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第1話
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「家でも、そういう本ばっか読んでんのか?」
男性の優しい声が耳に入ってきた。ゆっくり顔を上げていく。すると、微笑みを浮かべた男性と目が合った。
無造作のショートヘアにダークネイビーのシャツ。シャツのボタンはきちんと首元まで閉めてあるものの袖は肘まで捲くられていた。
そして腰には黒のショートエプロン。そう、彼はこの店のマスターだ。
「あっ……と、そうですね。最近は、こういう本ばかりかも……」
手元の本に目を向けながら答える。予想外の出来事に頭が混乱し始めた。
(あれ? ここのマスターって、話し掛けてくることあったの?)
声が掛かれば対応する。彼のその接客姿勢は、注文を取る時ですら崩れることはなかった。それなのに――。
「ここ、座ってもいいか?」
真向かいの席を指差すと、マスターは相席まで求めてきたのだった。
「は、はい。どう、ぞ」
すごくぎこちない返事。にも関わらず、彼はまったく気にすることなく、それどころか、表情を緩めて席に座るとすぐに口を開いた。
「それ、マネジメントの本だろ? 俺も読んだことがある。と言っても、かなり前にだけどな。……懐かしいな。少しだけ見せてもらってもいいか?」
マスターが手を差し出してくる。考えるよりも先に本を手渡していた。
(やっぱり、落ち着かない……)
心臓が激しく脈を打っている。それもそのはず、出来るだけ視界に入れないよう気をつけていた人物が目の前にいるのだ。しかも、注意を向けざるを得ないような状況で。
(そうだよ、マスターは本を見てるんだから、わたしがマスターのことを見てる必要はないよね)
彼を視界から外してしまえば、多少はマシになるかもしれない。あからさまにならないよう、そっと視線を逸らしていく。
「そういえば、文音ちゃんはいつも眉間に皺を寄せながら本読んでるよな」
「えっ、本当ですか」
文音は驚いてマスターに目を向けた。そして息を吐きながら目をつぶると、文音は指先で眉間をほぐし始めた。
「…………って、え? 今わたしの名前言いました?」
「気づいたか」
目を開けて真っ直ぐにマスターを見る。けれど彼は、本から目を離そうとしなかった。
(うーん? わたし、マスターに名前言ったことあったっけ?)
首を傾げながら視線を上へと遣る。初めてこの店を訪れたのは、たしか四ヶ月ほど前。落ち着いた店の雰囲気とマスターが淹れてくれるカフェラテの味が気に入り、以来会社が休みの日には必ず行くようにしていた。
(顔を覚えられてるっていうのは、わかるんだけど……)
この店の価格はカフェとしては高めに設定されており、いつも頼んでいるカフェラテは一杯800円もする。そのせいか客は非常に少なく、さらに言うと、自分が訪れる午前の時間帯にいる店員はいつもマスター一人だけだった。
(それでも、注文する以外にマスターとは話したことないよね……。て……まさか)
文音は、本を読み続ける人物の顔をじっと見ながら言葉を口にした。
「どうして、わたしの名前を知ってるんですか?」
口元に笑みが浮かぶ。彼は手元に視線を据えたまま静かに本を閉じた。
そして本を脇へと置き、おもむろに頬杖を突く。
最後に意味深な眼差しを向けて、ようやくマスターは口を開いた。
「どうしてだと思う? 葭葉文音ちゃん」
「え……」
思いも寄らない返答に文音は茫然とする。そんな反応に対し、マスターはただただ柔らかい笑みを返してくるだけだった。
(一体……どういうこと?)
文音が眉間に皺を寄せる。と、マスターが表情を崩して笑った。
「ああ、心配するな。第三者から情報を得て知ったわけではない。名前を知ったのは、店で文音ちゃんと接していた時に、だ」
「よ、かったぁ……」
文音はほっと胸をなで下ろし、椅子にもたれた。
「で、どうだ?」
マスターが答えを促してくる。文音は口元に手を置くと、ゆっくり身体を起こながら目を閉じた。
「えっと……そうですね」
ここへはいつも一人で来ているし、知り合いに出くわしたこともない。つまり、名前を耳にして知ったというわけではなさそうだ。
(てことは、名前が書いてあるモノを目にしたのかな。でも「文音」を「ふみね」って読む人もいるし……そこは当てずっぽうだったとか?)
「ヒントいるか?」
マスターの呼びかけに瞼を開ける。すると、答えが楽しみで仕方がない、と言わんばかりの笑顔が目に入り込んできた。
「…………いえ、もう少しだけ待ってください」
「ああ、構わない。好きなだけいいぞ。どうせ今、暇だしな」
「え、暇って――」
上半身をひねり辺りを見渡す。店には自分とマスター以外、誰もいなかった。
(なんだ、マスターは暇だったから話し掛けてきたのね)
無人の客席を眺めながら文音は苦笑した。
(そういえば、平日に来たのって今日が初めてだ。いつもこんな感じなのかな? もしそうなら、支払いがクレジットカードのみっていうのが絶対影響してると思うんだよね)
価格といい、決済方法といい、この店の客層はかなり限られそうだ。
(……ん? クレジットカード……)
裏面にある署名は漢字にしてあるが、表面にはローマ字で名前が表記されている。それを見れば読み方までばっちり分かるのではないだろうか。
「もしかして、クレジットカードですか?」
顔を合わせて文音は答えを口にした。すると、マスターが嬉しそうに笑んだ。
「すごいな、正解だ」
「やったー」
文音は相好を崩して喜んだ。そしてテーブルの上に少しだけ身を乗りし、文音は声を弾ませて言葉を発していった。
「そうだ、当てたご褒美にマスターの名前教えてください。マスターはわたしの名前を知ってるのに、わたしの方は知らないだなんて、なんかちょっと落ち着かないので」
マスターは頬杖をついたまま、ニヤッと笑った。
「何て名前だと思う?」
「え……ええっ!? 名前もクイズにするんですか!」
「すぐに答えが分かったらつまらないだろ」
そう言うと、マスターは悠然と腕を組みながら椅子に身体を預けていった。どうやら本気のようだ。彼は顎に手を添えて、じっとこちらを見つめ始めたのだった。
「え、えーっと……」
視線を落とすようにして文音は目を閉じた。
(やっぱ仕事以外でイケメンと目を合わせるのってニガテだなぁ……)
そう、いつも彼を見ないようにしていたのは、マスターが端整すぎる顔立ちをしていたからなのだ。
(しかもマスターの目って、わたし好みの垂れ目なんだよね……。本当困る)
きっと彼を直視することが出来ないのは、自分に自信がないからに違いない。だからこうして、休みの日にも必死に勉強をしているのだ。
(……どっちみち、独りで生きてかなきゃいけないんだから、いっぱいしないと――)
そう思った途端、目元に熱が広がるのを感じた。文音は慌ててマスターの質問に意識を振った。
(っと、そうだ! マスターがお客さんに呼ばれた時のこと思い出してみよっ)
「…………」
数十秒後、文音は文字通り頭を抱えた。
(どれもみんな「マスター」って言ってるよー……)
そもそも彼が、皆から「マスター」と呼ばれていたから自分もそう呼び始めたのだ。そのことに思い至ると、文音は崩れ落ちるようにしてテーブルに突っ伏した。
「ヒント、欲しいか?」
マスターの言葉にぴくりと身体が反応する。ヒントがあるということは、名前を当てられる可能性が自分にはあるということなのだろうか。そんな思いを胸に、文音は顔を上げた。
(もしかして、わたし……からかわれてる?)
瞼を半分ほど下ろし、文音は口元を手で隠して笑っている人物を見た。
(……絶対にマスターの名前、当てやる!)
文音はそう決意すると、そっぽを向くようにして店内へと顔を向けた。
(たしか、プレートみたいなものに書いてあるはず)
飲食店には「食品衛生責任者」を提示する義務がある。以前、たまたま手にした飲食店経営の本にそう書いてあったことを思い出す。
(あった! ふふっ、これでわたしの勝ち!)
責任者とあるのだから、きっとマスターの名前が載っているはずだ。文音は胸をわくわくさせながら、プレートに書かれた名前を目でなぞった。
(一之瀬……歌緒理。あれ、女性の名前? マスターの名前じゃ……ないよね。残念、ダメだったかぁ……。にしても、このお店に女性の店員さんがいたんだね。全然知らなかった)
プレートからカウンターへと視線を移す。とその時、文音は小さく声を漏らした。
(この前、マスターが自分の席で「知らない」男の子と親しげに話してた! そう、たしかあの時――)
本を読むことに没頭してしまい、いつもより長く店にいた日の出来事だ。
ふと時間が過ぎていることに気づいた文音は、急いで会計を済ませようと顔を上げた。
するとマスターは、客と思われる二十代前半くらいの男性と雑談をしていたのだった。しかも、普段彼が座っているカウンター席に腰を下ろした状態で。
何とも珍しい光景に、文音の関心事が二人へと移る。
『おまえさ、本当にアメリカで何もなかったのかよ』
『残念ながら、キョウヤさんのお役に立てるような出来事は何もなかったですよ』
『またそうやって、おまえは自分のこと話さないよな』
『そうですね。ひとまずキョウヤさんのオススメをいただけますか』
『はいはい』
軽い調子で返事をするとマスターは席を立った。その直後に目が合う。彼はこちらの状況を察したのか、ふっと笑うと、真っ直ぐレジへと向かってくれたのだった。
「……キョウヤさん」
男の子が口にしていた名前を呟く。
「キョウヤさん。そう、キョウヤさん。マスターの名前は、『キョウヤ』さん!」
会心の笑みを添えて、文音は答えを口にした。
目を大きく開け、驚くマスター。文音はそれを期待していた。
しかし、実際に文音が目にしたのは、必死に笑いを堪えるマスター、だった。
(え……わたしってば、自信満々に間違えを口にしたの?)
頬がかぁっと熱くなる。文音は堪らず声を上げた。
「もう! 人の名前なんて簡単に当てられるわけないじゃないですか!」
「……だ」
マスターが口を開ける。笑いすぎて涙まで出たのか、彼は指先を目尻にあてた。
「正解だ。京也だ。すごいな、思い出せたのか」
「へ? ……当たってたんですか?」
文音は数回、目を瞬かせる。そして今度は、全身を使って喜びを表したのだった。
「って、当たってたなら、なんで笑ってたんですか」
はたと我に返り、文音はふたたび頬を赤く染めて、ニコニコ顔の人物を睨んだ。
「いや、面白半分で無茶ぶりしてみたら、文音ちゃんが必死に考え始めて、ッ。その時の様子がまた……ははっ」
「やっぱりからかってたんですね!」
「悪い悪い。いやでも、本当、面白かった。俺の無茶ぶりに、まさかここまで、真面目に付き合ってくれる子がいたとはな。文音ちゃんが初だわ……くっ」
「それならそのお礼として、今度はクイズ形式なしで京也さんの苗字を教えてください」
「そうだなー……」
京也が思案するポーズを取る。しかし、顔は思いっ切りニヤついていた。
「もー、なんでそんなに勿体ぶるんですか」
ふにゃりとテーブルの上に倒れ込み、文音は恨めしそうに京也を見上げた。
目元を緩めて微笑む京也。思い掛けない反応に、文音は言葉を詰まらせた。
しばらくその状態で互いに見合っていると、不意に、涼しげなドアチャイムの音色が割り込んできた。
「早いな」
京也が視線を外し、呟く。それからすぐに文音へと視線を戻すと、京也はゆっくりと席から立ち上がった。
「まぁ、下の名前が分かっていれば当分の間は十分だろ。そうだな、これからもちゃんと店に通い続けていれば、案外すぐに分かるかもな。てことで、引き続きよろしく。文音ちゃん」
最後にニッと笑った後、京也は文音の反応も見ずにカウンターの中へと入っていった。
そして、無駄のない動きでハンドドリップの用意を済ませると、彼はお湯を注ぎ始めたのだった。
(注文も取らずにコーヒー淹れ始めたけど、今来たのは常連さんかな? ……そういえばわたし、京也さんが淹れるとこも見てなかったな)
珈琲の芳しい香りに包まれているのだろうか。彼の口元には自然な笑みが浮かんでいた。
(ふふっ、幸せそう)
気持ちが解れ、表情が緩んでいく。とそこで、京也が目だけを動かしてこっちを見てきた。
心臓が大きく跳ね上がる。文音は恥ずかしさから目を背けようとした。しかし――。
(え……)
自分よりも先に、京也が目を逸らしたのだった。初めて見る彼の行動に、文音は驚きを覚えた。
(……れ……変だな、胸が、まだドキドキして……)
ゆっくり本に目を向けていく。しばらくしても動悸はおさまる気配をみせなかった。
(ダメだ……全然頭に入らない)
目が無意識に京也の姿を捉える。すると、今度は目が合ったわけでもないのに、みるみると脈拍が上がっていった。
「帰るのか?」
「は、はい」
珈琲を提供し終えた京也が声を掛けてくる。文音は荷物をまとめながら答えると、足早にレジへと向かった。
キャッシュトレイにカードを置き、文音は京也の顔を見ないよう意識した。
「じゃあ、またな」
「えっ」
京也の言葉に、思わず顔を上げる。
(挨拶が違う……いつも「どうも」って言ってたのに)
今のは、また会う約束でもするかのような、そんなような言葉ではないか。
「……あ、はい。また」
胸が勝手に高鳴り始める。
文音はカードを受け取ると、逃げるようにして店を後にした。
(まさか、わたし、もう……)
息を切らしながら店の角を曲がる。するとすぐに、自宅マンションのエントランスが見えた。エントランスに入り、オートロックの操作パネルに鍵をかざして解錠する。郵便受け素通りし、文音は真っ直ぐにエレベーターへと向かった。
エレベーターに乗り込み、エントランスのオートロックと同様に鍵をかざす。解除の音が聞こえると、文音はすぐさまボタンを押した。
『その階には停まりません』
エラーを告げるアナウンスが流れる。文音は息を吸って吐くと、自宅のある三階のボタンをしっかり見ながら押した。エレベーターがゆっくり動き始める。
(あと少しだから……もう少しで家に着くから……待って、わたし)
ひたすら自分に言い聞かせて自宅へ向かう。文音は部屋に戻るなりベッドに倒れ込んだ。
「……っダメだよ。この身体じゃ、ダメなの。もう苦しい思いは嫌なの。だから……だから好きになっちゃダメなの。好きになったら、苦しくなるだけだからっ」
目をぎゅっとつぶる。その途端、大粒の涙がシーツの上に落ちていった。
唇を噛みしめ、文音は沸き起こる感情を必死に押し殺そうとした。
「……!」
突然、室内に振動音が響いた。文音は少しだけ逡巡するも、身体を起こし、手の甲で目元を擦った。鞄からスマホを取り出し、チャットアプリを開く。送信者は数時間前までやり取りしていた会社の後輩で、内容は先ほど発覚した商品トラブルに関する相談だった。
「……早く、マネージャーにならなくちゃ。マネージャーになって、もっと働きやすい環境を作らないと……」
こんなことをしている場合ではない。困っている人達を助けるために、やらなければいけないことがたくさんあるのだ。
「大丈夫。わたしなら出来る。独りでもやれる。独りでも生きていける。独りでも、わたしはっ――」
言葉を口にすればするほど、目の前の景色は滲んでいった。
男性の優しい声が耳に入ってきた。ゆっくり顔を上げていく。すると、微笑みを浮かべた男性と目が合った。
無造作のショートヘアにダークネイビーのシャツ。シャツのボタンはきちんと首元まで閉めてあるものの袖は肘まで捲くられていた。
そして腰には黒のショートエプロン。そう、彼はこの店のマスターだ。
「あっ……と、そうですね。最近は、こういう本ばかりかも……」
手元の本に目を向けながら答える。予想外の出来事に頭が混乱し始めた。
(あれ? ここのマスターって、話し掛けてくることあったの?)
声が掛かれば対応する。彼のその接客姿勢は、注文を取る時ですら崩れることはなかった。それなのに――。
「ここ、座ってもいいか?」
真向かいの席を指差すと、マスターは相席まで求めてきたのだった。
「は、はい。どう、ぞ」
すごくぎこちない返事。にも関わらず、彼はまったく気にすることなく、それどころか、表情を緩めて席に座るとすぐに口を開いた。
「それ、マネジメントの本だろ? 俺も読んだことがある。と言っても、かなり前にだけどな。……懐かしいな。少しだけ見せてもらってもいいか?」
マスターが手を差し出してくる。考えるよりも先に本を手渡していた。
(やっぱり、落ち着かない……)
心臓が激しく脈を打っている。それもそのはず、出来るだけ視界に入れないよう気をつけていた人物が目の前にいるのだ。しかも、注意を向けざるを得ないような状況で。
(そうだよ、マスターは本を見てるんだから、わたしがマスターのことを見てる必要はないよね)
彼を視界から外してしまえば、多少はマシになるかもしれない。あからさまにならないよう、そっと視線を逸らしていく。
「そういえば、文音ちゃんはいつも眉間に皺を寄せながら本読んでるよな」
「えっ、本当ですか」
文音は驚いてマスターに目を向けた。そして息を吐きながら目をつぶると、文音は指先で眉間をほぐし始めた。
「…………って、え? 今わたしの名前言いました?」
「気づいたか」
目を開けて真っ直ぐにマスターを見る。けれど彼は、本から目を離そうとしなかった。
(うーん? わたし、マスターに名前言ったことあったっけ?)
首を傾げながら視線を上へと遣る。初めてこの店を訪れたのは、たしか四ヶ月ほど前。落ち着いた店の雰囲気とマスターが淹れてくれるカフェラテの味が気に入り、以来会社が休みの日には必ず行くようにしていた。
(顔を覚えられてるっていうのは、わかるんだけど……)
この店の価格はカフェとしては高めに設定されており、いつも頼んでいるカフェラテは一杯800円もする。そのせいか客は非常に少なく、さらに言うと、自分が訪れる午前の時間帯にいる店員はいつもマスター一人だけだった。
(それでも、注文する以外にマスターとは話したことないよね……。て……まさか)
文音は、本を読み続ける人物の顔をじっと見ながら言葉を口にした。
「どうして、わたしの名前を知ってるんですか?」
口元に笑みが浮かぶ。彼は手元に視線を据えたまま静かに本を閉じた。
そして本を脇へと置き、おもむろに頬杖を突く。
最後に意味深な眼差しを向けて、ようやくマスターは口を開いた。
「どうしてだと思う? 葭葉文音ちゃん」
「え……」
思いも寄らない返答に文音は茫然とする。そんな反応に対し、マスターはただただ柔らかい笑みを返してくるだけだった。
(一体……どういうこと?)
文音が眉間に皺を寄せる。と、マスターが表情を崩して笑った。
「ああ、心配するな。第三者から情報を得て知ったわけではない。名前を知ったのは、店で文音ちゃんと接していた時に、だ」
「よ、かったぁ……」
文音はほっと胸をなで下ろし、椅子にもたれた。
「で、どうだ?」
マスターが答えを促してくる。文音は口元に手を置くと、ゆっくり身体を起こながら目を閉じた。
「えっと……そうですね」
ここへはいつも一人で来ているし、知り合いに出くわしたこともない。つまり、名前を耳にして知ったというわけではなさそうだ。
(てことは、名前が書いてあるモノを目にしたのかな。でも「文音」を「ふみね」って読む人もいるし……そこは当てずっぽうだったとか?)
「ヒントいるか?」
マスターの呼びかけに瞼を開ける。すると、答えが楽しみで仕方がない、と言わんばかりの笑顔が目に入り込んできた。
「…………いえ、もう少しだけ待ってください」
「ああ、構わない。好きなだけいいぞ。どうせ今、暇だしな」
「え、暇って――」
上半身をひねり辺りを見渡す。店には自分とマスター以外、誰もいなかった。
(なんだ、マスターは暇だったから話し掛けてきたのね)
無人の客席を眺めながら文音は苦笑した。
(そういえば、平日に来たのって今日が初めてだ。いつもこんな感じなのかな? もしそうなら、支払いがクレジットカードのみっていうのが絶対影響してると思うんだよね)
価格といい、決済方法といい、この店の客層はかなり限られそうだ。
(……ん? クレジットカード……)
裏面にある署名は漢字にしてあるが、表面にはローマ字で名前が表記されている。それを見れば読み方までばっちり分かるのではないだろうか。
「もしかして、クレジットカードですか?」
顔を合わせて文音は答えを口にした。すると、マスターが嬉しそうに笑んだ。
「すごいな、正解だ」
「やったー」
文音は相好を崩して喜んだ。そしてテーブルの上に少しだけ身を乗りし、文音は声を弾ませて言葉を発していった。
「そうだ、当てたご褒美にマスターの名前教えてください。マスターはわたしの名前を知ってるのに、わたしの方は知らないだなんて、なんかちょっと落ち着かないので」
マスターは頬杖をついたまま、ニヤッと笑った。
「何て名前だと思う?」
「え……ええっ!? 名前もクイズにするんですか!」
「すぐに答えが分かったらつまらないだろ」
そう言うと、マスターは悠然と腕を組みながら椅子に身体を預けていった。どうやら本気のようだ。彼は顎に手を添えて、じっとこちらを見つめ始めたのだった。
「え、えーっと……」
視線を落とすようにして文音は目を閉じた。
(やっぱ仕事以外でイケメンと目を合わせるのってニガテだなぁ……)
そう、いつも彼を見ないようにしていたのは、マスターが端整すぎる顔立ちをしていたからなのだ。
(しかもマスターの目って、わたし好みの垂れ目なんだよね……。本当困る)
きっと彼を直視することが出来ないのは、自分に自信がないからに違いない。だからこうして、休みの日にも必死に勉強をしているのだ。
(……どっちみち、独りで生きてかなきゃいけないんだから、いっぱいしないと――)
そう思った途端、目元に熱が広がるのを感じた。文音は慌ててマスターの質問に意識を振った。
(っと、そうだ! マスターがお客さんに呼ばれた時のこと思い出してみよっ)
「…………」
数十秒後、文音は文字通り頭を抱えた。
(どれもみんな「マスター」って言ってるよー……)
そもそも彼が、皆から「マスター」と呼ばれていたから自分もそう呼び始めたのだ。そのことに思い至ると、文音は崩れ落ちるようにしてテーブルに突っ伏した。
「ヒント、欲しいか?」
マスターの言葉にぴくりと身体が反応する。ヒントがあるということは、名前を当てられる可能性が自分にはあるということなのだろうか。そんな思いを胸に、文音は顔を上げた。
(もしかして、わたし……からかわれてる?)
瞼を半分ほど下ろし、文音は口元を手で隠して笑っている人物を見た。
(……絶対にマスターの名前、当てやる!)
文音はそう決意すると、そっぽを向くようにして店内へと顔を向けた。
(たしか、プレートみたいなものに書いてあるはず)
飲食店には「食品衛生責任者」を提示する義務がある。以前、たまたま手にした飲食店経営の本にそう書いてあったことを思い出す。
(あった! ふふっ、これでわたしの勝ち!)
責任者とあるのだから、きっとマスターの名前が載っているはずだ。文音は胸をわくわくさせながら、プレートに書かれた名前を目でなぞった。
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プレートからカウンターへと視線を移す。とその時、文音は小さく声を漏らした。
(この前、マスターが自分の席で「知らない」男の子と親しげに話してた! そう、たしかあの時――)
本を読むことに没頭してしまい、いつもより長く店にいた日の出来事だ。
ふと時間が過ぎていることに気づいた文音は、急いで会計を済ませようと顔を上げた。
するとマスターは、客と思われる二十代前半くらいの男性と雑談をしていたのだった。しかも、普段彼が座っているカウンター席に腰を下ろした状態で。
何とも珍しい光景に、文音の関心事が二人へと移る。
『おまえさ、本当にアメリカで何もなかったのかよ』
『残念ながら、キョウヤさんのお役に立てるような出来事は何もなかったですよ』
『またそうやって、おまえは自分のこと話さないよな』
『そうですね。ひとまずキョウヤさんのオススメをいただけますか』
『はいはい』
軽い調子で返事をするとマスターは席を立った。その直後に目が合う。彼はこちらの状況を察したのか、ふっと笑うと、真っ直ぐレジへと向かってくれたのだった。
「……キョウヤさん」
男の子が口にしていた名前を呟く。
「キョウヤさん。そう、キョウヤさん。マスターの名前は、『キョウヤ』さん!」
会心の笑みを添えて、文音は答えを口にした。
目を大きく開け、驚くマスター。文音はそれを期待していた。
しかし、実際に文音が目にしたのは、必死に笑いを堪えるマスター、だった。
(え……わたしってば、自信満々に間違えを口にしたの?)
頬がかぁっと熱くなる。文音は堪らず声を上げた。
「もう! 人の名前なんて簡単に当てられるわけないじゃないですか!」
「……だ」
マスターが口を開ける。笑いすぎて涙まで出たのか、彼は指先を目尻にあてた。
「正解だ。京也だ。すごいな、思い出せたのか」
「へ? ……当たってたんですか?」
文音は数回、目を瞬かせる。そして今度は、全身を使って喜びを表したのだった。
「って、当たってたなら、なんで笑ってたんですか」
はたと我に返り、文音はふたたび頬を赤く染めて、ニコニコ顔の人物を睨んだ。
「いや、面白半分で無茶ぶりしてみたら、文音ちゃんが必死に考え始めて、ッ。その時の様子がまた……ははっ」
「やっぱりからかってたんですね!」
「悪い悪い。いやでも、本当、面白かった。俺の無茶ぶりに、まさかここまで、真面目に付き合ってくれる子がいたとはな。文音ちゃんが初だわ……くっ」
「それならそのお礼として、今度はクイズ形式なしで京也さんの苗字を教えてください」
「そうだなー……」
京也が思案するポーズを取る。しかし、顔は思いっ切りニヤついていた。
「もー、なんでそんなに勿体ぶるんですか」
ふにゃりとテーブルの上に倒れ込み、文音は恨めしそうに京也を見上げた。
目元を緩めて微笑む京也。思い掛けない反応に、文音は言葉を詰まらせた。
しばらくその状態で互いに見合っていると、不意に、涼しげなドアチャイムの音色が割り込んできた。
「早いな」
京也が視線を外し、呟く。それからすぐに文音へと視線を戻すと、京也はゆっくりと席から立ち上がった。
「まぁ、下の名前が分かっていれば当分の間は十分だろ。そうだな、これからもちゃんと店に通い続けていれば、案外すぐに分かるかもな。てことで、引き続きよろしく。文音ちゃん」
最後にニッと笑った後、京也は文音の反応も見ずにカウンターの中へと入っていった。
そして、無駄のない動きでハンドドリップの用意を済ませると、彼はお湯を注ぎ始めたのだった。
(注文も取らずにコーヒー淹れ始めたけど、今来たのは常連さんかな? ……そういえばわたし、京也さんが淹れるとこも見てなかったな)
珈琲の芳しい香りに包まれているのだろうか。彼の口元には自然な笑みが浮かんでいた。
(ふふっ、幸せそう)
気持ちが解れ、表情が緩んでいく。とそこで、京也が目だけを動かしてこっちを見てきた。
心臓が大きく跳ね上がる。文音は恥ずかしさから目を背けようとした。しかし――。
(え……)
自分よりも先に、京也が目を逸らしたのだった。初めて見る彼の行動に、文音は驚きを覚えた。
(……れ……変だな、胸が、まだドキドキして……)
ゆっくり本に目を向けていく。しばらくしても動悸はおさまる気配をみせなかった。
(ダメだ……全然頭に入らない)
目が無意識に京也の姿を捉える。すると、今度は目が合ったわけでもないのに、みるみると脈拍が上がっていった。
「帰るのか?」
「は、はい」
珈琲を提供し終えた京也が声を掛けてくる。文音は荷物をまとめながら答えると、足早にレジへと向かった。
キャッシュトレイにカードを置き、文音は京也の顔を見ないよう意識した。
「じゃあ、またな」
「えっ」
京也の言葉に、思わず顔を上げる。
(挨拶が違う……いつも「どうも」って言ってたのに)
今のは、また会う約束でもするかのような、そんなような言葉ではないか。
「……あ、はい。また」
胸が勝手に高鳴り始める。
文音はカードを受け取ると、逃げるようにして店を後にした。
(まさか、わたし、もう……)
息を切らしながら店の角を曲がる。するとすぐに、自宅マンションのエントランスが見えた。エントランスに入り、オートロックの操作パネルに鍵をかざして解錠する。郵便受け素通りし、文音は真っ直ぐにエレベーターへと向かった。
エレベーターに乗り込み、エントランスのオートロックと同様に鍵をかざす。解除の音が聞こえると、文音はすぐさまボタンを押した。
『その階には停まりません』
エラーを告げるアナウンスが流れる。文音は息を吸って吐くと、自宅のある三階のボタンをしっかり見ながら押した。エレベーターがゆっくり動き始める。
(あと少しだから……もう少しで家に着くから……待って、わたし)
ひたすら自分に言い聞かせて自宅へ向かう。文音は部屋に戻るなりベッドに倒れ込んだ。
「……っダメだよ。この身体じゃ、ダメなの。もう苦しい思いは嫌なの。だから……だから好きになっちゃダメなの。好きになったら、苦しくなるだけだからっ」
目をぎゅっとつぶる。その途端、大粒の涙がシーツの上に落ちていった。
唇を噛みしめ、文音は沸き起こる感情を必死に押し殺そうとした。
「……!」
突然、室内に振動音が響いた。文音は少しだけ逡巡するも、身体を起こし、手の甲で目元を擦った。鞄からスマホを取り出し、チャットアプリを開く。送信者は数時間前までやり取りしていた会社の後輩で、内容は先ほど発覚した商品トラブルに関する相談だった。
「……早く、マネージャーにならなくちゃ。マネージャーになって、もっと働きやすい環境を作らないと……」
こんなことをしている場合ではない。困っている人達を助けるために、やらなければいけないことがたくさんあるのだ。
「大丈夫。わたしなら出来る。独りでもやれる。独りでも生きていける。独りでも、わたしはっ――」
言葉を口にすればするほど、目の前の景色は滲んでいった。
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