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第10話「氷解の序曲」
「ゴールデン・スケール商会が、動きました」
ギルバートの報告に、俺は読んでいた書類から顔を上げた。その目は、とうに紙の上の文字など追ってはいなかったが。
「そうか」
俺はただ、短く答えた。全て、想定内のことだった。
セレスティアの商会が、あれだけ急激に成長すれば、必ず既存の権益を脅かすことになる。特に、強欲で知られるゴールデン・スケール商会の会頭、ゲッコーが黙っているはずがなかった。
俺は、最初から全て把握していた。奴らがルナ・フレグランスに関する悪評を流し始めたことも。取引先に圧力をかけ、材料の供給を止めさせたことも。
そして、追い詰められたセレスティアが、無謀にもゲッコーに直接会いにいくだろうということも。
「…奥様は、今、ゴールデン・スケール商会へ?」
「はい。マルク氏の制止を振り切り、お一人で」
ギルバートの声には、心配の色が滲んでいる。
俺は、椅子からゆっくりと立ち上がった。窓の外は、すでに夕闇に包まれ始めている。
今まで、俺は静観していた。セレスティアが、自分の力でこの困難をどう乗り越えるのか、見ていたかったからだ。彼女の商才は本物だ。もしかしたら、この程度の妨害、彼女なら打ち破れるかもしれないと、どこかで期待していた。
だが、俺の妻は、俺が思うよりもずっとお人好しで、真っ直ぐだったようだ。敵の懐に、一人で飛び込んでいくとは。
ゲッコーという男は、金と女に汚い、卑劣な男だ。セレスティアのような美しい女性が一人で行けば、どうなるか。考えただけで、腸が煮え繰り返る。
「旦那様、いかがなさいますか」
「決まっているだろう」
俺は、壁にかけてあった愛剣を手に取った。鞘から抜き放つと、磨き上げられた刀身が、部屋の明かりを反射して鈍く光る。
「俺の宝物に、指一本触れさせるものか」
俺の目に、殺気とも呼べるほどの冷たい光が宿るのを、自分でも感じた。
「ギルバート。騎士たちを集めろ。今から、ネズミ狩りだ」
「はっ!」
ギルバートは、待ってましたとばかりに力強く頷くと、素早く部屋を出て行った。
俺は、この日のために、ずっと準備を進めてきた。ゴールデン・スケール商会が長年にわたって行ってきた、あらゆる不正の証拠を。密輸、脱税、貴族への贈賄、ライバル商人の暗殺。奴らの悪行を記した書類は、この執務室の金庫に山と積まれている。
いつでも、奴らを潰すことはできた。
だが、俺は待っていた。奴らが、セレスティアに手を出してくる、その瞬間を。
これは、ただの報復ではない。見せしめだ。アークライト公爵家の女に手を出せば、どうなるか。王都中の者たちに、骨の髄まで思い知らせてやる。
俺は執務室を出て、玄関ホールへと向かった。そこには既に、黒い鎧に身を包んだ公爵家の私兵騎士たちが、精鋭部隊として整列していた。彼らは、俺が最も信頼する者たちだ。
「行くぞ」
俺の短い命令に、騎士たちが一斉に力強く応えた。
俺は馬に飛び乗り、王都の夜闇の中へと駆け出した。背後には、屈強な騎士たちが続く。
『待っていろ、セレスティア』
心の中で、愛しい妻の名を呼ぶ。
きっと今頃、不安と絶望で、泣きそうな顔をしているのだろう。俺のせいで、お前をそんな気持ちにさせてしまった。俺が、もっと早く、お前に本当の気持ちを伝えていれば。お前が、こんな無茶をする必要もなかったのに。
後悔が、波のように押し寄せる。
だが、もう、すれ違いは終わりだ。
今夜、俺は全ての障害を排除する。そして、お前をこの腕の中に取り戻す。
もう二度と、お前を不安にさせたりはしない。もう二度と、お前から目を離したりはしない。
俺の燃え盛る独占欲は、もはや誰にも止められない。
ゲッコーの、絶望に歪む顔を思い浮かべながら、俺は馬の速度を上げた。
愛する妻を救い出すために。そして、長すぎた偽りの関係に、終止符を打つために。
氷の仮面が、音を立てて砕け散る。その下から現れたのは、ただ一人の女を狂おしいほどに愛する、一人の男の素顔だった。
ギルバートの報告に、俺は読んでいた書類から顔を上げた。その目は、とうに紙の上の文字など追ってはいなかったが。
「そうか」
俺はただ、短く答えた。全て、想定内のことだった。
セレスティアの商会が、あれだけ急激に成長すれば、必ず既存の権益を脅かすことになる。特に、強欲で知られるゴールデン・スケール商会の会頭、ゲッコーが黙っているはずがなかった。
俺は、最初から全て把握していた。奴らがルナ・フレグランスに関する悪評を流し始めたことも。取引先に圧力をかけ、材料の供給を止めさせたことも。
そして、追い詰められたセレスティアが、無謀にもゲッコーに直接会いにいくだろうということも。
「…奥様は、今、ゴールデン・スケール商会へ?」
「はい。マルク氏の制止を振り切り、お一人で」
ギルバートの声には、心配の色が滲んでいる。
俺は、椅子からゆっくりと立ち上がった。窓の外は、すでに夕闇に包まれ始めている。
今まで、俺は静観していた。セレスティアが、自分の力でこの困難をどう乗り越えるのか、見ていたかったからだ。彼女の商才は本物だ。もしかしたら、この程度の妨害、彼女なら打ち破れるかもしれないと、どこかで期待していた。
だが、俺の妻は、俺が思うよりもずっとお人好しで、真っ直ぐだったようだ。敵の懐に、一人で飛び込んでいくとは。
ゲッコーという男は、金と女に汚い、卑劣な男だ。セレスティアのような美しい女性が一人で行けば、どうなるか。考えただけで、腸が煮え繰り返る。
「旦那様、いかがなさいますか」
「決まっているだろう」
俺は、壁にかけてあった愛剣を手に取った。鞘から抜き放つと、磨き上げられた刀身が、部屋の明かりを反射して鈍く光る。
「俺の宝物に、指一本触れさせるものか」
俺の目に、殺気とも呼べるほどの冷たい光が宿るのを、自分でも感じた。
「ギルバート。騎士たちを集めろ。今から、ネズミ狩りだ」
「はっ!」
ギルバートは、待ってましたとばかりに力強く頷くと、素早く部屋を出て行った。
俺は、この日のために、ずっと準備を進めてきた。ゴールデン・スケール商会が長年にわたって行ってきた、あらゆる不正の証拠を。密輸、脱税、貴族への贈賄、ライバル商人の暗殺。奴らの悪行を記した書類は、この執務室の金庫に山と積まれている。
いつでも、奴らを潰すことはできた。
だが、俺は待っていた。奴らが、セレスティアに手を出してくる、その瞬間を。
これは、ただの報復ではない。見せしめだ。アークライト公爵家の女に手を出せば、どうなるか。王都中の者たちに、骨の髄まで思い知らせてやる。
俺は執務室を出て、玄関ホールへと向かった。そこには既に、黒い鎧に身を包んだ公爵家の私兵騎士たちが、精鋭部隊として整列していた。彼らは、俺が最も信頼する者たちだ。
「行くぞ」
俺の短い命令に、騎士たちが一斉に力強く応えた。
俺は馬に飛び乗り、王都の夜闇の中へと駆け出した。背後には、屈強な騎士たちが続く。
『待っていろ、セレスティア』
心の中で、愛しい妻の名を呼ぶ。
きっと今頃、不安と絶望で、泣きそうな顔をしているのだろう。俺のせいで、お前をそんな気持ちにさせてしまった。俺が、もっと早く、お前に本当の気持ちを伝えていれば。お前が、こんな無茶をする必要もなかったのに。
後悔が、波のように押し寄せる。
だが、もう、すれ違いは終わりだ。
今夜、俺は全ての障害を排除する。そして、お前をこの腕の中に取り戻す。
もう二度と、お前を不安にさせたりはしない。もう二度と、お前から目を離したりはしない。
俺の燃え盛る独占欲は、もはや誰にも止められない。
ゲッコーの、絶望に歪む顔を思い浮かべながら、俺は馬の速度を上げた。
愛する妻を救い出すために。そして、長すぎた偽りの関係に、終止符を打つために。
氷の仮面が、音を立てて砕け散る。その下から現れたのは、ただ一人の女を狂おしいほどに愛する、一人の男の素顔だった。
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