許された危険

凪子

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【1】アリオン

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もちろん、誰よりも幸せになりたいなんて思っちゃいないし、高望みするつもりもない。

手の上にあるものを指折り数えるだけでもまずまず幸せで、意図的に線引きされた安全圏の範囲内で暮らしてさえいれば脅かされることもない。

そこそこ充実した生活だ。


――なのに、なぜだろう。

虚しさとも退屈とも違う何かが心の中に滞り、絶えずささやき続けている。

正面から理由を尋ねるには億劫な、しかし放っておくには不愉快なしつこさで。

欠落を持て余しているのに、消化不良で胃が重い。



「おい、コピー機壊したの誰だ」

フロア中に響き渡るような胴間声に、居合わせた数名が肩を強張らせる。

しんと静まり返った室内に、気まずい沈黙が降りた。

何食わぬ顔でキーボードをたたく長い指と、突如として書類整理を始める慌ただしい物音と、椅子を引いてトイレに立つ人影。

それら全部を通過して、視線の矛先は彼に突き刺さる。

向井むかい

「はい」

返事が遅れるとさらなる叱責が飛んでくると分かっているので、英理えいりは素早く席を立った。

「いい加減にしろ。直せ早く」

「部長。でもですね、このプリンターは」

「PDFだよ。メールに添付するぐらい、何でできないんだよ」

五十代以上の上司に禁句なのは機械、英語、学歴の話だ。

世代の違いというのは恐ろしい。

今の五十代が入社するとき、日本はバブル景気に沸いていた。

まともな大学さえ出ていれば内定は両手に余るほどもらえ、囲い込みと称して内定者を沖縄やハワイに連れていく企業もあったというのだから恐れ入る。

ただ、事情や能力によって大学に進学しない、あるいはできなかった人がいることも忘れてはならない。

また今ほど英語教育が盛んでなく、由緒正しい日系企業が大半を占めていたため、英語に対する憧れとコンプレックスの表裏一体となっている人もよく見かける。

そして極めつけは頭脳が衰え、飲み込みが悪くなってきたころに押し寄せたIT化の波だ。

次々と入ってくる便利なツールを使いこなすだけの技量が追いつかず、かといって素直に教えを乞うだけの柔軟性は失われている。

かくして毎度のようにパソコンをフリーズさせる天才や、社内外を問わず機密メールを誤送信してしまう人騒がせな爆弾魔が大量発生してやまないのである。


「部長。それ、プリンターが壊れたんじゃないみたいですよ」

近くの席で知らぬ存ぜぬを通していた男が、さっと立ち上がって言った。

熊のように図体がでかく、いつもにこにことしていて打たれ強い。

入社七年目で名前は楢崎敦ならさき・あつし、英理の先輩に当たる人物だ。

楢崎はプリンターから資料を取り出すと、手際よく入れ替えてボタンを操作する。

紙は耳障りな音を立てて吸い込まれてゆく。

「PDFファイルを格納するフォルダと接続が切れて、エラーになってただけみたいですね。うん、これで大丈夫です」

と楢崎は言い、英理に、

「向井、入ってるかどうか確認して」

部長は精一杯の威厳を保つための涙ぐましい努力で、渋面をつくって腕を組み、楢橋の作業を見守っている。

英理は自分のパソコンから社内のデータを管理するパソコンにアクセスし、無事PDFファイルが格納されていることを確認すると、楢崎にそれを伝えた。
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