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【1】アリオン
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ようやく一件落着かとフロア内の空気も解けてきたところへ、
「ったく、本当に使えねえな。お前は」
英理は、それが自分のことを言っているのだと気づかなかった。
コンマ一秒遅れで、困惑と怒りに顔が燃える。
マイナス百度で沸騰する、回転式の火花。
その頃には、部長は背を向けて自席に戻るところだった。
「ゆとりはこれだから」
ぼそりと呟いた背中に、手にしたボールペンを思い切り突き立ててやりたいと思った。
「……いや、俺じゃねえし」
震える足でフロアを突っ切り、非常階段に出て、後ろ手で思いっきり音を立てて扉を閉める。せめてもの憂さ晴らしだ。
そして、空を見上げる。
叫ぶことなどできない。どこで誰が聞いているか分からないから。
――俺じゃねえし。
惨めさが込み上げてくるのを懸命に宥めようと、ゆっくりとまばたきを繰り返す。
よくあることだ。似たようなことはきっと、この瞬間も日本中で無数に起こっている。
別に大したことじゃない、適当に受け流しておけばいい。正面きって腹を立てるだけ損だ。
けれど何度経験しても心は慣れなくて、その度に言いようもなく摩耗することだけは避けられない。
――いっそ嫌な気持ちに全部蓋をして、ごみの日に捨てられたらいいのに。
それか、スイッチのように簡単にオンオフを切り替えられればいいのだ。
会社にいる間は心のスイッチをオフにして、家に帰ればオンにする。
そうすれば何も言われても平気だし、些細なことで一日中暗い気分にならずに済む。
傷つくこともなければ、心に墨汁が染み出してくることもない。
とりとめのない思考をさすらいながら、こごった息を吐き出して、昨夜の雨に濡れて錆びた手すりにもたれかかる。
空には霞む雲。
そろそろ戻らないとまた何か言われそうだと思い、時計に目を落とすと二分も経っていない。
一人きりで時間を潰すのは、意外と難しい。
煙草でも吸えたら手持無沙汰じゃないのにと思っていると、出し抜けにドアが開いた。
「こんにちは」
反射的に挨拶して頭を下げ、ばつの悪い気分をやり過ごす。
右手にバケツ、左手にモップを持った清掃員の中年女性が、仏頂面でこちらを凝視して言った。
「何しょぼくれた顔してるの」
え、と英理は言葉に詰まった。
「ったく、本当に使えねえな。お前は」
英理は、それが自分のことを言っているのだと気づかなかった。
コンマ一秒遅れで、困惑と怒りに顔が燃える。
マイナス百度で沸騰する、回転式の火花。
その頃には、部長は背を向けて自席に戻るところだった。
「ゆとりはこれだから」
ぼそりと呟いた背中に、手にしたボールペンを思い切り突き立ててやりたいと思った。
「……いや、俺じゃねえし」
震える足でフロアを突っ切り、非常階段に出て、後ろ手で思いっきり音を立てて扉を閉める。せめてもの憂さ晴らしだ。
そして、空を見上げる。
叫ぶことなどできない。どこで誰が聞いているか分からないから。
――俺じゃねえし。
惨めさが込み上げてくるのを懸命に宥めようと、ゆっくりとまばたきを繰り返す。
よくあることだ。似たようなことはきっと、この瞬間も日本中で無数に起こっている。
別に大したことじゃない、適当に受け流しておけばいい。正面きって腹を立てるだけ損だ。
けれど何度経験しても心は慣れなくて、その度に言いようもなく摩耗することだけは避けられない。
――いっそ嫌な気持ちに全部蓋をして、ごみの日に捨てられたらいいのに。
それか、スイッチのように簡単にオンオフを切り替えられればいいのだ。
会社にいる間は心のスイッチをオフにして、家に帰ればオンにする。
そうすれば何も言われても平気だし、些細なことで一日中暗い気分にならずに済む。
傷つくこともなければ、心に墨汁が染み出してくることもない。
とりとめのない思考をさすらいながら、こごった息を吐き出して、昨夜の雨に濡れて錆びた手すりにもたれかかる。
空には霞む雲。
そろそろ戻らないとまた何か言われそうだと思い、時計に目を落とすと二分も経っていない。
一人きりで時間を潰すのは、意外と難しい。
煙草でも吸えたら手持無沙汰じゃないのにと思っていると、出し抜けにドアが開いた。
「こんにちは」
反射的に挨拶して頭を下げ、ばつの悪い気分をやり過ごす。
右手にバケツ、左手にモップを持った清掃員の中年女性が、仏頂面でこちらを凝視して言った。
「何しょぼくれた顔してるの」
え、と英理は言葉に詰まった。
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