼は何も言葉にできなかった。胸に重い石をいくつも沈めたまま、一歩ずつ足を引ききずって歩いて。

少しでも、その重みを取り除いてあげることはできないだろうか。

本当はその日、彼に呼び出されて私は期待していたのだ。もしかしたら、告白されるのではないかと。

付き合ってくれって言われたらどうしよう。

妄想が際限なく膨らみ、会いに行くまで期待で胸がはちきれそうだった。

でも失恋のショックと同時に私は、この人を守らなければいけないと思った。

深い傷を負い、寒さに震えるこの人に、私の思いを伝えることは追い打ちにしかならない。

彼が必要なのは温かい毛布と傷を癒す薬、暗闇を照らしてくれる灯りだった。

そのどれも私は持っていなかった。

でも、せめて立ち上がるための棒切れくらいにはなれるんじゃないかと思った。

「みっちゃんはみっちゃんだもん。胸を張って生きなよ」

気がつくと、そんな言葉が口をついていた。

うつむいていた彼が、顔を上げてこちらを見つめている。気詰まりなほどの真剣さで。

私はごくりと唾を飲んだ。

「どこにいても、何をしていても、みっちゃんがみっちゃんであることは変わらないよ。自分をやめることはできないもん。だから、えっと、何ていうか……。それでいいじゃん。何も怖いことなんてないよ」

手を握ると、彼の手はびっくりするぐらい冷たかった。

その氷のような体温を、今でも覚えている。

「ありがとう」

かすれた声で言って、彼は目を伏せた。

無言のまま、長い間ずっと私は震える手を握りしめていた。

――彼が失踪したのは、その日の深夜だった。
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