商人の男と貴族の女~婚約破棄から始まる成り上がり~

葉月奈津・男

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【歴史の礎編】

第29話 手から砂が零れるがごとく ①

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「どういうことだ?」
「・・・」
 朝、呆然として問いを投げるベルーノに、幹部たちは沈黙で応えた。

 目前には、無人の天幕が並んでいる。
 武器も、食糧すらも置き捨てて、兵士たちが消えていた。
 いや、逃げていた。

 争った形跡はない。
 すべてがキッチリと整理された陣営から、兵士だけがいないのだ。
 逃走したことを疑う余地なんてない。

「どうなっているのだ!?」
 ベルーノが喚きだしたが、応える者はいない。

 失望感と徒労感だけが漂った。
 それでも、彼らは脱走を選ぶことができなかった。
 地元に家族を残している。

 ここで逃げたのでは、家族の安全が危うくなるのだ。
 さりとて、ベルーノともども帰ったとしても、未来に展望はない。
 幹部たちのほとんどが、生きて帰ることを諦めていた。
 敵と戦って死ぬ以外の道を見出すことができなかったのである。

「もしくは、飢え死にもあり得るか」
 故郷への長い道程を思い、幹部の一人は笑みを浮かべた。
 死の予感で漂白された笑みを。

    ◇

 朝。
 リューイン軍の陣営では、盛大に朝食の準備が進められている。

「『投降して来た兵は3000を超えています。ご指示通り、兵を続けることを希望する者は隊に加え、辞めたいという者は遺棄された天幕とともに残して追尾を続けます』とのことです」
 タバルからの伝言をファルケが届けてくれた。

「なにもせず、追尾するだけで敵戦力の三割を無力化したわけだな」
 ふむふむとラヴァルが感心している。
 これについては、間違いなく『なにも』だから守銭奴・・・もとい、商人も言うことがないのだ。

「今後も続いてくれると助かるね。ともかく、出発前に幸先の良いことだ」
 満足そうに微笑み、カロスタークはカリカリに焼き上がったパンを頬張った。

     ◇

 その頃、本隊の惨状を知らぬまま、合流を急ぐ帝国軍の部隊があった。
 食糧の買い出しのため、アートルダム国へと行っていたエルウィン隊である。

 食糧の買い付けはうまくいった。
 安いとまでは言わないが、そこそこの値で取引ができた。

 荷馬車は全て食糧でパンパン。
 無事に任務遂行を成し遂げ、意気揚々と部隊を進めている。

 そのエルウィンの目に友軍の姿が映った。
 歩兵ばかりの部隊のようだが、きちんと帝国軍の軍旗を掲げている。

「ずいぶんな余裕を見せてくれるじゃないか。お出迎えとはね」
 十五万もの兵を敵地に送り込んでいるものと思い込んでいるエルウィンに、目の前の味方がそう見えたのは無理からぬことであっただろう。

「よっぽど食糧が欲しいんだね」
 クスクスと笑うこともできた。
 だが、その笑いは長く続くことなく、エルウィンは顔を引き攣らせることになる。

   ◇

 ベルーノが追撃を受けることはなかった。
 元皇女との約定通りに。
 しかし・・・。

「クソが!」
 冷静さを売りにすべき秘書官が、罵声を吐き捨てた。

 確かに攻撃はされていない。
 攻撃は。

 それでも、その気になりさえすれば即時に攻撃へ移れる、そんな位置で敵軍が追尾し続けてくる。
 しかも、ついてきているタバルの部隊が、昨日は1500程だったのに今や2800ぐらいに増えているのだ。

 こちらは、2500・・・いや、3000以上も減っているのに。
 兵力差が縮まっているということだ。

 こちらから逃げた兵力の七割以上を吸収しているものと思われる。
 だとしたら、明日には逆転しているかもしれない。
 そう思うと気が気ではない。

 気力をガリガリと削られているのが、否応なしに実感させられていた。
 罵声を吐きたくもなる。

 自分ですらそうなのだ。
 ベルーノの心情はいかばかりか。

 秘書官の視線に気が付くこともなく、ベルーノは表情のなくなった顔で歩いている。
 その姿はまるで死人だ。

 戦ってもいないのに兵が減っていく。
 ベルーノには理解できないことが起きていた。

 最初の十五万を化け物どもに喰われたと認識したがゆえに、ベルーノの中では夜な夜な化け物どもが現れて、人を骨も残さず喰らう妄想が渦巻いていた。
 戦って雑兵たちが死んでいくことには痛痒を感じなかったであろうベルーノだが、姿の見えない化け物が兵を喰らっているとの妄想には恐怖した。
 次は自分かもしれないのだ。

 考えたくなどないのに、厭な考えばかりが頭に浮かぶ。
 歩いてばかりで、気を紛らすものがないせいだ。
 ベルーノの精神は、自分が妄想の中で生み出した化け物と対峙し続けることで摩耗していく。


 この人はもう、長くないな。
 秘書官は頭を振って、主君を見限った。

 歩調を緩め、後方へと下がっていく。
 以前から意を通じている兵士の一団がいるのだ。
 万が一のときには、彼らと逃げる算段である。

 秘書官の考えも、逃亡兵のものと同じだったのだ。
 このままでは先がないと。
 生き残る可能性があるとするならば、リューイン軍への投降だけだと。
 あとはタイミングを待とうとしていた。

 そんな状態だったから、それが起きたとき彼は部隊の後方にいて、止めることができなかった。
 止めようとはしたのだが、間に合わなかったのだ。

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