君と紡ぐ物語

桜糀いろは

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第7話 - 1

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 外は煙るような雨。店の窓にはたくさんの雨粒。文音は窓辺に寄り、雨粒が流れ落ちていく様子を静かに眺めた。
(気のせい、かな……)
 ガラス越しに水の跡をなぞってみる。夏に向かって気温が上がってきているせいか、文音は指先に温かみを覚えた。
「文音」
 突然、京也の声が入ってくる。振り向いてみると、すぐ目の前に微笑みを浮かべた京也の顔があった。
「何してるんだ?」
「え、あ、窓を、拭こうかと……」
 自分でも何をしていたのか分からず、文音はふと思いついた言葉を口にした。
「こんな天気だし、拭くのは明日でもいいぞ。で、何をしてたんだ?」
 外をチラと見てから、京也が質問を繰り返す。文音が返答に窮していると、京也はこめかみの辺りにキスを落とし始めた。
「ちょっ、京也さん!」
 慌てて京也から離れる。しかし、彼の逞しい腕が腰に当たり、離れられたのは上半身だけだった。
「何だよ」
 ほくそ笑みながら京也が腰を引き寄せる。二人の身体がぴたりとくっついた。
「こ、ここだと、外から見えちゃいますっ」
「さっきから人っ子一人通ってないだろ」
「でも……んっ」
 京也が唇にキスをしてくる。文音は背中を反らして顔を離した。
「だから、ダメですってば」
「なら教えろよ。教えるまで止めないからな。どっちか選べ。教えるか、このままキスされ続けるか」
 そう言って京也は、もう片方の腕を背中へと回した。
(これじゃ逃げられない――)
 文音は急いで彼が提示した選択肢を比べた。
(……って、あれ? どっちにしても、京也さん的には良いんじゃ……)
 今まで咄嗟に「マシな方」を選んでは安堵してきたが、よくよく考えてみると、彼に有利な選択肢しか用意されてないではないか。
(これからは、自分で考えた答えを言おっと)
 そう決めた矢先、京也が行動を起こす。文音は顔を逸らし、口を開いた。
「わかりました! 雨です! 雨を見てたんです!」
「そんなのは見てれば分かる。俺が知りたいのは、文音は何を思って、窓ガラスを触ったかだ」
「え……と」
 文音は言い淀んだ。けれど、京也の温もりに誘われ、今度は言葉にしてみることを選んだのだった。
「感じ方が、変わっていたことに気がついたんです。以前は、冷たい雨の中に、哀しみや苦しみを少しずつ流し込んでいくような感じだったのが、今は……温かいものが自分の中に流れ込んできて、心地好いというか……なんか、よく分からないですよね」
 苦笑しながら顔を上げる。すると、口元を綻ばせた京也の顔が目に映った。
 文音は静かに額を彼の肩に押しつけた。
「京也さんのおかげかも……」
 瞼を下ろして、ゆっくりと息を吸う。こうして彼に抱きしめてもらっているだけで、満ち足りた気持ちになっていく。それがまた嬉しくて、文音は京也のシャツに頬を擦りつけた。
「文音もやっと積極的になったか」
「えっ」
 文音が声を発した途端、京也が思いっ切り身体を抱き竦めてきた。
「ち、違います! 京也さんの罠に嵌まったんです!」
 知らないうちに気持ちを解きほぐしてしまう京也のせいなのだ。心の中でそう言い訳をつけ足し、文音は必死になってもがいた。それでも解けない拘束に、文音が身体をぐったりさせると、京也が耳元でくつくつと笑い出したのだった。
「いやー、店閉めようか本気で迷ったわ」
 京也が腕の力を抜く。ふと文音の脳裏に淫らな想像が走った。
(京也さんが変なこと言うから――)
 こっそり顔を横に遣る。それなのに、彼はすぐに気づいて顔を覗き込んできた。文音は身体を半回転させ、京也に背を向けた。
「もー、いい加減、離してくださいよー」
 しっかりと繋がれた大きな手が目に入る。文音は手首を握り、力を込めて左右に引っ張ってみた。外れない。文音ががっくりと肩を落とすと、京也がまた笑い始めた。
「やっぱ、飽きないわ」
 ひとしきり笑った後、京也はそう言って手を離した。文音は小さく息を吐き、後ろを振り返る。
「え、ちょっと、何を――」
 京也が手を取り、歩き出す。文音は身を硬くして、その場に踏み留まった。
「何をって、話したいことがあるから席に……何だ、期待したのか」
「なっ、なにも期待してませんから!」
 京也の手を振りほどき、文音は彼を無視するかのように、まっすぐ前を見ながら自分の席に着いた。
「なあ、文音。どこか行きたい所はないか?」
「行きたい所……ですか?」
 唐突すぎる質問に、文音は怒っていたことを忘れ、京也に目を向けた。
「ああ、そうだ。どこでもいい。とりあえず思いついた場所を言ってみろ」
 京也が柔らかい笑みを浮かべてくる。どうやら仕事とは関係なく、純粋な気持ちで聞いてくれているようだ。文音は視線を天井に移し、思いを巡らせてみた。
「そうですね……」
 あれを買いに行きたい。これを見に行ってみたい。会社員として働いていた頃は、それがたくさんあった。
(でも、今は……)
 そろりと視線を戻す。珍しく京也は、不思議そうな顔をして首まで傾げていた。
「遠慮なんてするなよ。思い切って海外とかでもいいぞ」
「えっ!? 海外、ですか?」
 毎日一緒にいながらも、彼とは駅前の本屋と、その周辺にあるカフェくらいしか行ったことがなかった。それなのに、いきなり海外旅行とは、一体どうしたのだろうか。
(もしかして、飽きてきたのかな? そんな素振り、全然なかったけど……にしても、なんで海外なんだろう。国内よりも海外の方が、気が楽とか? 京也さん、普通に立ってるだけでも、人の目を引くしね……海外の観光地なら、多少はマシなのかも)
 自分には一生縁のない悩みだ。文音は思わず苦笑した。すると、京也がさらに提案を重ねてきた。
「ハワイはどうだ? 興味ないか?」
「えっ! 京也さんもハワイ好きだったんですか!」
「いや、言ってみただけだ」
「…………」
 海外旅行といえばハワイ。ただそれだけのことだったのか。文音は一瞬、期待してしまっただけに、すぐに言葉を返すことが出来なかった。
 しかし、そんな文音の様子を気にすることなく、京也は話を振ってくる。
「文音は行ったことあるのか? ハワイに」
「あ、はい。好きすぎて、ここ数年は毎年行ってました」
「なるほど。で、ハワイでは何をしてたんだ?」
「え……、えーっと……」
 同じ質問を会社の同僚たちにされた時は、いつも普通に答えていた。そしてその答えをみんなから変だと笑われても、全く気にしなかった。けれど、京也に笑われてしまうかもしれない、そう思った瞬間、文音は言葉を詰まらせた。
「何だよ、言えないことでもしてたのか」
「し、してません! 普通に……散歩してました」
「それだけか?」
「あとは、ホテルのラナイで……あ、ラナイって日本で言うベランダなんですけど、そこで海を眺めながら……、読書を……」
「読書? 文音は本当に、本を読むのが好きなんだな」
 京也が笑い出す。しかし彼の眼差しは、とても優しいものだった。
「じゃあ、読書しにハワイ行くか?」
「え――」
 頭の中がハワイの景色で埋めつくされていく。のんびりとした雰囲気、異国の人たちの笑顔、空と海と風。どれも堪らなく好きだった。なのに――。
「その、実は……」
「実は?」
「行きたいと思うような所が……ないんです」
 彼にとって想定外の答えだったのだろう。京也は普段なかなか見せることのない驚きの感情を顕わにした。
「俺とは、どこにも行きたくないってことか?」
「いえ、そうことではなくて、わたしはこうして京也さんと二人っきりで、ゆっくり過ごすのが大好きなんです。だから、どこかに出掛けてというのが、今はたまたま思いつかなかっただけです」
「それなら、まあ……いいか」
 少し照れくさそうに京也が視線を外す。何とか誤解だけは防げたようだ。文音はほっと胸をなで下ろした。
「……あ」
「どうした?」
 文音の声に反応して、京也が目を合わせてくる。その途端、これから言おうとしていたことが、なぜかとても恥ずかく感じられ、文音は視線を落としながら言葉を口にした。
「京也さんの、お家うちに行ってみたいです」
 言い終えてから、そっと彼の反応を窺う。すると、京也が唇を噛むのが見えた。
「駄目……ですか?」
 文音が問い掛けると、京也はPCの画面へと視線を移し、考え込むような仕草とともに答えを返してきたのだった。
「そうだな……ちょうど仕事が立て込んでいて、部屋の中が荒れてるんだよな……」
 文音は、その様子を想像することが出来なかった。なぜなら、彼の身の回りは、いつだってキレイに整っていたからだ。
(そんなにすごいのかな? もしそうなら、それはそれで見てみたいかも)
 京也のことを、もっとよく知りたい。普段見られない一面なら、なおさらだ。
「散らかっていても、わたしは気にしないですよ」
 文音が微笑むと、京也はニヤリと笑った。
「まあ、その方が文音には都合がいいよな。部屋にある物から、俺のペンネームが分かるかもしれないし」
「ペンネーム? あー、そう言えば」
 アシスタントとして誘われた時に、彼のペンネームを当てると宣言したことを、文音は今になって思い出した。彼は絶対、官能小説を書いているに違いない。そう感じることは多々あっても、ペンネームのことまでは考えていなかった。
「何だよ、俺にもう興味ないのか?」
 京也が真顔で聞いてくる。それに対し文音も真顔で応えた。
「興味はありますよ。でも、京也さんが言おうとしないことを、無理して知る必要はないかなって思って、気にするのは止めたんです」
「俺が書いてる内容ことも、気にならないのか?」
「もちろん、京也さんに興味がある以上、気にならないわけないじゃないですか。だけどもし、わたしが京也さんの本を読むことで、京也さんが書きづらくなるのなら、わたしは読みません。それを約束して欲しいと言われれば、約束だって出来ます。京也さんには、いつだって自然体でいて欲しいので」
 彼は悩みを受け入れてくれただけでなく、自分を助けてもくれたのだ。そんな彼のために、自分も出来る限りのことをしてあげたい。文音はそんな想いを込めて言葉を紡いだ。それなのに、京也は笑みを見せるどころか、表情を崩すことなく、じっとこちらを見据えていたのだった。
(重すぎた……かな)
 そう感じ取った文音は慌てて言葉をつけ足した。
「とか言いながら、わたし以外が京也さんの作品を読めるんだなって思うと、ちょっとだけ、いじけたくなりますけどね」
「文音……」
 京也の眉間に皺が寄る。彼のその表情は、心なしか何かを躊躇っているようにも見えた。文音は口を閉じ、京也の反応を待った。
 と、その時、澄んだドアチャイムの音が店内に鳴り響いた。
「おー、葵か。雨の日でも、時間ぴったりだな」
 京也が上体を捻り、傘をたたんでいる葵に声を掛ける。葵が苦笑を返すと、京也は静かに文音へと向き直った。そして、少しだけ苦しそうな笑みを浮かべ、彼は口を開けた。
「文音、ありがとな。悪いが、もう少しだけ時間をくれるか?」
 胸の奥がぎゅっと締めつけられたかのように苦しかった。それでも文音は、笑顔を作って頷いた。
 すると京也は、葵がいるにも関わらずゆっくりと文音の頭を撫で、それから席を立ったのだった。
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