君と紡ぐ物語

桜糀いろは

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第2話

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「浮かない顔、してるな」
 京也の声がした。顔を上げてみると、すぐ側に彼が立っていた。
「何か、悩でるのか?」
「い、いえ。何も……」
 テーブルに片手を突き、京也が真剣な面持ちで顔を覗き込んでくる。その視線をかわすように文音は店内へと目を遣った。
(え、何で? 何で誰もいないの? 今日、日曜だよね?)
 初めて京也と雑談をかわしてから二ヶ月くらい経っただろうか。あれ以来、二人きりになるのを避けるために、文音は行く日を土日だけに限定していた。もちろん店にさえ行かなければ確実に彼を避けることは出来る。しかし、どうしても癒やしが欲しかったのだ。大好きなカフェラテを飲みながら本を読むという癒やしが。
(まぁ、もう平気になったから良いんだけどね)
 こうして彼の顔を間近に見ても、彼と二人きりになったとしても、心はまったく動じていない。独りで生きていく。その意志をもって、彼に少しずつ慣れていったのだ。
(にしてもこのお店。家賃とかお給料とかちゃんと払えてるのかな)
 価格を高めに設定してあるとはいえ、こんな状態で利益が出ているとは思えない。この店は一体、どういう仕組みで成り立っているのだろうか。
 そう思った直後、微かに雷鳴が轟くような音が聞こえてきた。文音は上半身ごと後ろへとひねり店の外に目を向けた。
(うわー……午前中なのに外、真っ暗だ。全然気づかなかった……。失敗したなぁ)
 外の景色を眺めながら、文音は小さく息を吐いた。
「本当に、何もないならいいんだ」
 京也の声が耳に入ってくる。気づくと文音は、京也に目を向けていた。
(京也さんが、心配してる……)
 憂いの混ざった微笑み。初めて見る京也の表情に、文音の感情が揺れ動く。
 彼には、いつものように笑っていて欲しい。ふと浮かんだその想いが、文音の口を自然と開かせた。
「お気遣いありがとうございます。ちょっと考え事をしていただけなので、そんなに心配しないでください。わたしは大丈夫ですから」
 京也に心からの微笑みを送る。しかし彼は、口元に手を添えると、神妙な面持ちでこちらをじっと見てきたのだった。
 しばらく沈黙した後、彼は少しだけ遠慮がちに言葉を口にした。
「もし、本当は何かあって。それを誰かに話したくなった時は、まず俺に言って欲しい」
 最後に一呼吸置いてから、京也は微笑を添えて「それだけだ」と言い切ると、おもむろに身体の向きを変えていった。
「実は……」
 口から零れ出た自分の言葉に文音はハッと息を呑んだ。そしてすぐさま手にしていた本へと目を落とす。
 BGMのない静かな店内。いくら待ってみても、靴音が立つことはなかった。
(……聞かれた、京也さんに。……でも、それでもわたしは――)
 唇を強く噛む。本をぎゅっと握り絞め、文音は瞼を閉じた。
「ちょっと待ってろ」
「え?」
 唐突な呼び掛けに文音は顔を上げる。と、背を向けて歩きだす京也の姿が目に入った。
 茫然としながら彼の動きを目で追う。
 彼は、店の出入口がある方へと向かっていくと、扉の前で歩みを止めた。
 そして、扉に掛けてある札に手を伸ばし、表示を「CLOSE」へと変え、鍵を掛ける。
「えっ!?」
 驚きのあまり文音は声を上げて席から立ち上がった。それに対し京也は、ゆったりとした仕草で身体の向きを変えいく。
「ああ、心配するな。いきなり襲うようなことはない。こうした方が話しやすいだろうと思ってな」
 その場に留まりながら、京也が柔らかい笑みを向けてくる。違和感のない彼の言動に、文音の不安が少しずつ収まっていく。
「でも、お客さんが……」
「この天気じゃ、しばらくは来ないだろうな。まぁ仮に来たとしても、店の営業日と時間は不定だと扉に書いてある。だろ?」
「え……あ、はい」
 京也に言われて、文音は初めてそれを目にした時のことを思い出した。
(まさか、本当だったなんて……)
 ただでさえ客が少ないというのに、一体全体この店はどうなっているのだろうか。何故か得意気な京也の様子がまた面白さを誘い、文音は小さく吹き出した。
「もう、分かりましたよ。お話しします。まずは京也さんに」
 ね、と言う代わりに、文音は首を横に傾けてみせた。
 それを見て、京也はふっと表情を緩めると、文音の元へと向かってゆっくりと歩み始めたのだった。

『正社員試験、ですか?』
『そう、申請してみたら、葭葉ちゃん選考通ったんだよ~。でさ、すぐで悪いんだけど、来週人事と面談だから』
『は、はい! 分かりました! 部長、ありがとうございます!』
 小さい頃から憧れていたエンターテインメント会社の音楽部門に、経理事務として働き始めてから三年。仕事ぶりを評価され派遣社員から契約社員に、そして今度は正社員への話がやってきた。
(やったぁ! これでまた一歩、近づいた!)
 自分が働き始めた当初から、部員同士のコミュニケーション不足が原因で、販売する商品にはいつも何かしらの問題が発生していた。けれど、熱心なファンのおかげで、音楽業界全体の売上が落ちていく中、部の売上は順調に伸びていった。
 しかし、増えたのは売上だけではなかった。人員とトラブル。それらもまた比例するように大きくなっていったのだった。
 成果だけを取り上げ、起こる問題のすべてを上司らは放置していったからだ。
「お客さんが喜ぶものを作りたい」
 自身のことしか頭にない上司らとは違い、そんな純粋な想いを持って仕事をする後輩たちがいた。
 そんな後輩たちに、何かしてあげられることはないのだろうか。文音は考えた末、上司たちがしない仕事を自分が代わりやり、そして環境を変えていこうと決意したのだった。
(あとは正社員になってマネージャーにさえなれれば、権限も増えて、今よりもっと働きやすい環境を作ってあげられる――)
 そのために自分は、プライベートの時間すべてを勉強に費やした。家族や友人、さらには恋人よりも仕事を優先して、連日の深夜残業や休日の出勤も厭わなかった。辛いのは今だけ。これを乗り越えれば多くの人を幸せに出来る。そう自分に言い聞かせて、ひたすら前へと突き進んできたのだ。
『いや~それにしても葭葉ちゃん、ボロボロだったあの部署をよく立て直してくれたよ。ほんとありがとねー』
 部長の言葉に思わず頬が緩む。文字通り歯を食いしばって乗り越えてきた数々の出来事が、まるで夢だったかのようにさえ思えてくる。諦めなくて本当に良かった。文音は心の底から喜びに浸った。
『でさー』
 部長が突然、声を潜めた。心なしか何か勿体ぶったような言い方だった。無意識に呼吸を止め、文音は上司の次の言葉を待った。
『その、部を立て直したっていうのはさ、悪いんだけど、アピールしないでおいてもらえる?』
『え……』
 意味が分からなかった。文音はもう一度、目の前の人物が口にした言葉を、頭の中でゆっくりと反芻してみる。
(部を立て直したことは、言うな……って、どういう……)
 良い職場を作ってより多くの人を喜ばせたい。ただそれだけを想って自分は必死にやってきた。それなのに、どうして――……。
 完全に黙り込んでしまった部下に、上司は丁寧に理由を教えてくれた。
『それ言われちゃうとさー、おれ、仕事してないじゃないかって、社長から怒られちゃうからさー。だからその辺、上手いこと濁しながらアピールしてくれない? ね? 頼んだよ、葭葉ちゃん』
『……はい。わかりました』
 本心とは真逆の言葉を、出来るだけ平静を装い絞り出す。
 部長は、決裁印を押すだけに存在しているといっても過言ではない。事実、他の部員たちからも彼はそう評価されていた。そして、その部長が引き上げた現マネージャーは、彼のイエスマンなだけで予算すら一人で立てられない。そんなマネージャーの仕事を、すべて文音は影でやってきた。
(部長の言うことは、呑むしか……ない、よね)
 どんなに嫌だと思ったことでも彼らを立てる。だからこそ彼らから信頼を得られていることも分かっていた。彼らに同じことを進言するにも、他の人が言うより自分が言った方が通りやすいことがそれを証明している。
 そう、部長たちのお気に入りで居続けなければ、後輩たちを守ってあげることは出来ないのだ。脳裏に後輩たちの笑顔が浮かぶ。
 その後、文音は面接の結果、話の内容が不明確という理由から不合格を言い渡され、引き続き契約社員として働くこととなった。
 それでも文音は、プレゼンテーションの能力が足りなかったのだ、それがなければマネージャーは務まらないのだ、と自身に言って聞かせてはまた勉強に励んだ。
 しかし、あることを境に文音の中で迷いが生まれる。勤務時間中、上司らの目が届かないところで愚痴を言ったり、遊んでいたりした同期たちが正社員に上がっていたのだ。
 それ以降、文音は何をするにも身が入らず、いつの間にか会社にいることすら苦痛に感じるようになってしまったのだった。
(わたしは一体、どうすれば良かったんだろう……。わたしはこれから、どうしたらいいのかな……)
 テーブルの上に乗せられた京也の手を見つめながら、文音は努めて冷静に、そして意識的に内容を軽くして事情を話した。本当はもっといっぱい苦しいことや悲しいことがあった。それらをすべて話して楽になりたかった。けれどそんなことをすれば、おそらく自分は泣いてしまうだろう。そして心の奥底に押し込んだドロドロの感情も、きっと一緒に溢れ出てしまう。
(それだけは絶対にイヤ。もうこれ以上、自分を嫌いになりたくない――)
 文音はカップを手に取ると、冷たくなってしまったカフェラテをゆっくりと押し込むようにして呑み込んでいった。空になったカップをそっと受け皿に戻す。と、そこで、静かに話を聞いていた京也が口を開けた。
「ひとつ、聞いてもいいか?」
「はい」
 カップを見つめたまま返事をすると、文音は身体を強張らせた。
「文音ちゃんがやろうとしたことは、文音ちゃんが本当に心からやりたいと思ってやったことだったのか? あるいは、文音ちゃんが一番叶えたいと思っている夢に繋がるものだったのか」
「え?」
 文音の視線が京也へと向かう。
 まるで時間を止めたかのように、文音はじっと京也を見つめた。
 彼が口にした言葉。それは、否定でも、肯定でもない、単なる問いだった。
 けれどその問いは、不思議と心の奥深くにまで染み込んでいった。
(わたしが本当に、やりたかったこと……だったのかな……)
 微かに、車が水を跳ね上げる音が聞こえてきた。
 身体の中にたくさんの空気が流れ込んでくる。
 息苦しさが消え、気がつくと文音は、完全に落ち着きを取り戻していた。
 京也が目を細めて笑む。そして彼は、温かみを織り交ぜたような声音で話しを始めた。
「本当にしたいことがきちんと定まっていないと、色々な物事に気を取られては自分の時間や心を消費していく。逆に、したいことがきちんと定まっていれば、たとえ辛い出来事が起きても、時間と心は消費していかない。すでに苦痛しかないのであれば、少なくとも今の文音ちゃんにとってそれは、心からしたいことではないのかもしれない」
 京也の言葉に、文音は口を引き結んだ。
(自分の気持ちにちゃんと向き合ってこなかったから、わたしは目の前の出来事に振り回されて、疲弊していった……)
 いや、向き合わないどころか、誰かのためにしたことはいずれ自分のためにもなる、そう言い聞かせて自分の気持ちを押さえつけていた。
 その結果、自分の中に残ったものといえば、報われなかったという哀しみと裏切られたという負の感情だけだった。自分の気持ちを一番に考えていたのなら、きっとこんな感情は生まれてこなかったはずだ。
「文音ちゃん、身体の所々に不調が表われてきてるんじゃないか?」
「えっ……」
 心臓がドクリと反応を返す。文音の瞳が揺れた。
「もし、次々に不調が出始めているのなら、それは自分からの限界を告げるサインだ。自分の状況を見直す時期に来ている。俺だったらそう捉える」
 文音はとうとう顔をしかめた。
 本当は薄々気づいていたのだ。もうとっくに自分は限界にきているのだと。
 当たり前のように起るようになった眼精疲労、不正出血、そして貧血。病院に行ってはみたものの何一つ原因は判らなかった。そしてそれが、さらなる焦りを呼び、次第に心の余裕を失っていったのだった。
(そのせい、だったのかな……)
 脳裏に映像がチラつき始める。独りで生きていこう。そう決意することになった苦しい記憶が。
「……京也さんの言う通りです。実は日に日に、体調が悪化してたんです」
 思考を振り払い、文音は苦々しい笑みを浮かべて答えた。
「それなら尚のこと休んだ方がいい。一度立ち止まって、じっくり自分と向き合って、それから次に取り組むことを見つける。どうだ?」
「そうですね……」
 文音は言いながら視線を横へと動かした。
(もうそれしかないよね……。問題はお金かな。引っ越す時に、何もかも買い直しちゃったから、会社を辞めてゆっくり出来るほどの貯蓄はないんだよね……。アルバイトで働く時間を調整しながら様子を見る、とかかな……)
考えを巡らせていると、京也が声を割り込ませてきた。
「もし、金銭面で心配があるなら、俺のところに来ればいい」
「え? このカフェで働くってことですか?」
 文音は目を大きく開けて京也を見た。
(京也さん笑ってるし……。でも、冗談を言ってるようには見えないかも。……え、本気なの? だってこのお店、全然、お客さんいなんですけど)
 のんびり過ごすことは出来そうだが、金銭面で不安がなくなるかと言えば、なくならない気がする。
(わたしなんか雇ったら、お店潰れちゃうんじゃないかな……)
 文音が眉間に皺を作ると、京也がニヤリと笑った。
「正確には、俺のアシスタントだ」
「アシスタント? 京也さんの?」
「なんだ、俺の本業に気づいてなかったのか」
「本業があるんですか?」
「ああ、マスターは言わば趣味だな」
「趣味って……」
「親友たちに頼まれて仕方なく、な。まぁ、好きに珈琲を入れて、それを飲みながら仕事をして、たまに客と話すことでインスピレーションを得られて良い気晴らしにはなってるからいんだけど」
 こうしてな、と笑いながら京也は言い終えると、おもむろに頬杖を突いた。
「で、何だと思う?」
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 京也は口を閉じると、じっとこちらを見つめ始めた。答えが楽しみだ。そう言うような顔をして。
「そうですねぇ、作家さん、とか?」
 考えるような口振りで言いながらも、文音は自信ありげな表情で答えを口にした。
 すると京也は、とても嬉しそうに笑った。
「何で分かったんだ?」
「んーと、京也さんがノートPCを使ってる時の様子とか……。京也さん、たまに画面見ながら呟いてたり、電子辞書を使ってたりするんですよね。あと、来る度に色々なジャンルの本を読んでは、唐突に何かをメモし始めたりして。だから、もしかして……って、思ってはいたんですよねー。でも残念なことに、京也さんが何を書いているのかまでは、まだ分かってないんです」
 文音は大袈裟に肩をすくめてみせた後、おもむろに頬杖を突いた。
「そこは引き続き調査して、必ず当てみせようと思ってます」
文音が口端を上げてニッと笑う。京也は一瞬、虚を突かれたような顔をする。しかしすぐに、文音が自分の真似をしたのだと理解すると、彼は口元に笑みを浮かべて腕を組むポーズを取った。
「だとしたら、俺のところに来た方がいいかもな」
「そう……ですね」
 文音は曖昧に返事をすると視線を落とした。この空間は気に入っている。京也と話すのも楽しい。だけど――。
「今もらってる給料はいくらなんだ?」
「え? えっと、基本は手取りで28万くらいです」
「じゃあ、40でどうだ?」
「…………え!?」
 京也が間髪入れずに言ってきた言葉に文音は驚き固まる。京也は構うことなく、真剣な面持ちで話しを続けていった。
「社会保険は自分で払ってもらう必要があるのと、国民年金だけでは心許ないだろうと思って、ひとまず40と考えたんだが足りないか?」
「い、いいえ、そこは全然問題ないんです。……いえ、問題あります。その、いくら本業があるとはいえ、京也さんに毎月40万円も出費させるのは気が引けるというか……あ、もしかして、勤務時間が長いとか他にもいろいろ条件があるとかですか?」
「いや、文音ちゃんが働くのは、俺が店にいる時だけでいい。具体的に言うと、そうだなー、9時から15時でいいか。内、休憩は一時間な。で、休みは毎月十日取りたいところで取ってくれ。ああ、俺の都合で店を休みにする時は働いたことにしておくわ」
「かなり、ゆるいですね……ちなみに、主な業務内容は?」
「どうすっかなー」
「…………」
 文音は開けていた口を閉じると、疑問の眼差しを京也に向けた。すると京也は、殊更、楽しそうな笑顔を返してきたのだった。
「これでどうだ? 俺のそばに居て、俺が言った仕事をこなしてもらう。知ってると思うが、この店、全然忙しくないから安心しろ。まぁ、仕事と言っても、案出しを手伝ってもらうくらいだろうな。あとは好きに過ごしてていいぞ」
「え?」
そんな条件で普通40万円も払うだろうか。文音は、眉根を寄せるだけでなく、首まで傾げて京也を見た。
「あ。なんか裏があると思ってんのか?」
「……少しだけ」
「大丈夫だ、安心しろ。こう見えて俺は、それなりに知られている方の作家だからな。ちょっとでも下手なことをすれば、ゴシップとして喜んで取り上げるところもある。それこそ法に触れるようなことをすれば、ニュースにだって上がるだろうな。そうなったら俺は、たくさんの大切なものを失うことになる」
京也は自身の左手首にあるブレスレットに視線を向けると、囁くような声で「もう何も失いはしない。だから大丈夫だ」と付け足したのだった。
(あのブレスレット、京也さんがいつも身に着けてるやつ……。もしかしたら、大切な人から貰ったものなのかも)
 ここにはいない大切な相手に誓うような動き。そんな真摯な一面を目にしたことで、文音の中にあった疑念は一気に消え去った。
「分かりました。それじゃあ念のため、京也さんの作家名を……って嘘ですよっ。京也さんを信じます」
 文音が笑みを見せると、京也も表情を緩めた。
「自分から言うのも変だが、少しでも身元を確かにするために、俺の本名フルネームと連絡先を教えておく」
 そう言うと京也は、シャツの胸ポケットからメモ帳とペンを取り出し、ぱっと開いたページに連絡先を書き始めた。メモをすっと切り離すと、文音に手渡した。
桐山きりやま京也さん。ふふっ、またひとつ京也さんの謎が明かされましたね」
「いいか、売れっ子作家のプライベートな連絡先だからな。絶対になくすなよ?」
「自分で売れっ子って言っちゃうんですか? その作家名、いつか当てますから」
「簡単にはバレないようにするけどな」
「望むところですよ」
「て言うことは、OKってことでいいのか?」
「あ……その、少しだけ考える時間をもらってもいいですか? すごく楽しそうなんですけど、いろいろと確認しておきたいことがあって……」
 独りで生きていくのなら、もう少し慎重にならなくては。すぐにでも承諾しそうになっていた自分に、文音はそう言い聞かせて気持ちを押し止めた。
「もちろん構わない。だが、ひとつだけ言っておく。前向きに、検討よろしく」
「ふふっ。ありがとうございます」
 文音は目を細めて京也を見つめた。今まで極力、彼と目を合わせないようにとしてきたが、今は不思議とずっと見ていたい気分だった。でも、これ以上は危ない。そう思ったところで、文音はゆっくりと視線を外していき、後ろを振り返るようにして店の外へと目を向けた。
「雨、降ってたんですね」
「ああ、鍵閉めた時にな」
 窓ガラスについた水滴の跡を目でなぞる。雨は嫌いじゃない。雨音を聞きながら、流れゆく雨水を眺めていると、胸の奥底にしまい込んだ哀しみを少しずつ洗い流していけるような気持ちになれるから。
「遣らずの雨」
「え? らずの……あめ?」
 聞き慣れない言葉に引かれて、文音は京也に目を戻した。彼はふっと笑ってみせると、瞼を閉じ椅子から立ち上がった。
「んじゃ、店開けるわ」
「え、ちょっと! 京也さん! 今何て言ったんですかっ、教えてくださいよ!」
 さらりと流し目だけを寄越し、京也は何も言わずに店の出入口へと向かっていく。
 札の表示を「OPEN」にし、鍵を開ける。と、彼はそこで一切の動きを止めた。
(雨、見てるのかな。あの様子じゃ、もう教えてくれなさそうだよね)
 文音は聞き出すことを諦めると、鞄からノートと筆記具を取り出した。
 ノートを広げて頬杖を突く。それから文音は、そっと目を閉じた。
 ゆったりとした靴音。彼がラテを淹れる音。それらの音をただ聞いているだけで、気持ちが安らいでいく。少しの間だけなら、こんな日々を送ってみるのも悪くないのかもしれない。
「これ、奢りな」
 京也の声とともに、食器が置かれるような音がした。目を開けてみると、テーブルの上に温かいカフェラテが置かれていた。
「えっ、これ――」
「ああ、出すのが少し遅かったか。気にせず、残してもいいからな」
 京也はそう言うと、迷いを見せる文音を置いて、踵を返し始める。文音は咄嗟に、言葉を選んだ。
「京也さん、ありがとうございます。わたし、京也さんが淹れるカフェラテ大好きなんです。だから残したりなんかしません。飲み終わるまでいますから」
 京也が口元を緩める。そして彼は、一度もこちらを振り向くことなく、カウンターテーブルの上に置いてあるタブレット型PCの前まで行くと、静かに腰を下ろした。
 キーボードに京也の手が添えられる。それからしばらく、彼の手がキーボードから離れることはなかった。
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