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第9話 旅立つ者は ①
しおりを挟むシレーネがくぐった扉とは反対側——左の扉から部屋を出たアモールは、石造りの通路をひたすら歩き続けていた。
通路はまっすぐに伸び、先がまったく見えない。
「・・・行き止まりだったら、笑えねぇな」
そんな不安も、すぐに杞憂に終わった。
三十分ほど歩いたところで、通路は右へと緩やかにカーブし始めたのだ。
さらに二十分後、右手に短い通路と上へ続く階段が現れる。
どうやら、あの部屋は左右どちらに進んでも、最終的には同じ場所にたどり着く構造だったらしい。
「チッ・・・それなら、シレーネに『動くな』なんて言わなきゃよかったな」
悔やんでも仕方がない。
アモールは再び歩き出す。
あと五十分も歩けば、シレーネのもとに戻れる——
そう思った矢先だった。
五分も経たないうちに、彼女と『再会』することになる。
最悪の形で。
シレーネは、二体の怪物と一緒だった。
それは、巨大なミミズのような化け物。
青黒い体躯、長さは五十メートル、胴回りは三メートル。
どう見ても、自然に生まれた生物ではない。
一体がシレーネを背に乗せ、もう一体が前に出て、まるで護衛のように進んでいた。
アモールが剣を抜こうとした、その瞬間——前にいたミミズが突進し、彼を高々と跳ね飛ばした。
激しい衝撃が全身を貫く。
宙を舞いながらも、アモールの視線はシレーネを捉えていた。
青ざめた顔。
一瞬、死を覚悟する。
だが—— 彼女の胸が、かすかに上下しているのが見えた。
その瞳が、ほんの一瞬だけ彼を見た気がした。
助けを求めるでもなく、ただ、何かを託すように。
生きている。
なら、やるべきことは一つ。
目の前の怪物を斬り倒し、彼女を取り戻すだけだ。
空中で剣を抜き、着地の勢いをそのままに振り向きざま斬り払う。
刃が、怪物の肉に食い込んだ。
だが、それはシレーネを乗せた個体ではなかった。
彼女を乗せたミミズは、アモールを無視して突き進み、すでに姿を消していた。
「シレーネっ・・・! クソッ!!」
追っても無駄だと、狩人の本能が告げていた。
怒りがこみ上げる。
彼女を奪った怪物に、そして——目の前で何もできなかった自分自身に。
その怒りは、残ったもう一体のミミズへと向けられた。
◇
数分後——そこにあったのは、巨大な肉の塊だけだった。
「・・・こんなんじゃ、気晴らしにもならねぇ」
苛立ちを抑えきれず、アモールは剣を肉塊に突き立てた。
カチンッ!
「・・・ん?」
金属同士がぶつかる、硬質な音。
肉をかき分けていくと、中から現れたのは——銀細工の装身具の破片だった。
腕輪、首飾り、宝石。
どれも腐食し、色褪せ、歪んでいた。
だが——
ひとつだけ、異彩を放つものがあった。
細く緻密な鎖に、大きな碧色の宝石がついた額冠。
それだけは、まるで新品のように輝いていた。
アモールの視線が、宝石に吸い寄せられる。
深く、澄んだ空のような青。
見つめていると、空の彼方へと吸い込まれていくような感覚に陥る。
そして——その宝石の奥に、ぼんやりと『何か』が映り始めた。
「なんだ・・・?」
宝石の中に映ったのは、一人の女性だった。
その姿は徐々に大きくなり、やがて宝石をはみ出して空間いっぱいに広がる。
そして、一般的な人間女性のサイズで落ち着いた。
どこかサラサに似た雰囲気を持つ女性。
サラサが『人形』なら、この女性は『絵』のような印象だった。
白金の髪は清水のようにまっすぐに流れ、月光のような柔らかい肌を、薄緑の服とショールが包んでいる。
肩から吊るされた服は膝上までを覆い、膝下には樹皮模様のブーツ。
そして、哀しげに潤む赤い瞳が印象的だった。
「・・・美人に会えたのは嬉しいが、幽霊には興味ねぇぞ」
動揺を隠すため、アモールは軽口を叩く。
だが、女性はそれを無視して、事態は急速に進んでいく。
彼女が現れた瞬間、空気がわずかに震えた。
まるで、時の流れそのものが一拍遅れたように。」
【わたしは幽霊ではありません】
空気を震わせない、声に似た『音のようななにか』が響く。
【わたしの名はスラインローゼ・シュテラール。この地に眠る神の一族の一柱です。三千年の長きにわたり、この日が来ることを信じ、待ち続けていました】
神の存在を否定する気はない。
ただ、信じたことも祈ったこともないアモールだった。
だが、なぜかこのスラインローゼの話だけは、聞いてみようという気になった。
彼は静かに腰を下ろす。
【三千年前——
創造主である父母神が次元の彼方へと消えました。
その後、私たちは男神ゼナ・リムズベルを新たな指導者と定め、世界を見守っていました。
しかし、ある女神が人間の男と恋に落ち、神の座と力を捨てて人間となったのです。
その結果、神々の力のバランスが崩れ、ゼナの心と力が暴走。
男神たちは全滅し、私たち女神も封印され、眠りにつきました。
ただ封印されたわけではありません。
ゼナの暴走を抑えるため、私たちは氷の竜と寒波を生み出し、被害を最小限に食い止めたのです】
スラインローゼの瞳には、今もありありとその情景が映し出されている。
ゼナの瞳が紅く染まり、空が裂けた。
女神たちは氷の竜を呼び、世界を凍てつかせた。
そんな、情景が。
「・・・だが、それも限界に来た。今がその時ってことだな?」
アモールが割り込む。
原因はどうでもいい。
彼にとって重要なのは、『今どうするか』だった。
【・・・簡単に言えば、そうです】
「簡単で結構。あんたには色々思い入れがあるだろうけど、俺が知りたいのは二つだけだ。一つ、シレーネを連れ去ったのは誰で、目的は何か。二つ、そのゼナって奴を正気に戻すか、ぶっ倒す方法。それだけだ」
無礼な言い方かもしれない。
でも、アモールにとってはこれでも十分丁寧なつもりだった。
神々のトラブルを人間に押しつけるな——そう思っていた。
【・・・わかりました。
シレーネという女性をさらったのは、魔導師ダルトンの仕業でしょう。
彼はゼナの力を我が物にしようと企んでいました。
ただ、自分にその力を受け入れる器がないことも理解していた。
だから、もっと安易で安全な方法を選んだのです】
「その方法ってのは?」
【若い女性を『器』として選び、ゼナの力を一度その胎内に引き入れる。
女性の体は強い生命力と器を持っているため、これは難しくありません。
その上で、女性と交わることで、少しずつ安全に力を得ることができるのです】
——汚い。
目的のためなら、他人を犠牲にし、卑劣な手段も辞さない。
そういう相手ほど、厄介な敵はいない。
自分の手を汚さず、居場所を隠し、罠を仕掛けてくる。
一つ一つは小さくても、常に警戒を強いられ、精神を削られる。
そして、そんな奴ほど——、一瞬の油断で命を奪ってくる。
できることなら、関わりたくないタイプ。
しかも、スラインローゼの話が本当なら、ダルトンは三千年も生き続けている。
まさに、化け物。
シレーネのことがなければ、回れ右して二度と近づかなかっただろう。
でも——今は違う。
彼女を取り戻すためなら、どんな化け物だろうと、相手にするしかない。
今ここに、伝説の勇者様はいない。
いるのは、しがない狩人の——
自分だけだ。
ただ、・・・覚悟しろ。
狩人は、獲物を逃がさない。
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