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【1】アリオン
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「分かってるって。今度の日曜だろ」
スマホの向こうで念を押す父の声に、英理は煩わしく応えて電話を切った。
「珍しい。英ちゃんがイライラしてる」
おどけたように言うのは、エプロン姿で台所に立っている女性で名を吉岡凜という。
英理の大学時代の後輩であり、三年ほど前から交際している相手でもあった。
お互い社会人になってからは一人暮らしで、週に一度は英理が凜の部屋を訪れる。
夕食をつくってくれるのは凜で、材料費は英理が負担する。
交通の利便性の悪さも手伝ってか、凛のほうが英理の家に来ることはあまりない。
たまには来るように誘っても、「英ちゃんの家、何にもないんだもん」と無邪気に断られる。
「定年したから暇なのか知らないけど、最近親父、しつこいんだよ。たまには実家に顔出せとか何とか」
二人がけのソファーでネクタイを緩めながら、英理はぼやいた。
「俺よか兄貴のほうが、よっぽど顔出してないってのに」
「きっと、大事な話があるんだよ」
背を向けたまま、凜が明るく言った。
元気印のポニーテールが弾むように揺れている。
「わざわざ息子二人をホテルに呼びつけるくらいだもん。重大発表あるんじゃない?」
「正直、予想はしてる」
こじんまりとした食卓に並ぶケチャップとマヨネーズを見つめ、英理は声を落とした。
「多分、再婚するんだよ」
「できた、今日も完璧」
できあがったオムライスを皿に盛りつけると、凜は円卓にそれらを並べ、大きなスプーンとフォークとサラダを横に置いた。
ミニトマトの鮮やかな赤が目にしみる。
「いただきます」
両手を合わせて唱和すると、英理はケチャップをかけずにオムライスを口に放り込んだ。
とろける卵にチキンライス、隠し味のチーズが口の中でまろやかに溶け合う。
「うまい」
「ありがと」
と凛はにっこりした。
「そっか。再婚ね……」
しみじみした様子でレタスを口に運んでいる。
「定年っていってもまだ六十だし、天下り先もいくつかあったみたいなのに、それ全部蹴ったのも、そういうことなんだよな」
「これからは第二の人生を、その人と一緒に歩みたいってことね」
言を引き継ぐと、凜は懸念を帯びた目つきで言った。
「やっぱり反対?英ちゃんは」
「いや、別にそういうわけじゃないけど……複雑ではあるな」
母が没したのは六年前、英理が大学に入学して数ヶ月後のことだった。
夏の暑い盛りで、アスファルトに伸びた影が異様に黒かったことをよく覚えている。
蝉の声がわんわんと耳にこだまして、何もかもが酷く遠かった。
「お見合いだったの」
と母は言った。
「この人しかいないと思って熱烈な恋愛をしたわけじゃないけれど、やっぱりお父さんと結婚してよかったと思う。おかげで有理や英理みたいに、可愛い子どもも持てたもの。今、とても幸せよ」
高校一年生くらいの頃だろうか、ふとしたきっかけで馴れ初め話をした母は、英理の頭を軽く撫でて微笑んだ。
気恥ずかしくて照れくさくて、何も言えず逃げるように部屋に戻ったような気がする。
その時はまだ、病魔の影など微塵も見られなかった。
――それとも母だけは、わずかにその兆しを感じていたのだろうか。
母がこの世を去った翌年、就職した兄は家を出て、英理も友達の家を泊まり歩いたり、外で夜を越すことが多くなった。
母のいない家に帰ることが怖かった。
誰も口にこそしなかったけれど、全員が同じ気持ちだったろうと英理は思う。
そして、あの家にぽつんと、たった一人きりで取り残された父は、どんどん年を取っていった――。
「英ちゃん」
声をかけられ、英理は手が止まっていることに気づいてはっとした。
スマホの向こうで念を押す父の声に、英理は煩わしく応えて電話を切った。
「珍しい。英ちゃんがイライラしてる」
おどけたように言うのは、エプロン姿で台所に立っている女性で名を吉岡凜という。
英理の大学時代の後輩であり、三年ほど前から交際している相手でもあった。
お互い社会人になってからは一人暮らしで、週に一度は英理が凜の部屋を訪れる。
夕食をつくってくれるのは凜で、材料費は英理が負担する。
交通の利便性の悪さも手伝ってか、凛のほうが英理の家に来ることはあまりない。
たまには来るように誘っても、「英ちゃんの家、何にもないんだもん」と無邪気に断られる。
「定年したから暇なのか知らないけど、最近親父、しつこいんだよ。たまには実家に顔出せとか何とか」
二人がけのソファーでネクタイを緩めながら、英理はぼやいた。
「俺よか兄貴のほうが、よっぽど顔出してないってのに」
「きっと、大事な話があるんだよ」
背を向けたまま、凜が明るく言った。
元気印のポニーテールが弾むように揺れている。
「わざわざ息子二人をホテルに呼びつけるくらいだもん。重大発表あるんじゃない?」
「正直、予想はしてる」
こじんまりとした食卓に並ぶケチャップとマヨネーズを見つめ、英理は声を落とした。
「多分、再婚するんだよ」
「できた、今日も完璧」
できあがったオムライスを皿に盛りつけると、凜は円卓にそれらを並べ、大きなスプーンとフォークとサラダを横に置いた。
ミニトマトの鮮やかな赤が目にしみる。
「いただきます」
両手を合わせて唱和すると、英理はケチャップをかけずにオムライスを口に放り込んだ。
とろける卵にチキンライス、隠し味のチーズが口の中でまろやかに溶け合う。
「うまい」
「ありがと」
と凛はにっこりした。
「そっか。再婚ね……」
しみじみした様子でレタスを口に運んでいる。
「定年っていってもまだ六十だし、天下り先もいくつかあったみたいなのに、それ全部蹴ったのも、そういうことなんだよな」
「これからは第二の人生を、その人と一緒に歩みたいってことね」
言を引き継ぐと、凜は懸念を帯びた目つきで言った。
「やっぱり反対?英ちゃんは」
「いや、別にそういうわけじゃないけど……複雑ではあるな」
母が没したのは六年前、英理が大学に入学して数ヶ月後のことだった。
夏の暑い盛りで、アスファルトに伸びた影が異様に黒かったことをよく覚えている。
蝉の声がわんわんと耳にこだまして、何もかもが酷く遠かった。
「お見合いだったの」
と母は言った。
「この人しかいないと思って熱烈な恋愛をしたわけじゃないけれど、やっぱりお父さんと結婚してよかったと思う。おかげで有理や英理みたいに、可愛い子どもも持てたもの。今、とても幸せよ」
高校一年生くらいの頃だろうか、ふとしたきっかけで馴れ初め話をした母は、英理の頭を軽く撫でて微笑んだ。
気恥ずかしくて照れくさくて、何も言えず逃げるように部屋に戻ったような気がする。
その時はまだ、病魔の影など微塵も見られなかった。
――それとも母だけは、わずかにその兆しを感じていたのだろうか。
母がこの世を去った翌年、就職した兄は家を出て、英理も友達の家を泊まり歩いたり、外で夜を越すことが多くなった。
母のいない家に帰ることが怖かった。
誰も口にこそしなかったけれど、全員が同じ気持ちだったろうと英理は思う。
そして、あの家にぽつんと、たった一人きりで取り残された父は、どんどん年を取っていった――。
「英ちゃん」
声をかけられ、英理は手が止まっていることに気づいてはっとした。
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