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第6話 - 1
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「京也、今いいか」
スーツ姿の男性が、カウンター席に座っていた京也に声を掛けてくる。男性は店に入ってくるなり一直線に京也の元へとやってきたのだった。
「帰国早々に何だよ。部屋の件は片付いただろ」
京也が気怠そうに言葉を返す。男性に対する態度が歌緒理の時と似ている。隣で様子を見ていた文音はふとそう感じた。
(もしかしたら、仲が良い人なのかも)
京也のアシスタントをしてはや三ヶ月。一番意外だったのは、彼がどの客に対しても敬語を使っていたことだった。
(葵さんだけ、違ったんだよね。歌緒理さんの家族だからかな……って、あれ? そういえば京也さんって、わたしに敬語使ってた時期あったっけ?)
「相談したいことがある」
男性の発した言葉が思考を遮ってくる。文音は無意識に二人のやり取りを見守った。
「相談ね……まぁ、いいけど。ここでもいいか?」
京也が空いている隣のカウンター席を指差す。男性は店に入ってきた時と変わらず、無表情のまま口を開いた。
「ああ、問題ない」
(日本人……だよね)
面長ですっきりとした顔立ち。それにすっと通った鼻筋と、きっちりしたスーツ姿が相まって、どことなく西洋人っぽい雰囲気が漂っている。
(しかも、イケメン……)
文音は男性の目元をじっと見つめた。京也と葵で耐性がついたのか、心臓が勝手に暴れ出すようなことはもうなかった。
「タカアキ。そこに歌緒理と葵がいるぞ。大事なクライアントに挨拶しなくていいのか? 葵には部屋の件でも世話になったんだろ。改めて礼言っておけよ」
文音の視線に気づき、男性が何かを言おうとした瞬間、京也が先に言葉を発してくる。男性は京也が指し示したテーブルに顔を向けた後、口元に微笑を浮かべて京也に目を戻した。
「久々だったので完全に失念していた。京也、助かった」
言い終えるとすぐに、男性は二人のところへと向かい、紳士的な態度で会話を始めた。軽く雑談を交わし、恭しく頭を下げる。そして、身体の向きを変えるなり、男性は声を発してきたのだった。
「君が葭葉さん?」
「えっ? あ、はいっ」
文音は反射的に椅子から立ち上がった。今までとは打って変り、男性の目には鋭さが宿っていたのだ。男性がコツコツと靴音を立てて近づいてくる。心なしか男性の歩く速度が、さっきよりも遅く感じられた。
「そう言えば、文音にはまだ紹介してなかったな。こいつは税理士の宮瀬貴章」
京也が間に入ってくる。行く手を阻まれた宮瀬は、京也の顔を見てふっと笑った後、文音に目を戻してから口を開いた。
「宮瀬だ。よろしく」
「葭葉です。よろしく……お願いします」
「貴章、珈琲入れてやるから、座って待ってろ」
挨拶が終わるのと同時に、京也が宮瀬の肩に手を置き、指定した席に座るよう促す。宮瀬が椅子に座ったところで、文音も席に着いた。
「京也。昼はまだあるか? あるならそれも頼みたい」
「了解」
そう返事をしながら京也は店の出入口へと向かって歩き出す。続いてレジに向かう客の姿が目に入ってきた。休憩中の歌緒理が気を遣って席を立とうとするも、京也はそれをやんわりと手で制し、レジに立った。と、そこで、宮瀬が文音に声を掛けてきた。
「担当の者が君のことを褒めていたので、一度会ってみたいと思っていたんだ。会うことが出来て良かった」
「担当の方って、渋谷さんのことですか? 毎月、京也さんの本業関係の書類を受け取りに来て下さる……」
「ああ、そうだ」
「渋谷さんとは、いつも挨拶を交わすことくらいしかしてないんですけど……」
文音は首を傾げた。アシスタントとして雇われているハズなのに、京也の本業に関する書類には一切触れたこともなく、毎月行われている京也と渋谷の打ち合わせには、同席はもちろん、近づくことすら許されていなかったのだ。
「彼女が君のことを褒めていたのは事実だ。君のおかげで、京也が良い意味で変わったと言っていた」
「そうなんですか? わたしよりも渋谷さんの方がすごいですよ。関わりのない、わたしにまで気を遣ってくだるんですから。まわりのことまで考えながら、お仕事が出来る方なんだなって思いました」
「ありがとう。彼女が聞いたらきっと喜ぶだろう。君の言う通り、彼女は自分のことだけでなく、全体のことを考えながら動ける貴重な人材なんだ」
宮瀬が視線を落として微笑む。けれどすぐに、また強い意思を持った眼差しをこちらへと向け、彼は言葉を継いできた。
「私としても、君が来てくれたおかげで助かった」
「え?」
「京也は、良くも悪くも大事だと判断したもの以外、心を動かさない。しかし、君が関わることで、あいつは嫌でも検討せざるを得なくなる」
依頼している税務処理で、京也は宮瀬たちを困らせているのだろうか。頑なに譲らないところはあるが、宮瀬の言うような京也を想像することが出来ず、文音は「はぁ……」と曖昧な相槌を打つしかなかった。
(宮瀬さんが言ってるのは、仕事のことじゃなくて友人としての話なのかな?)
そう思った文音は、思い切って宮瀬に質問をしてみることにした。
「京也さんとの付き合いは長いんですか?」
「ああ。ジュンセイさん……京也の親父さんと私の父は元同僚で、とても仲が良かったんだ。その関係で京也とは小さい頃からの付き合いだ」
「貴章。ナンパなら余所でやれ」
会計を終えた京也が、宮瀬を睨みながら横を通り過ぎていく。
「その反応、お前らしくないな」
宮瀬が口元にだけ笑みを作って答えた。すると京也は、舌打ちするような表情を宮瀬に返し、カウンターの中へと入っていったのだった。
(もしかして、相当仲が良いのかも……)
ここまで不機嫌そうに振る舞う京也は見たことがない。そして、そんな彼の様子を面白そうに見ている宮瀬の横顔を、文音はまじまじと見つめた。
ふたたび宮瀬が文音に視線を戻してくる。それから彼は、何事もなかったかのように話しを続けてきた。
「京也とは高校から大学まで同じ学校だった。大学を同時に卒業した後、父親達を手伝うため一緒に働いていた」
「えっ! 京也さんって、税理士さんだったんですか?」
「おい貴章。顧客の個人情報を勝手に漏らすのは良くないことだって知ってるよな」
背後から京也の声が飛んでくる。そのすぐ後に、プレートランチを手にした京也が、文音の横を通り過ぎていった。文音に背を向けるようにして京也は宮瀬の前に皿を置くと、そのままテーブルに手を突き、もう片方の手を腰へと当てた。
「これ以上は、余計なこと言うなよ」
京也はそう告げてから宮瀬の耳元に顔を近づけた。そしておもむろに顔を離し、踵を返しながら言葉を残していく。
「それを破ったら、お前とは距離を置く。いいな」
「お前に嫌われたら困るからな。それは守ろう」
京也に不敵な笑みを向け、宮瀬は自信たっぷりにそう答えたのだった。
(何を言ったんだろう……)
文音が首を捻っていると、不意に宮瀬が別の話題を振ってきた。
「葭葉さんは、経理事務の経験があるようだな」
「あ、はい。でも決算業務まではやったことないですけど」
ふと苦しかった時の記憶が蘇り、文音は意識的に笑顔を作ってみせた。
(最近は思い出すことも減って、もう大丈夫なんだと、そう思ってたけど……)
どうやらまだ、自分の中でうまく消化出来ていなかったようだ。文音の心臓がトクトクと脈を打ち始める。
「履歴書の資格欄に簿記三級とあったな。二級は取らなかったのか?」
「え……と、途中から著作権とマネジメントに興味が沸いて、そっちを勉強してました」
宮瀬の視線が京也の方へと動く。宮瀬は文音に視線を戻すと、少しだけ声を落として質問を続けてきた。
「知的財産管理技能士の資格も取っていたな。君が著作権の知識を持っていたことを、京也は雇う前から知っていたのか?」
「え? あ……それは話したことなかったので、知らなかったと思います……」
質問の意図が分からない。そもそもなぜ宮瀬は履歴書を見たのだろう。そんな疑問が文音の脳裏に浮かんだ瞬間、宮瀬がまた京也に目を遣るのが見えた。
(京也さんに聞かれたくないことでもあるのかな?)
そう思った直後、意外にも宮瀬は声量を上げて言葉を発してきたのだった。
「君は向上心があるのだな。このまま京也のアシスタントとして、ずっとやっていくつもりなのか?」
「えっ……」
文音の目が大きく開く。心臓が激しく震え始めた。
(あれ……わたし、これからどうするんだろ……)
初対面の人物から、その疑問が投げかけられるということは、今の自分の状況は端から見て、かなりおかしいということなのだろうか。
(そうだよね……お給料はもらってるけど、ただ京也さんと一緒にいるだけで、実際には何もしてないんだもんね……)
「あ、えっと……そうですね。どうするか、そろそろ考えないと」
(胸がモヤモヤする――)
このままでいたいという想いと将来に対する不安がせめぎ合う。宮瀬が向けてくる真っ直ぐな眼差しが、余計に文音をいたたまれない気持ちにさせた。
「……貴章、何度も言わせるなよ」
京也の声が入ってくる。振り向いてみると、カウンター内から直接、珈琲を提供する京也の姿が目に映った。
「少し会話を交わしただけで何故そこまで怒る? いつからそんな余裕のない男になったんだ、京也」
京也が突き刺すような目で宮瀬を見る。文音は咄嗟に宮瀬が手にしたカップへと視線を動かした。
「……京也。手を抜いたな」
「ああ、お前のせいで手元が狂った」
悪態をつきながら京也が自分の席に腰を下ろしてくる。
(いつもの京也さんだったら、絶対に入れ直したのに……)
文音は軽く唇を噛み、手元の本に目を向けた。
「時間の都合上、食事を取りながらで悪い。本題なんだが……」
宮瀬が唐突に話を切り出してくる。文音は慌てて本を開いた。他人の相談ごとを勝手に聞くのは良くない。そう思ったものの、これから交わされようとしている話に、文音はつい耳を傾けてしまった。
「来年度、正式に後を継ぐことが決まった。これを機に、組織を再構築したいと考えている。その為に、一人でも多く信頼出来る人材が欲しい。少しの間だけでもいい。京也、力を貸してくれないか。……勿論、葭葉さんも一緒に」
「えっ!?」
驚きのあまり文音は声を上げて二人の方を振り向いた。
そんな文音を、京也はチラとも見ることなく口元に手を添えると、目を凝らすようにして、目の前にあったタブレット型PCの画面を見つめ始めたのだった。
文音は静かに手元の本へと目を戻していく。
「文音」
突然、京也に名前を呼ばれ、文音の肩が小さく跳ねる。
「な、なんですか」
文音はゆっくりと京也の方を振り向いていった。
「お金?」
京也が差し出してきたものを、文音は首を傾げながら受け取る。すると京也は、口を閉じたまま胸ポケットからメモ帳を取り出し、数枚のメモを切り離した。そして、そのメモを紙幣の上へと乗せ、ようやく京也は口を開いたのだった。
「今から駅前の本屋に行って、そこに書いてある本を買ってきてくれないか? 在庫があるものだけでいい。それと、文音が読みたいものを数冊。勤務時間めいっぱい使って、ゆっくり選んでこい。途中で疲れたり、時間が余ったりするようだったら、併設されているカフェで休憩しろ。代金は全部、今渡した分から出しておけ。いいな」
「……わかりました」
未だに笑みを見せない京也を見て、文音はそう返事をすると、支度をしに事務所へと向かった。
(15時まで、あと一時間半か……)
駅前の本屋まで歩いて5分。本屋には在庫の有無が調べられる端末が置いてあり、在庫があるものに関しては置いてある場所まで表示される。
(メモに書いてあった本は十冊くらいだったよね)
それならきっと30分も掛からない。最低でも週一回は通っている店なのだ。自分の読みたい本だって、もう目星はついている。
(でも、京也さんの指示からして、15時までは戻ってきちゃダメってことだよね……)
ふと文音の胸に、言い様のない感情が込み上げてきた。文音はそっと目を閉じ、深く息を吸った。
(京也さんはただ集中したかっただけなのかも。とにかく、まずは頼まれた仕事をしに本屋さんに行ってこよっ)
支度を済ませ、事務所の扉を開ける。と、PCの画面を凝視している京也と、それをじっと見つめる宮瀬の姿が視界に入ってきた。そんな二人を横目に見つつ、文音は店の出入口へと向かう。
「文音ちゃん」
すれ違い様に歌緒理が声を掛けてきた。振り返ってみると彼女の優しい笑みが目に飛び込んでくる。
「あの二人はいつもあんな感じなの。だから、そんなに心配しなくて大丈夫よ。それよりも、気をつけて行ってらっしゃいね」
文音の胸に残っていた不安が跡形もなく消えていく。文音は表情を緩めて頷くと、軽やかに身体の向きを変え、店を出ていった。
スーツ姿の男性が、カウンター席に座っていた京也に声を掛けてくる。男性は店に入ってくるなり一直線に京也の元へとやってきたのだった。
「帰国早々に何だよ。部屋の件は片付いただろ」
京也が気怠そうに言葉を返す。男性に対する態度が歌緒理の時と似ている。隣で様子を見ていた文音はふとそう感じた。
(もしかしたら、仲が良い人なのかも)
京也のアシスタントをしてはや三ヶ月。一番意外だったのは、彼がどの客に対しても敬語を使っていたことだった。
(葵さんだけ、違ったんだよね。歌緒理さんの家族だからかな……って、あれ? そういえば京也さんって、わたしに敬語使ってた時期あったっけ?)
「相談したいことがある」
男性の発した言葉が思考を遮ってくる。文音は無意識に二人のやり取りを見守った。
「相談ね……まぁ、いいけど。ここでもいいか?」
京也が空いている隣のカウンター席を指差す。男性は店に入ってきた時と変わらず、無表情のまま口を開いた。
「ああ、問題ない」
(日本人……だよね)
面長ですっきりとした顔立ち。それにすっと通った鼻筋と、きっちりしたスーツ姿が相まって、どことなく西洋人っぽい雰囲気が漂っている。
(しかも、イケメン……)
文音は男性の目元をじっと見つめた。京也と葵で耐性がついたのか、心臓が勝手に暴れ出すようなことはもうなかった。
「タカアキ。そこに歌緒理と葵がいるぞ。大事なクライアントに挨拶しなくていいのか? 葵には部屋の件でも世話になったんだろ。改めて礼言っておけよ」
文音の視線に気づき、男性が何かを言おうとした瞬間、京也が先に言葉を発してくる。男性は京也が指し示したテーブルに顔を向けた後、口元に微笑を浮かべて京也に目を戻した。
「久々だったので完全に失念していた。京也、助かった」
言い終えるとすぐに、男性は二人のところへと向かい、紳士的な態度で会話を始めた。軽く雑談を交わし、恭しく頭を下げる。そして、身体の向きを変えるなり、男性は声を発してきたのだった。
「君が葭葉さん?」
「えっ? あ、はいっ」
文音は反射的に椅子から立ち上がった。今までとは打って変り、男性の目には鋭さが宿っていたのだ。男性がコツコツと靴音を立てて近づいてくる。心なしか男性の歩く速度が、さっきよりも遅く感じられた。
「そう言えば、文音にはまだ紹介してなかったな。こいつは税理士の宮瀬貴章」
京也が間に入ってくる。行く手を阻まれた宮瀬は、京也の顔を見てふっと笑った後、文音に目を戻してから口を開いた。
「宮瀬だ。よろしく」
「葭葉です。よろしく……お願いします」
「貴章、珈琲入れてやるから、座って待ってろ」
挨拶が終わるのと同時に、京也が宮瀬の肩に手を置き、指定した席に座るよう促す。宮瀬が椅子に座ったところで、文音も席に着いた。
「京也。昼はまだあるか? あるならそれも頼みたい」
「了解」
そう返事をしながら京也は店の出入口へと向かって歩き出す。続いてレジに向かう客の姿が目に入ってきた。休憩中の歌緒理が気を遣って席を立とうとするも、京也はそれをやんわりと手で制し、レジに立った。と、そこで、宮瀬が文音に声を掛けてきた。
「担当の者が君のことを褒めていたので、一度会ってみたいと思っていたんだ。会うことが出来て良かった」
「担当の方って、渋谷さんのことですか? 毎月、京也さんの本業関係の書類を受け取りに来て下さる……」
「ああ、そうだ」
「渋谷さんとは、いつも挨拶を交わすことくらいしかしてないんですけど……」
文音は首を傾げた。アシスタントとして雇われているハズなのに、京也の本業に関する書類には一切触れたこともなく、毎月行われている京也と渋谷の打ち合わせには、同席はもちろん、近づくことすら許されていなかったのだ。
「彼女が君のことを褒めていたのは事実だ。君のおかげで、京也が良い意味で変わったと言っていた」
「そうなんですか? わたしよりも渋谷さんの方がすごいですよ。関わりのない、わたしにまで気を遣ってくだるんですから。まわりのことまで考えながら、お仕事が出来る方なんだなって思いました」
「ありがとう。彼女が聞いたらきっと喜ぶだろう。君の言う通り、彼女は自分のことだけでなく、全体のことを考えながら動ける貴重な人材なんだ」
宮瀬が視線を落として微笑む。けれどすぐに、また強い意思を持った眼差しをこちらへと向け、彼は言葉を継いできた。
「私としても、君が来てくれたおかげで助かった」
「え?」
「京也は、良くも悪くも大事だと判断したもの以外、心を動かさない。しかし、君が関わることで、あいつは嫌でも検討せざるを得なくなる」
依頼している税務処理で、京也は宮瀬たちを困らせているのだろうか。頑なに譲らないところはあるが、宮瀬の言うような京也を想像することが出来ず、文音は「はぁ……」と曖昧な相槌を打つしかなかった。
(宮瀬さんが言ってるのは、仕事のことじゃなくて友人としての話なのかな?)
そう思った文音は、思い切って宮瀬に質問をしてみることにした。
「京也さんとの付き合いは長いんですか?」
「ああ。ジュンセイさん……京也の親父さんと私の父は元同僚で、とても仲が良かったんだ。その関係で京也とは小さい頃からの付き合いだ」
「貴章。ナンパなら余所でやれ」
会計を終えた京也が、宮瀬を睨みながら横を通り過ぎていく。
「その反応、お前らしくないな」
宮瀬が口元にだけ笑みを作って答えた。すると京也は、舌打ちするような表情を宮瀬に返し、カウンターの中へと入っていったのだった。
(もしかして、相当仲が良いのかも……)
ここまで不機嫌そうに振る舞う京也は見たことがない。そして、そんな彼の様子を面白そうに見ている宮瀬の横顔を、文音はまじまじと見つめた。
ふたたび宮瀬が文音に視線を戻してくる。それから彼は、何事もなかったかのように話しを続けてきた。
「京也とは高校から大学まで同じ学校だった。大学を同時に卒業した後、父親達を手伝うため一緒に働いていた」
「えっ! 京也さんって、税理士さんだったんですか?」
「おい貴章。顧客の個人情報を勝手に漏らすのは良くないことだって知ってるよな」
背後から京也の声が飛んでくる。そのすぐ後に、プレートランチを手にした京也が、文音の横を通り過ぎていった。文音に背を向けるようにして京也は宮瀬の前に皿を置くと、そのままテーブルに手を突き、もう片方の手を腰へと当てた。
「これ以上は、余計なこと言うなよ」
京也はそう告げてから宮瀬の耳元に顔を近づけた。そしておもむろに顔を離し、踵を返しながら言葉を残していく。
「それを破ったら、お前とは距離を置く。いいな」
「お前に嫌われたら困るからな。それは守ろう」
京也に不敵な笑みを向け、宮瀬は自信たっぷりにそう答えたのだった。
(何を言ったんだろう……)
文音が首を捻っていると、不意に宮瀬が別の話題を振ってきた。
「葭葉さんは、経理事務の経験があるようだな」
「あ、はい。でも決算業務まではやったことないですけど」
ふと苦しかった時の記憶が蘇り、文音は意識的に笑顔を作ってみせた。
(最近は思い出すことも減って、もう大丈夫なんだと、そう思ってたけど……)
どうやらまだ、自分の中でうまく消化出来ていなかったようだ。文音の心臓がトクトクと脈を打ち始める。
「履歴書の資格欄に簿記三級とあったな。二級は取らなかったのか?」
「え……と、途中から著作権とマネジメントに興味が沸いて、そっちを勉強してました」
宮瀬の視線が京也の方へと動く。宮瀬は文音に視線を戻すと、少しだけ声を落として質問を続けてきた。
「知的財産管理技能士の資格も取っていたな。君が著作権の知識を持っていたことを、京也は雇う前から知っていたのか?」
「え? あ……それは話したことなかったので、知らなかったと思います……」
質問の意図が分からない。そもそもなぜ宮瀬は履歴書を見たのだろう。そんな疑問が文音の脳裏に浮かんだ瞬間、宮瀬がまた京也に目を遣るのが見えた。
(京也さんに聞かれたくないことでもあるのかな?)
そう思った直後、意外にも宮瀬は声量を上げて言葉を発してきたのだった。
「君は向上心があるのだな。このまま京也のアシスタントとして、ずっとやっていくつもりなのか?」
「えっ……」
文音の目が大きく開く。心臓が激しく震え始めた。
(あれ……わたし、これからどうするんだろ……)
初対面の人物から、その疑問が投げかけられるということは、今の自分の状況は端から見て、かなりおかしいということなのだろうか。
(そうだよね……お給料はもらってるけど、ただ京也さんと一緒にいるだけで、実際には何もしてないんだもんね……)
「あ、えっと……そうですね。どうするか、そろそろ考えないと」
(胸がモヤモヤする――)
このままでいたいという想いと将来に対する不安がせめぎ合う。宮瀬が向けてくる真っ直ぐな眼差しが、余計に文音をいたたまれない気持ちにさせた。
「……貴章、何度も言わせるなよ」
京也の声が入ってくる。振り向いてみると、カウンター内から直接、珈琲を提供する京也の姿が目に映った。
「少し会話を交わしただけで何故そこまで怒る? いつからそんな余裕のない男になったんだ、京也」
京也が突き刺すような目で宮瀬を見る。文音は咄嗟に宮瀬が手にしたカップへと視線を動かした。
「……京也。手を抜いたな」
「ああ、お前のせいで手元が狂った」
悪態をつきながら京也が自分の席に腰を下ろしてくる。
(いつもの京也さんだったら、絶対に入れ直したのに……)
文音は軽く唇を噛み、手元の本に目を向けた。
「時間の都合上、食事を取りながらで悪い。本題なんだが……」
宮瀬が唐突に話を切り出してくる。文音は慌てて本を開いた。他人の相談ごとを勝手に聞くのは良くない。そう思ったものの、これから交わされようとしている話に、文音はつい耳を傾けてしまった。
「来年度、正式に後を継ぐことが決まった。これを機に、組織を再構築したいと考えている。その為に、一人でも多く信頼出来る人材が欲しい。少しの間だけでもいい。京也、力を貸してくれないか。……勿論、葭葉さんも一緒に」
「えっ!?」
驚きのあまり文音は声を上げて二人の方を振り向いた。
そんな文音を、京也はチラとも見ることなく口元に手を添えると、目を凝らすようにして、目の前にあったタブレット型PCの画面を見つめ始めたのだった。
文音は静かに手元の本へと目を戻していく。
「文音」
突然、京也に名前を呼ばれ、文音の肩が小さく跳ねる。
「な、なんですか」
文音はゆっくりと京也の方を振り向いていった。
「お金?」
京也が差し出してきたものを、文音は首を傾げながら受け取る。すると京也は、口を閉じたまま胸ポケットからメモ帳を取り出し、数枚のメモを切り離した。そして、そのメモを紙幣の上へと乗せ、ようやく京也は口を開いたのだった。
「今から駅前の本屋に行って、そこに書いてある本を買ってきてくれないか? 在庫があるものだけでいい。それと、文音が読みたいものを数冊。勤務時間めいっぱい使って、ゆっくり選んでこい。途中で疲れたり、時間が余ったりするようだったら、併設されているカフェで休憩しろ。代金は全部、今渡した分から出しておけ。いいな」
「……わかりました」
未だに笑みを見せない京也を見て、文音はそう返事をすると、支度をしに事務所へと向かった。
(15時まで、あと一時間半か……)
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(メモに書いてあった本は十冊くらいだったよね)
それならきっと30分も掛からない。最低でも週一回は通っている店なのだ。自分の読みたい本だって、もう目星はついている。
(でも、京也さんの指示からして、15時までは戻ってきちゃダメってことだよね……)
ふと文音の胸に、言い様のない感情が込み上げてきた。文音はそっと目を閉じ、深く息を吸った。
(京也さんはただ集中したかっただけなのかも。とにかく、まずは頼まれた仕事をしに本屋さんに行ってこよっ)
支度を済ませ、事務所の扉を開ける。と、PCの画面を凝視している京也と、それをじっと見つめる宮瀬の姿が視界に入ってきた。そんな二人を横目に見つつ、文音は店の出入口へと向かう。
「文音ちゃん」
すれ違い様に歌緒理が声を掛けてきた。振り返ってみると彼女の優しい笑みが目に飛び込んでくる。
「あの二人はいつもあんな感じなの。だから、そんなに心配しなくて大丈夫よ。それよりも、気をつけて行ってらっしゃいね」
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公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
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