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第1話「凍てつく地への追放と終わりの始まり」
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ガタンと大きく車輪が跳ね、私の体は硬い木の壁に打ち付けられた。
吐く息が白い。
窓の隙間から吹き込む風は、刃物のように鋭く肌を刺してくる。
私は擦り切れた毛布をかき集め、かじかんだ指先を懸命に温めようとした。
けれど、体の芯まで染み込んだ寒さは、容易には消えそうにない。
『あとどれくらいで着くのかしら』
御者に尋ねようとしたが、声が出なかった。
喉が渇き、寒さで震えているせいだ。
王都を出発して今日で十日目。
景色からは緑が消え、今や視界を埋め尽くすのは無慈悲な白銀の世界だけだった。
「おい、もうすぐヴォルガード領に入るぞ。罪人にしては上等な旅もこれでおしまいだ」
御者の投げやりな声が聞こえた。
罪人。
その響きに、胸の奥がチクリと痛む。
私はリリアナ・フローレス。
フローレス伯爵家の長女であり、つい数週間前までは王太子エドワード殿下の婚約者だった。
けれど今は、聖女の力を偽り、義妹のミレーヌを害そうとした大罪人として、この極寒の地へ追放される身だ。
『やっていないわ。私は、誰も傷つけていない』
何度叫んでも、誰も信じてくれなかった。
エドワード殿下は冷ややかな目で私を見下ろし、父も母も、愛らしいミレーヌの言葉だけを信じた。
『お姉様が、私の聖女としての素質を妬んで毒を盛ったのです』と泣き崩れるミレーヌの演技は、完璧だったから。
そうして私は、着の身着のままに近い状態で馬車に押し込められ、北の果てにある「氷の公爵」が治める地へと送られたのだ。
「着いたぞ! さっさと降りろ!」
馬車が停止し、乱暴に扉が開けられる。
吹きすさぶ吹雪が車内に雪崩れ込み、私は思わず身を縮めた。
よろめきながら外に出ると、そこは断崖の上にそびえ立つ、黒い城の前だった。
ヴォルガード城。
人々が恐怖を込めて「魔王の城」と呼ぶ場所。
城壁は氷に覆われ、尖塔は空を突き刺すように鋭い。
ここで暮らすアレクセイ・ヴォルガード公爵は、魔物を単独で殲滅するほどの強大な魔力を持つ反面、血も涙もない冷徹な男だと噂されている。
追放先がここだと知らされた時、王都の貴族たちは『死刑よりも残酷だ』と囁き合っていた。
「荷物はこれだけだ。じゃあな、俺はこんな寒い場所ごめんだね!」
御者は私の足元に小さな鞄を放り投げると、逃げるように馬車を走らせていった。
取り残された私は、呆然と立ち尽くす。
足の感覚がなくなりかけている。
このままでは凍え死ぬ。
私は震える足に力を込め、重厚な城門へと歩み寄った。
門番の姿はない。
恐る恐る手を触れると、鉄の扉は信じられないほどの冷気を放っていた。
だが、押してみると、軋んだ音を立ててわずかに開く。
「……ごめん、ください」
声を絞り出す。
中に入ると、エントランスは薄暗く、静まり返っていた。
豪華なシャンデリアには埃が積もり、美しいはずのカーペットも黒ずんでいる。
人の気配がない。
まるで廃墟のようだ。
これが、公爵家の城だというのか。
「――何者だ」
突然、背後から低い声が響いた。
心臓が跳ね上がる。
慌てて振り返ると、階段の上に一人の男が立っていた。
闇に溶け込むような黒髪に、血のように赤い瞳。
整ってはいるが、生気を感じさせない蒼白な肌。
その全身から放たれる威圧感に、私は呼吸を忘れた。
「お前が、王都から送り込まれてきた罪人か」
彼がゆっくりと階段を降りてくる。
一歩進むごとに、周囲の気温がさらに下がっていくような錯覚を覚えた。
彼こそが、アレクセイ・ヴォルガード公爵に違いない。
私は震えを抑え、冷たい床に跪いて深くお辞儀をした。
「は、はい……リリアナ・フローレスと申します。この度、こちらで身柄を預かっていただくことに……」
「身柄を預かる、か。王家の連中も相変わらず趣味が悪い。こんな死にぞこないの土地に女を一人送り込んで、何が変わるというのだ」
アレクセイの声には、明らかな侮蔑と苛立ちが含まれていた。
彼は私の前に立ち止まり、冷ややかな視線で見下ろす。
「勘違いするなよ。俺はお前を客として迎えるつもりはない。ここで野垂れ死のうが、魔物の餌になろうが、知ったことではない」
「……承知しております」
「部屋は西の塔に空きがある。勝手に使え。食事や世話係などは期待するな。俺の視界に入らないよう、静かに暮らせ」
それだけ言うと、彼は私の返事も待たずに踵を返し、奥へと消えていった。
後に残されたのは、私と、冷え切った静寂だけ。
けれど不思議と、絶望感はなかった。
むしろ、殺されることもなく、雨風をしのげる場所を与えられたことに安堵していた。
『屋根があるわ。それに、誰にも邪魔されない』
私は鞄を抱きしめ、教えられた西の塔へと向かう。
廊下は薄暗く、至る所に氷の結晶が張り付いている。
長い階段を上り、埃っぽい部屋にたどり着いた。
家具はベッドと古びた机だけ。
窓ガラスにはヒビが入り、隙間風が容赦なく吹き込んでくる。
最悪の環境だ。
でも、王都の牢獄よりはずっといい。
『まずは掃除ね。それから暖を取らないと』
私は震える手で鞄を開ける。
中に入っているのは、数着の着替えと、亡き母が遺してくれた一冊の分厚い本。
そして、来る途中の村で密かに買い集めた、いくつかの種や乾燥野菜の切れ端。
これらが私の全財産であり、武器だった。
私は前世の記憶を持っている。
そこでは「薬膳」と呼ばれる知識があり、食べ物の力で病を治し、心を整える術を知っていた。
母の遺した本には、この世界の薬草や食材に関する詳細な記述がある。
これらを組み合わせれば、きっと生き延びられる。
『負けないわ。こんなところで死んでたまるものですか』
私は窓の隙間に古布を詰め、ベッドの上の埃を払った。
お腹がぐうと鳴る。
そういえば、丸一日何も食べていない。
厨房を探さなくては。
アレクセイ様は「期待するな」と言ったけれど、厨房への立ち入りを禁じられたわけではない。
私は決意を胸に、再び廊下へと出た。
凍てつく城での生活が、こうして始まったのだ。
***
厨房らしき場所を見つけるのには苦労しなかった。
城の裏手から、微かに焦げ臭いにおいが漂っていたからだ。
扉を開けると、そこには驚くべき光景が広がっていた。
広大な厨房の中、数人の使用人が死人のような顔で働き、鍋の中には正体不明のドロドロとした物体が煮えたぎっている。
「なんだ、お前は」
一番年嵩らしい料理長らしき男が、虚ろな目で私を見た。
その手には、半分腐りかけた野菜が握られている。
「……その、今日からこちらでお世話になるリリアナと申します。何か、食べるものをいただけないかと……」
「食べるもの? はっ、ここにはそんな贅沢なもんはないよ。あるのはこの『命をつなぐための泥』だけだ」
男は鍋の中身を指差す。
緑とも茶色ともつかない液体。
酸っぱいような、腐敗臭に近い匂いがする。
『これを、人間が食べるの?』
私は絶句した。
公爵家の食卓が、これなのか。
よく見れば、隅にはカビの生えたパンや、霜焼けして黒ずんだジャガイモが転がっている。
管理が行き届いていないどころではない。
これは、食料廃棄場に近い。
「公爵様は、味なんぞ気にしねえからな。腹に入れば何でもいいんだよ。お前も食うか?」
お玉ですくわれた液体を見て、私は首を激しく横に振った。
これを食べたら、体調を崩す。
薬膳の知識がなくても本能でわかる。
「……結構です。その代わり、隅にあるその捨てられそうな野菜の切れ端をいただいてもよろしいでしょうか?」
「ああ? あんなゴミでいいのか? 好きにしな」
料理長は鼻を鳴らし、興味を失ったように作業に戻った。
私は急いで隅に向かう。
しなびた大根の葉、芽が出かけたニンニク、固くなった生姜のかけら。
一般的にはゴミかもしれない。
でも、私には宝の山に見えた。
これらは全て、体を温め、免疫力を高める効能がある。
私は懐から、大切にしまっていた乾燥ナツメの実と、クコの実を取り出した。
これがあれば、なんとかなる。
厨房の片隅にある小さなコンロを借り、私は小鍋に水を張った。
命をつなぐための、最初の一杯を作るために。
吐く息が白い。
窓の隙間から吹き込む風は、刃物のように鋭く肌を刺してくる。
私は擦り切れた毛布をかき集め、かじかんだ指先を懸命に温めようとした。
けれど、体の芯まで染み込んだ寒さは、容易には消えそうにない。
『あとどれくらいで着くのかしら』
御者に尋ねようとしたが、声が出なかった。
喉が渇き、寒さで震えているせいだ。
王都を出発して今日で十日目。
景色からは緑が消え、今や視界を埋め尽くすのは無慈悲な白銀の世界だけだった。
「おい、もうすぐヴォルガード領に入るぞ。罪人にしては上等な旅もこれでおしまいだ」
御者の投げやりな声が聞こえた。
罪人。
その響きに、胸の奥がチクリと痛む。
私はリリアナ・フローレス。
フローレス伯爵家の長女であり、つい数週間前までは王太子エドワード殿下の婚約者だった。
けれど今は、聖女の力を偽り、義妹のミレーヌを害そうとした大罪人として、この極寒の地へ追放される身だ。
『やっていないわ。私は、誰も傷つけていない』
何度叫んでも、誰も信じてくれなかった。
エドワード殿下は冷ややかな目で私を見下ろし、父も母も、愛らしいミレーヌの言葉だけを信じた。
『お姉様が、私の聖女としての素質を妬んで毒を盛ったのです』と泣き崩れるミレーヌの演技は、完璧だったから。
そうして私は、着の身着のままに近い状態で馬車に押し込められ、北の果てにある「氷の公爵」が治める地へと送られたのだ。
「着いたぞ! さっさと降りろ!」
馬車が停止し、乱暴に扉が開けられる。
吹きすさぶ吹雪が車内に雪崩れ込み、私は思わず身を縮めた。
よろめきながら外に出ると、そこは断崖の上にそびえ立つ、黒い城の前だった。
ヴォルガード城。
人々が恐怖を込めて「魔王の城」と呼ぶ場所。
城壁は氷に覆われ、尖塔は空を突き刺すように鋭い。
ここで暮らすアレクセイ・ヴォルガード公爵は、魔物を単独で殲滅するほどの強大な魔力を持つ反面、血も涙もない冷徹な男だと噂されている。
追放先がここだと知らされた時、王都の貴族たちは『死刑よりも残酷だ』と囁き合っていた。
「荷物はこれだけだ。じゃあな、俺はこんな寒い場所ごめんだね!」
御者は私の足元に小さな鞄を放り投げると、逃げるように馬車を走らせていった。
取り残された私は、呆然と立ち尽くす。
足の感覚がなくなりかけている。
このままでは凍え死ぬ。
私は震える足に力を込め、重厚な城門へと歩み寄った。
門番の姿はない。
恐る恐る手を触れると、鉄の扉は信じられないほどの冷気を放っていた。
だが、押してみると、軋んだ音を立ててわずかに開く。
「……ごめん、ください」
声を絞り出す。
中に入ると、エントランスは薄暗く、静まり返っていた。
豪華なシャンデリアには埃が積もり、美しいはずのカーペットも黒ずんでいる。
人の気配がない。
まるで廃墟のようだ。
これが、公爵家の城だというのか。
「――何者だ」
突然、背後から低い声が響いた。
心臓が跳ね上がる。
慌てて振り返ると、階段の上に一人の男が立っていた。
闇に溶け込むような黒髪に、血のように赤い瞳。
整ってはいるが、生気を感じさせない蒼白な肌。
その全身から放たれる威圧感に、私は呼吸を忘れた。
「お前が、王都から送り込まれてきた罪人か」
彼がゆっくりと階段を降りてくる。
一歩進むごとに、周囲の気温がさらに下がっていくような錯覚を覚えた。
彼こそが、アレクセイ・ヴォルガード公爵に違いない。
私は震えを抑え、冷たい床に跪いて深くお辞儀をした。
「は、はい……リリアナ・フローレスと申します。この度、こちらで身柄を預かっていただくことに……」
「身柄を預かる、か。王家の連中も相変わらず趣味が悪い。こんな死にぞこないの土地に女を一人送り込んで、何が変わるというのだ」
アレクセイの声には、明らかな侮蔑と苛立ちが含まれていた。
彼は私の前に立ち止まり、冷ややかな視線で見下ろす。
「勘違いするなよ。俺はお前を客として迎えるつもりはない。ここで野垂れ死のうが、魔物の餌になろうが、知ったことではない」
「……承知しております」
「部屋は西の塔に空きがある。勝手に使え。食事や世話係などは期待するな。俺の視界に入らないよう、静かに暮らせ」
それだけ言うと、彼は私の返事も待たずに踵を返し、奥へと消えていった。
後に残されたのは、私と、冷え切った静寂だけ。
けれど不思議と、絶望感はなかった。
むしろ、殺されることもなく、雨風をしのげる場所を与えられたことに安堵していた。
『屋根があるわ。それに、誰にも邪魔されない』
私は鞄を抱きしめ、教えられた西の塔へと向かう。
廊下は薄暗く、至る所に氷の結晶が張り付いている。
長い階段を上り、埃っぽい部屋にたどり着いた。
家具はベッドと古びた机だけ。
窓ガラスにはヒビが入り、隙間風が容赦なく吹き込んでくる。
最悪の環境だ。
でも、王都の牢獄よりはずっといい。
『まずは掃除ね。それから暖を取らないと』
私は震える手で鞄を開ける。
中に入っているのは、数着の着替えと、亡き母が遺してくれた一冊の分厚い本。
そして、来る途中の村で密かに買い集めた、いくつかの種や乾燥野菜の切れ端。
これらが私の全財産であり、武器だった。
私は前世の記憶を持っている。
そこでは「薬膳」と呼ばれる知識があり、食べ物の力で病を治し、心を整える術を知っていた。
母の遺した本には、この世界の薬草や食材に関する詳細な記述がある。
これらを組み合わせれば、きっと生き延びられる。
『負けないわ。こんなところで死んでたまるものですか』
私は窓の隙間に古布を詰め、ベッドの上の埃を払った。
お腹がぐうと鳴る。
そういえば、丸一日何も食べていない。
厨房を探さなくては。
アレクセイ様は「期待するな」と言ったけれど、厨房への立ち入りを禁じられたわけではない。
私は決意を胸に、再び廊下へと出た。
凍てつく城での生活が、こうして始まったのだ。
***
厨房らしき場所を見つけるのには苦労しなかった。
城の裏手から、微かに焦げ臭いにおいが漂っていたからだ。
扉を開けると、そこには驚くべき光景が広がっていた。
広大な厨房の中、数人の使用人が死人のような顔で働き、鍋の中には正体不明のドロドロとした物体が煮えたぎっている。
「なんだ、お前は」
一番年嵩らしい料理長らしき男が、虚ろな目で私を見た。
その手には、半分腐りかけた野菜が握られている。
「……その、今日からこちらでお世話になるリリアナと申します。何か、食べるものをいただけないかと……」
「食べるもの? はっ、ここにはそんな贅沢なもんはないよ。あるのはこの『命をつなぐための泥』だけだ」
男は鍋の中身を指差す。
緑とも茶色ともつかない液体。
酸っぱいような、腐敗臭に近い匂いがする。
『これを、人間が食べるの?』
私は絶句した。
公爵家の食卓が、これなのか。
よく見れば、隅にはカビの生えたパンや、霜焼けして黒ずんだジャガイモが転がっている。
管理が行き届いていないどころではない。
これは、食料廃棄場に近い。
「公爵様は、味なんぞ気にしねえからな。腹に入れば何でもいいんだよ。お前も食うか?」
お玉ですくわれた液体を見て、私は首を激しく横に振った。
これを食べたら、体調を崩す。
薬膳の知識がなくても本能でわかる。
「……結構です。その代わり、隅にあるその捨てられそうな野菜の切れ端をいただいてもよろしいでしょうか?」
「ああ? あんなゴミでいいのか? 好きにしな」
料理長は鼻を鳴らし、興味を失ったように作業に戻った。
私は急いで隅に向かう。
しなびた大根の葉、芽が出かけたニンニク、固くなった生姜のかけら。
一般的にはゴミかもしれない。
でも、私には宝の山に見えた。
これらは全て、体を温め、免疫力を高める効能がある。
私は懐から、大切にしまっていた乾燥ナツメの実と、クコの実を取り出した。
これがあれば、なんとかなる。
厨房の片隅にある小さなコンロを借り、私は小鍋に水を張った。
命をつなぐための、最初の一杯を作るために。
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