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第3話 - 1
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「今日からよろしくお願いします」
店の扉を開けてくれた京也に、文音が朗らかに挨拶をする。
京也は口元をふっと緩め「ああ、よろしく」と答えると、文音を店内へと迎え入れ、扉に鍵を掛けた。
「じゃあ、まずは事務所な」
そう告げて、京也は店の奥へと行く。PRIVATEと書かれた扉の前で立ち止まると、彼は後ろを振り向いた。
「ここが事務所だ。入るには暗証番号が必要で、俺の携帯番号の下四桁な」
そう説明してから、京也は実際に番号を入力する様子まで見せてくれたのだった。
「すごく、片づいてますね」
事務所に入るなり文音が口を開く。四畳ほどの室内には、机とロッカー以外、何もなかった。
「ほとんど使ってないからな。で、文音ちゃん用のロッカーはここ」
京也がロッカーの扉を開ける。中から、黒い服のようなものを取り出すと、彼は文音へ手渡した。広げてみると、京也が身に着けているショート丈タイプのとは異なる、胸当てがついたエプロンだった。
「一応な。着させろってうるさいやつがいるんだよ」
「そうなんですね。分かりました。ありがとうございます」
文音はロッカーに鞄を置くと、早速エプロンを身に着けた。
(あ、ウエストが締まって見える)
Aラインのワンピースのようなシルエットにテンションが上がる。文音は裾をひらひらと動かし、その動きを楽しんだ。
「ああ、髪はそのままでいい」
胸元のあたりまである髪をまとめようとしたところ、京也に止められる。文音は不思議に思ったが、とりあえず京也の言葉に従うことにした。
事務所を出ると、今度はカウンター席の方へと向かって京也は歩き始めた。彼は、普段使用している席の前で立ち止まり、文音に身体を向かい合わせると、口を開けた。
「とりあえず、以上」
「え?」
「あとは、やりたいことがあったら都度言え」
「えぇ?!」
「なんなら、今日はぼーっと様子を見てるだけでもいいぞ」
「え、あの、お客さんが来た時に何かするとか、京也さんの本業のお手伝いで何かあるとか、本当に、本当に何もないんですか?」
「じゃあ、文音ちゃんの今日のお仕事は、リラックスする、で」
「り、りらっくす……?」
意図が分からず、文音は目を何度も瞬かせた。
「文音ちゃん、緊張してそうだからな」
「そりゃそうですよ! 初日で緊張しない人がいるんですか? ……京也さんは、しなさそうですね」
「ここに通い始めて、もう十ヶ月も経つのにか?」
カウンターへ寄り掛かり、京也がくくっと笑った。
「ご、午後は、まだ一回も来たことないです」
「歌緒理に会うのは、本当に初めてか?」
「本当に初めて?」
「あー、深い意味はない。気にするな」
京也が慌てた素振りを見せなかったので、文音は言われた通り気にしないことにした。
「歌緒理さんって、食品衛生責任者の方ですよね?」
「ああ。そしてこの店のオーナーだ。ランチ前に来て、ランチが終わったら帰る」
「そうだったんですね。どんな方なんだろう。お会いできるが楽しみです」
表情を明るくする文音とは対照的に、京也は腕を組み表情を険しくした。
「いいか、あいつには気をつけろよ」
「えっ?」
「絶っ対に、隙は見せるなよ。いいな」
「は、はい……」
歌緒理という人物はそんなに危ない人物なのだろうか。文音が不安そうな表情を見せると、京也は言葉を継いだ。
「あー。いや、別に悪い奴ではない。俺にこの店を手伝ってくれって頼んできた親友の一人、なんだが……」
言葉を濁すと、京也は真顔で「文音ちゃんは、危ないんだよなー」と謎の言葉を呟き、まじまじと顔を見てきたのだった。
「まぁ、とにかくだ。何かあれば直ぐに俺を呼べ。分かったな?」
「あ……はい」
全然よく分からなかったが、彼が普段なかなか見せることのない真剣な顔をして言うので、文音は素直に頷いておくことにした。
「んじゃ、店開けるわ」
京也はそう告げると、店の出入口へと行き、札の表示を「OPEN」に変えてから鍵を開けた。そして、ふたたび文音の前に戻ってくると、笑いながら言葉を口にした。
「どうした? 好きに過ごしていいぞ。本を読んだっていい。本読むの好きだろ? 店にある本も好きに読んでいいからな」
「はい……えっと。では、お言葉に甘えて……」
特にするべきこともなく客もいなかったことで、文音はとりあえず京也の勧めるように過ごしてみることにした。
(何読もうかな? 鞄に読みかけの本があるけど、せっかくだからお店にある本を見てみようかな)
店内には至る所に本棚があり、軽く500冊はありそうだった。客として来ていた時は、いつも自前の本を読んでいたので、店に置いてある本をじっくり見てまわるのは、実は今日が初めてだった。
(すごーい! こんなにいろんな種類の本が置いてあったなんて! 全部、京也さんが読んだやつなのかな?)
棚には小説を始め、ビジネス書、実用書、医学書、美術書、絵本、辞典、洋書など様々なジャンルの本が置いてあった。
(わー、嬉しいなぁ。本屋さんで見かけて気になってた本もいっぱいあったし、新たに気になった本もあって、どれにしょうか迷っちゃうなぁ。でもいったん、読みかけてた本と同じのが棚にあったから、それにしておこうっと)
棚から本を取り出すと、京也が座っている席から二つ隣の席に文音は腰を下ろした。
「……文音ちゃん?」
名前を呼ばれて顔を向ける。と、カウンターに片肘を突き、その手でこめかみを押さえている京也と目が合った。彼は、口元に笑みを浮かべているものの、なぜか目は笑っていなかった。
「あ、ここダメでしたか?」
仕事の妨げにならないようにと、椅子をひとつ挟んで距離を取ってみたのだが、近すぎただろうか。それとも、店の奥側に座ってしまったのが問題だったのだろうか。ひとまず本を持って立ち上がると、京也が二人の間にある椅子を指差した。
「ここに座れ。そして、選んだ本を俺に見せてみろ」
言いながら京也は、手のひらまで差し出してきた。
なぜ怒られ気味なのか、文音は全く理解出来ていなかったが、雇用主である京也の指示通りに大人しく動く。
「文音ちゃんは、どうしてこの本を選んだのかな?」
京也がわざとらしい笑みを浮かべて聞いてくる。口調がいやに丁寧だったこともあり、文音は身構えながら答えを口にした。
「え……っと、読みかけていた本がちょうど棚にあったので、せっかくだから読み切ってしまおうかなと思いまして……」
「文音ちゃん? 今日のお仕事は何だったかな?」
「え? 今日のお仕事……ですか?」
具体的な仕事なんてあったっけ? と、文音は天井を見ながら考えた。
「あっ……」
思い当たったと同時に、京也の顔を見る。すると彼は、満面に笑みを浮かべて、答えを待っていたのだった。
「思い出したか?」
「り、りらっくす……です」
何だか口にするのが恥ずかしい仕事だな……。そう感じた文音は小さめの声で答えた。
「文音ちゃんは、このビジネス書を読むとリラックス出来るのか?」
「…………できません」
リラックスするどころか、もっとキャリアアップしていかなくちゃ! という暗示にかかり、常に緊張状態だった気がする。文音は溜め息をつきながら肩を落とした。
「気づけたならいい。今はリセット期間なんだ。いったんビジネスものから離れろ」
「はい」
目を伏せて返事をすると、頭の上にぽんぽんと何か温かいものが触れた。ワンテンポ遅れて「え?」と顔を上げてみると、優しい眼差しの京也と目が合う。彼の両腕に目を向けてみたが、特に変わった様子は見られなかった。
(頭を触られた気がするんだけど、気のせいだったのかな……)
京也の顔をぼーっと眺める。と、突然、京也が喉奥でくっと笑った。その反応から、文音は気のせいではなかったことを確信する。しかし、嫌な気分ではなかった。もしかしたら、彼なりに気落ちした自分を慰めてくれたのかもしれない。そう思ったからだ。
「そうだな、今の文音ちゃんにオススメの本がある。教えてやるから着いてこい」
京也はそう言うなり席を立った。彼の後を追いながら、文音はふと疑問に思ったことを口にした。
「京也さん、平日のこの時間帯って、お客さんは来ないんですか?」
「ん? ああ、そうだな」
「他の時間帯もですか?」
「ランチの時間帯に数人だけ来て、他の時間帯はまばらに来るか来ないか。という感じだな」
目的の場所に着いたのか、京也は歩みを止めて振り返った。
「まぁ、店の宣伝なんか全くしてないからな。ちなみに公式のホームページもない」
「えぇ! そんな状態でよくお店続けてこられましたね……。このマンション、分譲レベルで造られてて家賃高めなんですけど、お店の方の賃料は高くないんですか?」
「ここは、一之瀬家の憩いの場みたいなものだからな。赤字だろうがなんだろうが全く気にしないだろうな、あいつらは」
「あいつら? 一之瀬家?」
(一之瀬って、たしか歌緒理さんの苗字だったはず)
文音が首を傾げたところで、京也は棚から本を引き抜き始めた。
「そのうちわかる。んで、これが文音ちゃんにオススメの本。まずは、そのガチガチに固まった頭と身体を緩めることだな」
一度に本を五冊も渡されて驚く文音に、京也が笑いながら補足をしてきた。
「基本的に同じテーマのやつだから全部読む必要はない。今の自分に合っていると感じたものを選べ。どれも違うと思ったら、その時はまた言え。そこからまた考えて、見繕う。まぁ、色々な本を読み漁っている文音ちゃんなら大丈夫だと思ってるけどな」
言い終えるなり、京也は本棚から離れていった。
一緒にカウンター席へと戻ってくると、文音はあらためて座る場所に迷った。
(さっき、隣に座らせたのは、優しく諭すためだったのかもしれないし……)
五冊ある本をぎゅっと抱きしめながら、直前まで座っていた椅子をじーっと見つめていると、横で小さく吹き出すような声が聞こえた。
「どうした? 突っ立ってないで、ここ座れよ」
京也が隣に座るよう促してくる。文音は小さな頷きを返すと京也の隣に座った。隣になんか座ったら、さすがに緊張するのではないだろうか。そう思っていたのだが、こうして実際に座ってみると、意外にもそんなことはなかった。むしろ、最初に座った二つ隣の席よりも、心なしかしっくりとくるような気がしなくもない。
「あ、何か飲むか?」
「えっ?」
「店では好きにしていい。俺がここを手伝う条件の一つにそう提示されている。つまり、俺がいいと言えば、文音ちゃんにもそれが適用される。何か飲みたいものがあれば遠慮なく言え。俺が今まで通り作って持ってきてやるよ。店にあるものだったら、お湯でも水でも言えば持ってくるぞ」
「さすがにそれは――」と言おうとしたところで、いつも楽しそうにラテを淹れている京也の姿が脳裏に浮かび、文音は口を閉じた。それからしばらく逡巡した後、文音は笑顔を浮かべて口を開けた。
「ありがとうございます。それじゃあ、まだ午前中なのでカフェラテをお願いします。京也さんが淹れてくれるカフェラテ、わたし本当に大好きなんです。あ、さすがに、お湯と水は自分でやりますから、あとで教えてください」
これからほぼ毎日、京也のラテが味わえる。それがあまりにも嬉しすぎて、文音は「えへへ」と声を漏らしながら顔を綻ばせた。
すると、京也が柔らかい笑みを浮かべて、ゆっくりと文音の頭を撫で始めた。
彼はきっと人の頭を撫でるのが好きなのだ。文音はそう思いながら、京也の笑顔をただただぼんやりと見続けたのだった。
涼しげなドアチャイムの音色が流れてくる。少しして優しげな男性の声が聞こえてきた。
「こんにちは」
「おー、アオイか」
京也が後ろを振り向き、声を出す。視線を横へとずらしてみると、二十代前半くらいの男性の姿が見えた。
(あ……もしかして、前に京也さんとカウンター席で親しく話してた人かな?)
今度は頭を動かしてみる。と、京也の手が乗ったままの状態であることに気がついた。
(ちょっ、京也さん、手!)
振り解くわけにもいかず、文音は顔を赤くしながら京也が気づくのを待った。
ゆっくりと近づいてくる靴音。その音がすぐ側にまで迫ってきたところで、京也が席を立つ。靴音がぴたりと止まり、そこでようやく、髪を撫で下ろすかのようにして京也は手を離していった。
「あれ、アルバイトさんですか?」
「は、はいっ。葭葉です。あ、葭葉文音です。よろしくお願いします」
青年に声を掛けられ、文音は慌てて席から立ち上がると、挨拶をしながら頭を下げた。
頬にある熱を少しでも冷ましておきたい。そう思って、わざとゆっくり顔を上げていく。
(う、そー……この人も、イケメン!)
スクエア型のフレーム眼鏡ごしに見えた美青年の切れ長の目。その目と視線が合った瞬間、文音は反射的に目を逸らしそうになった。
(失礼になっちゃうから――)
そう思って、文音は必死に堪えた。しかしそのせいで、冷まそうとしていたはずの頬の熱は、一段と上がっていってしまうのだった。
「一之瀬葵です。こちらこそ、よろしくお願いします。葭葉さん」
少しだけ目に掛かった前髪を揺らし、葵がニコッと笑った。
「正確には、俺のアシスタントで、この店の店員ではない」
「そうなんですね。京也さんがアシスタントさんを」
ふふっと意味ありげな笑みを残し、葵は反対側にある四人掛けの席に座った。
「いつものでいいな」
「お願いします」
葵は、京也の質問に短く答えると、斜めに提げていた黒のショルダーバッグを座席に置き、中からタブレット端末を取り出しては、黙々と画面を眺め始めた。
(一之瀬葵さん……。あれ? 葵さんも一之瀬?)
さっきまで動揺していたせいで、今になってそのことに気がつく。せっかくだし話し掛けてみようか。そう思うも、集中している様子の葵を見て、文音は止めておくことにした。
(それにしても、葵さんてすごく若そうなのに、とっても落ち着いてるというか……)
細身の体に沿った清潔感溢れる白いシャツ。さっき目にしたショルダーのバッグは、質感や光沢具合からして、おそらく本革ではないだろうか。そして、彼が手にしているタブレット端末は、デザイン性にも優れた一番高価なメーカーもの。
「葵が来たということは、もう11時か」
カウンター内から飛んできた京也の声に反応して、葵が顔を上げる。と、その瞬間、文音は葵と目が合った。葵がニコリと微笑み、文音は咄嗟に笑顔を作って、観察していたことを誤魔化してみた。
「文音ちゃん、これ葵に出してくれるか?」
京也のその言葉を聞いて、文音は身を翻して珈琲を受け取ると、葵の元へと持っていった。テーブルの上にそうっとカップを置く。すると、葵が笑みを向けて礼を告げてきた。心臓がまたドギマギとし始める。文音は苦笑を返し、そそくさと自分の席へと戻った。
椅子に腰を下ろすと、京也がラテを淹れ始める音が聞こえてきた。
(本当は味だけじゃなくて、京也さんが淹れるとこを見るのも大好きなんだよね)
見ると言っても目が合うと困るので、正確には盗み見なのだが。
(でも、これだけ近いと、さすがに盗み見も出来ないなぁ……)
仕方なく音だけでもと文音は耳を澄ました。
(……あれ? いつもよりエスプレッソの抽出回数が多い)
違和感を覚え、京也に目を向ける。すると、彼の表情にいつもの笑みがなかった。
(うまくいかなかったのかな? 初めてかも、京也さんがやり直すとこ見るの)
エスプレッソの抽出具合は、湿度が違うだけでも変わってしまう。京也のところで働くにあたり、自主的に読んでおいた本にそう書いてあったことを思い出すと、文音はカウンターに積んであった五冊の本の一番上にある本を手に取った。
「そういえば、歌緒理さんが、今日は少し早く行こうかなって言っていましたよ」
葵の声を聞き、文音は無意識に顔を向けた。
(えっ……京也さんに言ったんじゃないの?)
微笑みを浮かべた葵とまたもや目が合う。そしてまたもや心臓がドギマギとする。
(わたしのこと見てた? 葵さんが? そんなわけ……ないよね)
頬がみるみると熱くなっていく。文音はそれを止めることが出来なかった。
「なんでだよ」
背後から京也の声がした。振り返ってみると、呆れたような顔をして京也が葵を見ていた。葵はちゃんと京也を見ていたのだ。文音は安堵しながらも、少しだけはにかみながら葵に目を戻した。葵がふふっと笑って、手元のタブレット端末へと目を戻していく。
「あ。ありがとうございます」
視界にラテを持った京也が入ってきた。京也は、文音の言葉になんの反応も返さずにカウンターテーブルの上へラテを置くと、そのまま手をテーブルに突いた。そして、意味深な微笑みを向けて顔を見下ろし、それからおもむろに顔を近づけてくると、彼は小声で言葉を掛けてきた。
「文音ちゃんは、葵みたいなタイプが好みなのか?」
「え?」
「さっきからずっと、葵のこと見てるよな。しかも、頬を赤くしたりして」
「ち、違います! あれは――」
文音は恥ずかしさのあまり、顔を真っ赤にしながら小声で叫んだ。
それに対し京也は、文音の顔をひと通り観察した後、近づけていた顔をゆっくり離していくと、そのまま何も言わずにカウンターの中へと入っていった。そしてまた、笑みを浮かべることなく、彼は珈琲を淹れ始めたのだった。
「おっはよ~」
キラキラと輝くようなドアチャイムの音とともに、女性の明るい声が入ってきた。
店の出入口に目を向けてみると、そこにはファッション雑誌にでも出てくるようなスタイル抜群の女性が立っていた。パリッとした真っ白なシャツと黒のスキニーパンツ。そのシンプルなファッションが彼女のスタイルの良さをより際立たせている。
(もしかして……女優さん、とか?)
緩やかなウェーブの掛かったロングヘアをふわふわと揺らしながら、女性が笑顔で歩いてくる。距離が縮まるにつれ、彼女は顔の全パーツまでもが完璧だということが分かった。文音は惚けたように彼女を見つめた。
「あ! あなたが文音ちゃんね!」
表情をさらに輝かせ、美女が寄ってくる。文音は席から立ち上がると、思わず後ろへと下がった。そんな文音の両手を、美女は素早く掴み取ると自身の方へと軽く引いた。
「私、一之瀬歌緒理。よろしく」
「はい、よろしく、お願いします」
間近で見る歌緒理の美貌に圧倒され、全身が硬直していく。
「京也から話を聞き始めた時から、ずっと会いたかったのよね~」
握った文音の両手を、自身の豊かな胸へと引き寄せながら、歌緒理はさらに距離を詰めてくる。それに合わせて温かな薔薇の香りが文音の鼻孔をくすぐり始めた。
今、彼女が気になることを言ったような気がしたのだが、頭がぼーっとして上手く動かない。嬉しそうに笑う彼女を、文音はただ見ていることしか出来なかった。
彼女のすらりとした細い指先。その指先に包まれた平凡な自分の手。それらが次第にゆっくりと、彼女の口元へと向かっていき――……。
「近すぎだ、歌緒理」
京也が文音の手首を握って、歌緒理の動きを止めた。そしてすぐさま、京也は歌緒理の手を文音から引き剥がすと、文音に背を向けるようにして二人の間に身体を滑り込ませた。京也の背中に視界を遮られ、文音は正気に返る。自由になった手首と頬がやけに熱かった。
「別にいいじゃない。減るものじゃないんだし。何か困ることでもあるのかしら?」
「大ありだ」
「そうよねー。なにせ、京也がぞっこんな子ですものねー」
文音は歌緒理の言葉に耳を疑った。その直後、今度は咳き込む音が耳に入ってくる。音のする方へと目を向けてみると、葵が手で口を押さえながら小さく咳き込んでいる姿があった。
「葵さん、大丈夫ですかっ」
声を掛けながら文音は葵に駆け寄る。葵が少し苦しそうな笑みを浮かべて答えた。
「大、丈夫です。ちょっと不意打ちを、食らいまして……」
「歌緒理、ちょっと来い」
京也の言葉に振り向く。と、京也の左手が、歌緒理の肩にまわされるのが目に映った。彼の手首にあるシルバーのブレスレットがさらりと動き、文音の注意を引く。
(そっか……歌緒理さんが、京也さんの――)
さっき彼女が拗ねたように言った言葉はそういうことだったのか。身体を密着させて事務所へ入っていく二人の姿を見送った後、文音はその場に立ち尽くした。
「葭葉さん」
葵の呼び掛けに、身体がビクッと反応する。顔を向けてみると、彼は困ったような笑みを浮かべていた。
「いきなりで、驚かれましたよね。歌緒理さん、ちょっとスキンシップが過剰なんです」
「い、いえ、大丈夫です」
たしかに驚きはしたが、気にはしていなかった。むしろ、あの二人の様子が気になってしまい、上手く笑えないのだ。
「その、歌緒理さんは、信頼できる人なので、そんなに心配されなくても大丈夫ですよ」
安心させようとしてくれているのか、葵が優しい笑みを見せてくる。
(葵さんの言う大丈夫は、どっちの大丈夫なんだろう……)
彼女の人柄に対するものなのか、それとも二人の関係についてのものなのか。
葵の顔をじっと見続ける。彼は、目を逸らしはしなかったものの、その後、口を開けることもなかった。
扉の開く音がして、文音は咄嗟に顔を向けた。
(一体、何話してたんだろう……)
髪を結い、文音と同じエプロンを身に着けた歌緒理がルンルンとした様子で部屋から出てきた。それに続き、とっても不満そうな顔の京也。その後に、葵が微かに笑ったような声が聞こえてきた。文音の頭の中はますます混乱していく。
「文音ちゃん」
カウンター席に座った京也が手招きをしてくる。側まで行くと、文音は座るよう促された。腰を下ろしてから、ふたたび京也に顔を向ける。すると、彼の表情は普段よく見せる柔らかな笑みへと戻っていた。
「昼だが、カフェ飯で良ければ、まかないとして出せるがどうする? 毎日1種類しか作ってないから選ぶことは出来ないが、とりあえず食べてみるか?」
「いいんですか? わたし、カフェ飯大好きなんです」
「了解。んじゃ、歌緒理に言っておくわ」
「え、あ、自分で言いますよ」
文音が立ち上がろうとすると、京也がそれを手で制した。
「文音ちゃん、今日のお仕事は?」
「でも――」
「大丈夫だ。全部、俺に任せておけばいいんだよ。何も、気にするな」
そう言うと京也は、カウンター内にいる歌緒理に声を掛けた。京也と言葉を交わし、歌緒理はより一層嬉しそうな笑みを浮かべて頷く。
(ふたりとも、絵になってる……)
美男と美女。自分がこの場にいることすら忘れてしまいそうになるほど、二人とは世界が違うように感じた。
視線に気づいた歌緒理が顔を向けてくる。彼女が目を細めて笑ってきた。
つられて自分も笑ってみる。けれど胸の中では寂しさが広がっていった。
「本当にこれ、無償で頂いて良いんでしょうか?」
文音が真剣な顔をして言葉を口にした。手元には、まかないとして出されたプレートランチが置いてあり、その皿の上には、サーモンとクリームチーズがサンドされたバケットと有機野菜の旬のサラダ、それと具沢山のミネストローネスープが載っていた。
「歌緒理が良いって言ってんだから、良いんだよ」
隣に座って、同じ物を食べている京也が笑いながら言う。
「歌緒理さん、いつもより嬉しそうに準備していましたしね」
京也の真向かいに座り、一緒に昼食を取っていた葵が微笑みながら答えた。
「なら、いいんですけど……」
「こういう時は、素直に喜んで、素直に受け取っておけばいいんだよ。その方が歌緒理は喜ぶぞ。対価は金だけとは限らないからな」
京也に目を向けると、彼は優しい眼差しでこっちを見ていた。
「そうよ。私は、文音ちゃんが来てくれただけで嬉しいんだから。本当に遠慮しないで」
歌緒理がカップを手にしながら葵の隣に座る。そして急に、笑いを堪えるような仕草をしてから彼女は言葉を続けた。
「なにせ、京也ったらいい歳して――」
「おいっ」
京也は勢いよく立ち上がると、自身の斜め前に座る歌緒理の口を手で抑えた。そんな京也の行動に対し、歌緒理は全く動じることなく、文音を見つめたまま目を細めた。
「――っ、子供か!」
歌緒理から手をパッと離すと、京也は席に着いた。そして、歌緒理の方を軽く睨みつけながら、彼女の口元を抑えていた手のひらを紙ナプキンでゴシゴシと拭く。葵がくすくすと笑い、歌緒理は何事もなかったように珈琲を口に含んだ。
「あ! ありがとうございます~」
歌緒理が店内に目を向けながらすっと立ち上がった。視線を追ってみると、客がレジに向かうところだった。文音は京也の方を振り向き、さっきからずっと気になっていた事を、出来るだけ普段の自分を意識しつつ聞いてみた。
「京也さんと歌緒理さんの付き合いは、どれくらいなんですか?」
「そうだな……二十歳ん時からだから15年くらいか」
「じゅ、15年!?」
勝てる気がしない。そう思った直後、文音はハッと我に返った。
(何考えてんの、わたし。京也さんと歌緒理さんがどれだけ仲が良くたって、関係ないでしょ。だってわたしは、一生独りで生きていくんだから)
文音は手をぎゅっと握ると、気を取り直して、ふたたび口を開けた。
「京也さんって35歳だったんですね。わたしよりも5歳上なんですね。作家デビューしたのは、何歳の時だったんですか?」
京也が文音の目を見てニヤッと笑った。
「それは、まだ言えないな」
さりげなくペンネームのヒントになりそうな質問を入れ込んでみたのだが、やはり気づかれてしまった。それならと、文音は思い切って葵に話を振ってみることにした。
「葵さんは、京也さんのペンネームとかご存じなんですか?」
「はい」
葵はニコッと笑って答えてくれた。
「文音ちゃん。言っておくが、葵から聞き出そうとしても無駄だからな。こいつは他人のことを簡単に話すような奴じゃない。ましてや、自分のこととなると、もっと話さないからな」
京也は「残念だったな」と言いながら、ほくそ笑んだ。京也の言う通り、葵は微笑んでみせるだけで、何も言ってこなかった。文音は諦めずに、別の質問を京也に投げてみた。
「じゃあ、作家になろうと決めたきっかけは何だったんですか?」
「……そうだな。それは、話してもいいかもな」
「えっ?」
驚く文音を見て、京也がふっと笑った。
「俺の親父は47歳の時、肺癌で死んだんだ。その時に思ったんだよ。人間っていつ死ぬか分からないんだなって。そして俺は、今日死ぬってなった時に悔いなく死ねるのかって考えたんだよ」
重い雰囲気にならないよう気を遣っているのか、京也は話す前に浮かべた笑みを維持したまま話しを続けた。
「俺も前は会社員だった。親父が癌だって聞かされた時、ちょうど大きなプロジェクトの立ち上げで、家には寝に帰るだけという生活をしていた。結局、ゆっくり会う時間も作らないまま、親父は死んだ。いなくなってから、あれもすればよかった、これもやっておけばよかったって、後悔したんだよ」
京也の笑みに少しだけ苦しみの感情が混ざる。
「それから俺は、自分の人生の優先順位を見直したんだ。以前、文音ちゃんに偉そうなこと言ったけど、俺にも似たような時期があったんだよ。んで、今は充実した日々を送れている。悲しい出来事も、自分がどう捉えて、どう対応するかで決して無駄にはならないということも知った。だから、文音ちゃんも過去に起きたことから何かを見つけられるといいな、と俺は思っている」
京也が穏やかな笑みを浮かべて見てくる。文音は心の中がじんわりと温かくなるのを感じた。
「そろそろ歌緒理と交代するか。葵、珈琲のお代わりいるか?」
「お願いします」
「あ、じゃあ、わたしカウンターに移動しますね」
京也と同じく葵もすでに食べ終わっていた。文音はあと少しだったが、このまま葵と二人きりになるのも気が引けたので、席を移ることにした。
葵は13時に、歌緒理は14時半頃に帰って行った。15時になると、京也が「上がっていいぞ」と声を掛けてきたので、文音もそのタイミングで店を後にしたのだった。
文音は帰宅するとすぐに、ベッドの上へ寝転がり、ぼーっと天井を眺めた。
(いろいろあったけど、楽しかったな――)
そう思った直後、本当にこんな日々を送って大丈夫なのか、という不安が生まれた。そんな自分の気持ちに文音は気がつくと、ゆっくり息を吸ってから、吐く息とともに不安を外へと出していった。
(せっかく京也さんがくれた機会なんだから、大事にしないと)
今の自分だからこそ、何かを見つけられるはずだ。彼はそう言ってくれたのだ。
(数ヶ月だけなら、きっと大丈夫。やるだけやってみて、それからまた考えよう)
そう心に決めると、文音は静かに瞼を閉じた。
瞼の裏に、今日、目にした様々な京也の姿が浮かんでくる。
少し遅れて、小さな笑い声が耳に入ってきた。
(え……今の、わたし……)
文音は目を大きく開け、息を呑んだ。
たった一日で、こんなにも京也の存在が大きくなってしまうなんて。文音は焦りを覚えた。
「答えを見つけることに、集中しなくちゃ」
わざと声に出し、文音はそう自分に言い聞かせると、京也に対する感情のすべてを胸の奥へと押しやり、きつく封をしたのだった。
店の扉を開けてくれた京也に、文音が朗らかに挨拶をする。
京也は口元をふっと緩め「ああ、よろしく」と答えると、文音を店内へと迎え入れ、扉に鍵を掛けた。
「じゃあ、まずは事務所な」
そう告げて、京也は店の奥へと行く。PRIVATEと書かれた扉の前で立ち止まると、彼は後ろを振り向いた。
「ここが事務所だ。入るには暗証番号が必要で、俺の携帯番号の下四桁な」
そう説明してから、京也は実際に番号を入力する様子まで見せてくれたのだった。
「すごく、片づいてますね」
事務所に入るなり文音が口を開く。四畳ほどの室内には、机とロッカー以外、何もなかった。
「ほとんど使ってないからな。で、文音ちゃん用のロッカーはここ」
京也がロッカーの扉を開ける。中から、黒い服のようなものを取り出すと、彼は文音へ手渡した。広げてみると、京也が身に着けているショート丈タイプのとは異なる、胸当てがついたエプロンだった。
「一応な。着させろってうるさいやつがいるんだよ」
「そうなんですね。分かりました。ありがとうございます」
文音はロッカーに鞄を置くと、早速エプロンを身に着けた。
(あ、ウエストが締まって見える)
Aラインのワンピースのようなシルエットにテンションが上がる。文音は裾をひらひらと動かし、その動きを楽しんだ。
「ああ、髪はそのままでいい」
胸元のあたりまである髪をまとめようとしたところ、京也に止められる。文音は不思議に思ったが、とりあえず京也の言葉に従うことにした。
事務所を出ると、今度はカウンター席の方へと向かって京也は歩き始めた。彼は、普段使用している席の前で立ち止まり、文音に身体を向かい合わせると、口を開けた。
「とりあえず、以上」
「え?」
「あとは、やりたいことがあったら都度言え」
「えぇ?!」
「なんなら、今日はぼーっと様子を見てるだけでもいいぞ」
「え、あの、お客さんが来た時に何かするとか、京也さんの本業のお手伝いで何かあるとか、本当に、本当に何もないんですか?」
「じゃあ、文音ちゃんの今日のお仕事は、リラックスする、で」
「り、りらっくす……?」
意図が分からず、文音は目を何度も瞬かせた。
「文音ちゃん、緊張してそうだからな」
「そりゃそうですよ! 初日で緊張しない人がいるんですか? ……京也さんは、しなさそうですね」
「ここに通い始めて、もう十ヶ月も経つのにか?」
カウンターへ寄り掛かり、京也がくくっと笑った。
「ご、午後は、まだ一回も来たことないです」
「歌緒理に会うのは、本当に初めてか?」
「本当に初めて?」
「あー、深い意味はない。気にするな」
京也が慌てた素振りを見せなかったので、文音は言われた通り気にしないことにした。
「歌緒理さんって、食品衛生責任者の方ですよね?」
「ああ。そしてこの店のオーナーだ。ランチ前に来て、ランチが終わったら帰る」
「そうだったんですね。どんな方なんだろう。お会いできるが楽しみです」
表情を明るくする文音とは対照的に、京也は腕を組み表情を険しくした。
「いいか、あいつには気をつけろよ」
「えっ?」
「絶っ対に、隙は見せるなよ。いいな」
「は、はい……」
歌緒理という人物はそんなに危ない人物なのだろうか。文音が不安そうな表情を見せると、京也は言葉を継いだ。
「あー。いや、別に悪い奴ではない。俺にこの店を手伝ってくれって頼んできた親友の一人、なんだが……」
言葉を濁すと、京也は真顔で「文音ちゃんは、危ないんだよなー」と謎の言葉を呟き、まじまじと顔を見てきたのだった。
「まぁ、とにかくだ。何かあれば直ぐに俺を呼べ。分かったな?」
「あ……はい」
全然よく分からなかったが、彼が普段なかなか見せることのない真剣な顔をして言うので、文音は素直に頷いておくことにした。
「んじゃ、店開けるわ」
京也はそう告げると、店の出入口へと行き、札の表示を「OPEN」に変えてから鍵を開けた。そして、ふたたび文音の前に戻ってくると、笑いながら言葉を口にした。
「どうした? 好きに過ごしていいぞ。本を読んだっていい。本読むの好きだろ? 店にある本も好きに読んでいいからな」
「はい……えっと。では、お言葉に甘えて……」
特にするべきこともなく客もいなかったことで、文音はとりあえず京也の勧めるように過ごしてみることにした。
(何読もうかな? 鞄に読みかけの本があるけど、せっかくだからお店にある本を見てみようかな)
店内には至る所に本棚があり、軽く500冊はありそうだった。客として来ていた時は、いつも自前の本を読んでいたので、店に置いてある本をじっくり見てまわるのは、実は今日が初めてだった。
(すごーい! こんなにいろんな種類の本が置いてあったなんて! 全部、京也さんが読んだやつなのかな?)
棚には小説を始め、ビジネス書、実用書、医学書、美術書、絵本、辞典、洋書など様々なジャンルの本が置いてあった。
(わー、嬉しいなぁ。本屋さんで見かけて気になってた本もいっぱいあったし、新たに気になった本もあって、どれにしょうか迷っちゃうなぁ。でもいったん、読みかけてた本と同じのが棚にあったから、それにしておこうっと)
棚から本を取り出すと、京也が座っている席から二つ隣の席に文音は腰を下ろした。
「……文音ちゃん?」
名前を呼ばれて顔を向ける。と、カウンターに片肘を突き、その手でこめかみを押さえている京也と目が合った。彼は、口元に笑みを浮かべているものの、なぜか目は笑っていなかった。
「あ、ここダメでしたか?」
仕事の妨げにならないようにと、椅子をひとつ挟んで距離を取ってみたのだが、近すぎただろうか。それとも、店の奥側に座ってしまったのが問題だったのだろうか。ひとまず本を持って立ち上がると、京也が二人の間にある椅子を指差した。
「ここに座れ。そして、選んだ本を俺に見せてみろ」
言いながら京也は、手のひらまで差し出してきた。
なぜ怒られ気味なのか、文音は全く理解出来ていなかったが、雇用主である京也の指示通りに大人しく動く。
「文音ちゃんは、どうしてこの本を選んだのかな?」
京也がわざとらしい笑みを浮かべて聞いてくる。口調がいやに丁寧だったこともあり、文音は身構えながら答えを口にした。
「え……っと、読みかけていた本がちょうど棚にあったので、せっかくだから読み切ってしまおうかなと思いまして……」
「文音ちゃん? 今日のお仕事は何だったかな?」
「え? 今日のお仕事……ですか?」
具体的な仕事なんてあったっけ? と、文音は天井を見ながら考えた。
「あっ……」
思い当たったと同時に、京也の顔を見る。すると彼は、満面に笑みを浮かべて、答えを待っていたのだった。
「思い出したか?」
「り、りらっくす……です」
何だか口にするのが恥ずかしい仕事だな……。そう感じた文音は小さめの声で答えた。
「文音ちゃんは、このビジネス書を読むとリラックス出来るのか?」
「…………できません」
リラックスするどころか、もっとキャリアアップしていかなくちゃ! という暗示にかかり、常に緊張状態だった気がする。文音は溜め息をつきながら肩を落とした。
「気づけたならいい。今はリセット期間なんだ。いったんビジネスものから離れろ」
「はい」
目を伏せて返事をすると、頭の上にぽんぽんと何か温かいものが触れた。ワンテンポ遅れて「え?」と顔を上げてみると、優しい眼差しの京也と目が合う。彼の両腕に目を向けてみたが、特に変わった様子は見られなかった。
(頭を触られた気がするんだけど、気のせいだったのかな……)
京也の顔をぼーっと眺める。と、突然、京也が喉奥でくっと笑った。その反応から、文音は気のせいではなかったことを確信する。しかし、嫌な気分ではなかった。もしかしたら、彼なりに気落ちした自分を慰めてくれたのかもしれない。そう思ったからだ。
「そうだな、今の文音ちゃんにオススメの本がある。教えてやるから着いてこい」
京也はそう言うなり席を立った。彼の後を追いながら、文音はふと疑問に思ったことを口にした。
「京也さん、平日のこの時間帯って、お客さんは来ないんですか?」
「ん? ああ、そうだな」
「他の時間帯もですか?」
「ランチの時間帯に数人だけ来て、他の時間帯はまばらに来るか来ないか。という感じだな」
目的の場所に着いたのか、京也は歩みを止めて振り返った。
「まぁ、店の宣伝なんか全くしてないからな。ちなみに公式のホームページもない」
「えぇ! そんな状態でよくお店続けてこられましたね……。このマンション、分譲レベルで造られてて家賃高めなんですけど、お店の方の賃料は高くないんですか?」
「ここは、一之瀬家の憩いの場みたいなものだからな。赤字だろうがなんだろうが全く気にしないだろうな、あいつらは」
「あいつら? 一之瀬家?」
(一之瀬って、たしか歌緒理さんの苗字だったはず)
文音が首を傾げたところで、京也は棚から本を引き抜き始めた。
「そのうちわかる。んで、これが文音ちゃんにオススメの本。まずは、そのガチガチに固まった頭と身体を緩めることだな」
一度に本を五冊も渡されて驚く文音に、京也が笑いながら補足をしてきた。
「基本的に同じテーマのやつだから全部読む必要はない。今の自分に合っていると感じたものを選べ。どれも違うと思ったら、その時はまた言え。そこからまた考えて、見繕う。まぁ、色々な本を読み漁っている文音ちゃんなら大丈夫だと思ってるけどな」
言い終えるなり、京也は本棚から離れていった。
一緒にカウンター席へと戻ってくると、文音はあらためて座る場所に迷った。
(さっき、隣に座らせたのは、優しく諭すためだったのかもしれないし……)
五冊ある本をぎゅっと抱きしめながら、直前まで座っていた椅子をじーっと見つめていると、横で小さく吹き出すような声が聞こえた。
「どうした? 突っ立ってないで、ここ座れよ」
京也が隣に座るよう促してくる。文音は小さな頷きを返すと京也の隣に座った。隣になんか座ったら、さすがに緊張するのではないだろうか。そう思っていたのだが、こうして実際に座ってみると、意外にもそんなことはなかった。むしろ、最初に座った二つ隣の席よりも、心なしかしっくりとくるような気がしなくもない。
「あ、何か飲むか?」
「えっ?」
「店では好きにしていい。俺がここを手伝う条件の一つにそう提示されている。つまり、俺がいいと言えば、文音ちゃんにもそれが適用される。何か飲みたいものがあれば遠慮なく言え。俺が今まで通り作って持ってきてやるよ。店にあるものだったら、お湯でも水でも言えば持ってくるぞ」
「さすがにそれは――」と言おうとしたところで、いつも楽しそうにラテを淹れている京也の姿が脳裏に浮かび、文音は口を閉じた。それからしばらく逡巡した後、文音は笑顔を浮かべて口を開けた。
「ありがとうございます。それじゃあ、まだ午前中なのでカフェラテをお願いします。京也さんが淹れてくれるカフェラテ、わたし本当に大好きなんです。あ、さすがに、お湯と水は自分でやりますから、あとで教えてください」
これからほぼ毎日、京也のラテが味わえる。それがあまりにも嬉しすぎて、文音は「えへへ」と声を漏らしながら顔を綻ばせた。
すると、京也が柔らかい笑みを浮かべて、ゆっくりと文音の頭を撫で始めた。
彼はきっと人の頭を撫でるのが好きなのだ。文音はそう思いながら、京也の笑顔をただただぼんやりと見続けたのだった。
涼しげなドアチャイムの音色が流れてくる。少しして優しげな男性の声が聞こえてきた。
「こんにちは」
「おー、アオイか」
京也が後ろを振り向き、声を出す。視線を横へとずらしてみると、二十代前半くらいの男性の姿が見えた。
(あ……もしかして、前に京也さんとカウンター席で親しく話してた人かな?)
今度は頭を動かしてみる。と、京也の手が乗ったままの状態であることに気がついた。
(ちょっ、京也さん、手!)
振り解くわけにもいかず、文音は顔を赤くしながら京也が気づくのを待った。
ゆっくりと近づいてくる靴音。その音がすぐ側にまで迫ってきたところで、京也が席を立つ。靴音がぴたりと止まり、そこでようやく、髪を撫で下ろすかのようにして京也は手を離していった。
「あれ、アルバイトさんですか?」
「は、はいっ。葭葉です。あ、葭葉文音です。よろしくお願いします」
青年に声を掛けられ、文音は慌てて席から立ち上がると、挨拶をしながら頭を下げた。
頬にある熱を少しでも冷ましておきたい。そう思って、わざとゆっくり顔を上げていく。
(う、そー……この人も、イケメン!)
スクエア型のフレーム眼鏡ごしに見えた美青年の切れ長の目。その目と視線が合った瞬間、文音は反射的に目を逸らしそうになった。
(失礼になっちゃうから――)
そう思って、文音は必死に堪えた。しかしそのせいで、冷まそうとしていたはずの頬の熱は、一段と上がっていってしまうのだった。
「一之瀬葵です。こちらこそ、よろしくお願いします。葭葉さん」
少しだけ目に掛かった前髪を揺らし、葵がニコッと笑った。
「正確には、俺のアシスタントで、この店の店員ではない」
「そうなんですね。京也さんがアシスタントさんを」
ふふっと意味ありげな笑みを残し、葵は反対側にある四人掛けの席に座った。
「いつものでいいな」
「お願いします」
葵は、京也の質問に短く答えると、斜めに提げていた黒のショルダーバッグを座席に置き、中からタブレット端末を取り出しては、黙々と画面を眺め始めた。
(一之瀬葵さん……。あれ? 葵さんも一之瀬?)
さっきまで動揺していたせいで、今になってそのことに気がつく。せっかくだし話し掛けてみようか。そう思うも、集中している様子の葵を見て、文音は止めておくことにした。
(それにしても、葵さんてすごく若そうなのに、とっても落ち着いてるというか……)
細身の体に沿った清潔感溢れる白いシャツ。さっき目にしたショルダーのバッグは、質感や光沢具合からして、おそらく本革ではないだろうか。そして、彼が手にしているタブレット端末は、デザイン性にも優れた一番高価なメーカーもの。
「葵が来たということは、もう11時か」
カウンター内から飛んできた京也の声に反応して、葵が顔を上げる。と、その瞬間、文音は葵と目が合った。葵がニコリと微笑み、文音は咄嗟に笑顔を作って、観察していたことを誤魔化してみた。
「文音ちゃん、これ葵に出してくれるか?」
京也のその言葉を聞いて、文音は身を翻して珈琲を受け取ると、葵の元へと持っていった。テーブルの上にそうっとカップを置く。すると、葵が笑みを向けて礼を告げてきた。心臓がまたドギマギとし始める。文音は苦笑を返し、そそくさと自分の席へと戻った。
椅子に腰を下ろすと、京也がラテを淹れ始める音が聞こえてきた。
(本当は味だけじゃなくて、京也さんが淹れるとこを見るのも大好きなんだよね)
見ると言っても目が合うと困るので、正確には盗み見なのだが。
(でも、これだけ近いと、さすがに盗み見も出来ないなぁ……)
仕方なく音だけでもと文音は耳を澄ました。
(……あれ? いつもよりエスプレッソの抽出回数が多い)
違和感を覚え、京也に目を向ける。すると、彼の表情にいつもの笑みがなかった。
(うまくいかなかったのかな? 初めてかも、京也さんがやり直すとこ見るの)
エスプレッソの抽出具合は、湿度が違うだけでも変わってしまう。京也のところで働くにあたり、自主的に読んでおいた本にそう書いてあったことを思い出すと、文音はカウンターに積んであった五冊の本の一番上にある本を手に取った。
「そういえば、歌緒理さんが、今日は少し早く行こうかなって言っていましたよ」
葵の声を聞き、文音は無意識に顔を向けた。
(えっ……京也さんに言ったんじゃないの?)
微笑みを浮かべた葵とまたもや目が合う。そしてまたもや心臓がドギマギとする。
(わたしのこと見てた? 葵さんが? そんなわけ……ないよね)
頬がみるみると熱くなっていく。文音はそれを止めることが出来なかった。
「なんでだよ」
背後から京也の声がした。振り返ってみると、呆れたような顔をして京也が葵を見ていた。葵はちゃんと京也を見ていたのだ。文音は安堵しながらも、少しだけはにかみながら葵に目を戻した。葵がふふっと笑って、手元のタブレット端末へと目を戻していく。
「あ。ありがとうございます」
視界にラテを持った京也が入ってきた。京也は、文音の言葉になんの反応も返さずにカウンターテーブルの上へラテを置くと、そのまま手をテーブルに突いた。そして、意味深な微笑みを向けて顔を見下ろし、それからおもむろに顔を近づけてくると、彼は小声で言葉を掛けてきた。
「文音ちゃんは、葵みたいなタイプが好みなのか?」
「え?」
「さっきからずっと、葵のこと見てるよな。しかも、頬を赤くしたりして」
「ち、違います! あれは――」
文音は恥ずかしさのあまり、顔を真っ赤にしながら小声で叫んだ。
それに対し京也は、文音の顔をひと通り観察した後、近づけていた顔をゆっくり離していくと、そのまま何も言わずにカウンターの中へと入っていった。そしてまた、笑みを浮かべることなく、彼は珈琲を淹れ始めたのだった。
「おっはよ~」
キラキラと輝くようなドアチャイムの音とともに、女性の明るい声が入ってきた。
店の出入口に目を向けてみると、そこにはファッション雑誌にでも出てくるようなスタイル抜群の女性が立っていた。パリッとした真っ白なシャツと黒のスキニーパンツ。そのシンプルなファッションが彼女のスタイルの良さをより際立たせている。
(もしかして……女優さん、とか?)
緩やかなウェーブの掛かったロングヘアをふわふわと揺らしながら、女性が笑顔で歩いてくる。距離が縮まるにつれ、彼女は顔の全パーツまでもが完璧だということが分かった。文音は惚けたように彼女を見つめた。
「あ! あなたが文音ちゃんね!」
表情をさらに輝かせ、美女が寄ってくる。文音は席から立ち上がると、思わず後ろへと下がった。そんな文音の両手を、美女は素早く掴み取ると自身の方へと軽く引いた。
「私、一之瀬歌緒理。よろしく」
「はい、よろしく、お願いします」
間近で見る歌緒理の美貌に圧倒され、全身が硬直していく。
「京也から話を聞き始めた時から、ずっと会いたかったのよね~」
握った文音の両手を、自身の豊かな胸へと引き寄せながら、歌緒理はさらに距離を詰めてくる。それに合わせて温かな薔薇の香りが文音の鼻孔をくすぐり始めた。
今、彼女が気になることを言ったような気がしたのだが、頭がぼーっとして上手く動かない。嬉しそうに笑う彼女を、文音はただ見ていることしか出来なかった。
彼女のすらりとした細い指先。その指先に包まれた平凡な自分の手。それらが次第にゆっくりと、彼女の口元へと向かっていき――……。
「近すぎだ、歌緒理」
京也が文音の手首を握って、歌緒理の動きを止めた。そしてすぐさま、京也は歌緒理の手を文音から引き剥がすと、文音に背を向けるようにして二人の間に身体を滑り込ませた。京也の背中に視界を遮られ、文音は正気に返る。自由になった手首と頬がやけに熱かった。
「別にいいじゃない。減るものじゃないんだし。何か困ることでもあるのかしら?」
「大ありだ」
「そうよねー。なにせ、京也がぞっこんな子ですものねー」
文音は歌緒理の言葉に耳を疑った。その直後、今度は咳き込む音が耳に入ってくる。音のする方へと目を向けてみると、葵が手で口を押さえながら小さく咳き込んでいる姿があった。
「葵さん、大丈夫ですかっ」
声を掛けながら文音は葵に駆け寄る。葵が少し苦しそうな笑みを浮かべて答えた。
「大、丈夫です。ちょっと不意打ちを、食らいまして……」
「歌緒理、ちょっと来い」
京也の言葉に振り向く。と、京也の左手が、歌緒理の肩にまわされるのが目に映った。彼の手首にあるシルバーのブレスレットがさらりと動き、文音の注意を引く。
(そっか……歌緒理さんが、京也さんの――)
さっき彼女が拗ねたように言った言葉はそういうことだったのか。身体を密着させて事務所へ入っていく二人の姿を見送った後、文音はその場に立ち尽くした。
「葭葉さん」
葵の呼び掛けに、身体がビクッと反応する。顔を向けてみると、彼は困ったような笑みを浮かべていた。
「いきなりで、驚かれましたよね。歌緒理さん、ちょっとスキンシップが過剰なんです」
「い、いえ、大丈夫です」
たしかに驚きはしたが、気にはしていなかった。むしろ、あの二人の様子が気になってしまい、上手く笑えないのだ。
「その、歌緒理さんは、信頼できる人なので、そんなに心配されなくても大丈夫ですよ」
安心させようとしてくれているのか、葵が優しい笑みを見せてくる。
(葵さんの言う大丈夫は、どっちの大丈夫なんだろう……)
彼女の人柄に対するものなのか、それとも二人の関係についてのものなのか。
葵の顔をじっと見続ける。彼は、目を逸らしはしなかったものの、その後、口を開けることもなかった。
扉の開く音がして、文音は咄嗟に顔を向けた。
(一体、何話してたんだろう……)
髪を結い、文音と同じエプロンを身に着けた歌緒理がルンルンとした様子で部屋から出てきた。それに続き、とっても不満そうな顔の京也。その後に、葵が微かに笑ったような声が聞こえてきた。文音の頭の中はますます混乱していく。
「文音ちゃん」
カウンター席に座った京也が手招きをしてくる。側まで行くと、文音は座るよう促された。腰を下ろしてから、ふたたび京也に顔を向ける。すると、彼の表情は普段よく見せる柔らかな笑みへと戻っていた。
「昼だが、カフェ飯で良ければ、まかないとして出せるがどうする? 毎日1種類しか作ってないから選ぶことは出来ないが、とりあえず食べてみるか?」
「いいんですか? わたし、カフェ飯大好きなんです」
「了解。んじゃ、歌緒理に言っておくわ」
「え、あ、自分で言いますよ」
文音が立ち上がろうとすると、京也がそれを手で制した。
「文音ちゃん、今日のお仕事は?」
「でも――」
「大丈夫だ。全部、俺に任せておけばいいんだよ。何も、気にするな」
そう言うと京也は、カウンター内にいる歌緒理に声を掛けた。京也と言葉を交わし、歌緒理はより一層嬉しそうな笑みを浮かべて頷く。
(ふたりとも、絵になってる……)
美男と美女。自分がこの場にいることすら忘れてしまいそうになるほど、二人とは世界が違うように感じた。
視線に気づいた歌緒理が顔を向けてくる。彼女が目を細めて笑ってきた。
つられて自分も笑ってみる。けれど胸の中では寂しさが広がっていった。
「本当にこれ、無償で頂いて良いんでしょうか?」
文音が真剣な顔をして言葉を口にした。手元には、まかないとして出されたプレートランチが置いてあり、その皿の上には、サーモンとクリームチーズがサンドされたバケットと有機野菜の旬のサラダ、それと具沢山のミネストローネスープが載っていた。
「歌緒理が良いって言ってんだから、良いんだよ」
隣に座って、同じ物を食べている京也が笑いながら言う。
「歌緒理さん、いつもより嬉しそうに準備していましたしね」
京也の真向かいに座り、一緒に昼食を取っていた葵が微笑みながら答えた。
「なら、いいんですけど……」
「こういう時は、素直に喜んで、素直に受け取っておけばいいんだよ。その方が歌緒理は喜ぶぞ。対価は金だけとは限らないからな」
京也に目を向けると、彼は優しい眼差しでこっちを見ていた。
「そうよ。私は、文音ちゃんが来てくれただけで嬉しいんだから。本当に遠慮しないで」
歌緒理がカップを手にしながら葵の隣に座る。そして急に、笑いを堪えるような仕草をしてから彼女は言葉を続けた。
「なにせ、京也ったらいい歳して――」
「おいっ」
京也は勢いよく立ち上がると、自身の斜め前に座る歌緒理の口を手で抑えた。そんな京也の行動に対し、歌緒理は全く動じることなく、文音を見つめたまま目を細めた。
「――っ、子供か!」
歌緒理から手をパッと離すと、京也は席に着いた。そして、歌緒理の方を軽く睨みつけながら、彼女の口元を抑えていた手のひらを紙ナプキンでゴシゴシと拭く。葵がくすくすと笑い、歌緒理は何事もなかったように珈琲を口に含んだ。
「あ! ありがとうございます~」
歌緒理が店内に目を向けながらすっと立ち上がった。視線を追ってみると、客がレジに向かうところだった。文音は京也の方を振り向き、さっきからずっと気になっていた事を、出来るだけ普段の自分を意識しつつ聞いてみた。
「京也さんと歌緒理さんの付き合いは、どれくらいなんですか?」
「そうだな……二十歳ん時からだから15年くらいか」
「じゅ、15年!?」
勝てる気がしない。そう思った直後、文音はハッと我に返った。
(何考えてんの、わたし。京也さんと歌緒理さんがどれだけ仲が良くたって、関係ないでしょ。だってわたしは、一生独りで生きていくんだから)
文音は手をぎゅっと握ると、気を取り直して、ふたたび口を開けた。
「京也さんって35歳だったんですね。わたしよりも5歳上なんですね。作家デビューしたのは、何歳の時だったんですか?」
京也が文音の目を見てニヤッと笑った。
「それは、まだ言えないな」
さりげなくペンネームのヒントになりそうな質問を入れ込んでみたのだが、やはり気づかれてしまった。それならと、文音は思い切って葵に話を振ってみることにした。
「葵さんは、京也さんのペンネームとかご存じなんですか?」
「はい」
葵はニコッと笑って答えてくれた。
「文音ちゃん。言っておくが、葵から聞き出そうとしても無駄だからな。こいつは他人のことを簡単に話すような奴じゃない。ましてや、自分のこととなると、もっと話さないからな」
京也は「残念だったな」と言いながら、ほくそ笑んだ。京也の言う通り、葵は微笑んでみせるだけで、何も言ってこなかった。文音は諦めずに、別の質問を京也に投げてみた。
「じゃあ、作家になろうと決めたきっかけは何だったんですか?」
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「えっ?」
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京也の笑みに少しだけ苦しみの感情が混ざる。
「それから俺は、自分の人生の優先順位を見直したんだ。以前、文音ちゃんに偉そうなこと言ったけど、俺にも似たような時期があったんだよ。んで、今は充実した日々を送れている。悲しい出来事も、自分がどう捉えて、どう対応するかで決して無駄にはならないということも知った。だから、文音ちゃんも過去に起きたことから何かを見つけられるといいな、と俺は思っている」
京也が穏やかな笑みを浮かべて見てくる。文音は心の中がじんわりと温かくなるのを感じた。
「そろそろ歌緒理と交代するか。葵、珈琲のお代わりいるか?」
「お願いします」
「あ、じゃあ、わたしカウンターに移動しますね」
京也と同じく葵もすでに食べ終わっていた。文音はあと少しだったが、このまま葵と二人きりになるのも気が引けたので、席を移ることにした。
葵は13時に、歌緒理は14時半頃に帰って行った。15時になると、京也が「上がっていいぞ」と声を掛けてきたので、文音もそのタイミングで店を後にしたのだった。
文音は帰宅するとすぐに、ベッドの上へ寝転がり、ぼーっと天井を眺めた。
(いろいろあったけど、楽しかったな――)
そう思った直後、本当にこんな日々を送って大丈夫なのか、という不安が生まれた。そんな自分の気持ちに文音は気がつくと、ゆっくり息を吸ってから、吐く息とともに不安を外へと出していった。
(せっかく京也さんがくれた機会なんだから、大事にしないと)
今の自分だからこそ、何かを見つけられるはずだ。彼はそう言ってくれたのだ。
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そう心に決めると、文音は静かに瞼を閉じた。
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少し遅れて、小さな笑い声が耳に入ってきた。
(え……今の、わたし……)
文音は目を大きく開け、息を呑んだ。
たった一日で、こんなにも京也の存在が大きくなってしまうなんて。文音は焦りを覚えた。
「答えを見つけることに、集中しなくちゃ」
わざと声に出し、文音はそう自分に言い聞かせると、京也に対する感情のすべてを胸の奥へと押しやり、きつく封をしたのだった。
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