風のアモール 

葉月奈津・男

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第13話 愛あるゆえに ①

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「・・・」

 《記憶》の映像が消えたあと、部屋には長い沈黙が流れた。

 アモールの中で組み立てかけていた希望の糸が、音もなく霧散していく。
 ゼナを正気に戻す方法も、シレーネを救う手段も、すべてが意味を失った。

「・・・これでいくと、俺はゼナだけじゃなく、ダルトンや女神スラインローゼまで相手にしなきゃなんねぇってことか」

 ゼナの暴走を誘発し、シレーネをさらったのはダルトン。
 そのゼナを止めるには、女神スラインローゼの覚醒が必要。
 だが、その《力》はダルトンの手にある。

 つまり、ダルトンと戦うしかない。
 そして、彼が操る《力》も敵に回る。

 ただの狩人に過ぎないアモールには、あまりにも荷が重い話だった。

 しかも——ゼナの暴走が限界に達する前に、シレーネが《器》として完全に取り込まれる前に、すべてを終わらせなければならない。

 時間さえも、敵だった。

「奇跡でも起きない限り、勝ち目はねぇな・・・」
 部屋の空気が重くなり、音が消えた。
 希望の糸が、静かに切れた音がした気がした。

 弱気になったその瞬間——最も見たくなかった光景が、目の前に現れた。

「キーヒッヒッヒッ・・・奇跡など起こりはしませんよ」

 黒づくめの小柄な男が、長いマントを引きずりながら現れる。
 その傍らには、一人の少女が立っていた。

 白磁のような肌、幼さを残した顔。
 だが、瞳には光がなく、身体には力がなかった。

 まるで糸の切れたマリオネット。
 それが——女神スラインローゼの《感情》だった。

「・・・!! あれは、まさかっ!」

 彼女の左手には、短い錫杖。
 それは、ダルトンが《力》を封じた道具だった。

「貴様、何しに来た!!」

 アモールの怒声を、ダルトンは軽く受け流す。

「ゼナの暴走は、もうすぐ限界。わたくしの魔術も、八割方完成しております。

 つきましては、最終段階に入るまで、あなた方にはここで遊んでいただこうかと。

 もちろん、この娘を殺していただいても構いませんよ。

 ただし、女神スラインローゼの覚醒は不可能になりますがね。クックックッ」

 含み笑いを残し、ダルトンは音もなく姿を消した。

「メモリー、下がってろ。邪魔だ」

 ダルトンが消えた途端、少女の瞳に生気が戻る。
 だが、その表情は——敵意に満ちていた。

 アモールはメモリーを手で押し退けながら、剣を抜く。

「で、でも・・・殺してしまったら・・・」

「わかってる。だから離れてろ。俺は、誰かをかばいながら戦えるほど器用じゃねぇんだよ」

 この時、アモールには何の策もなかった。
 覚醒の方法も不明。
 封印され、操られた《感情》をどうすればいいのか——

 それでも、立ち止まるわけにはいかなかった。


「ゼナ・・・暴走・・・止める・・・邪魔・・・奴・・・殺す」

 娘が途切れ途切れに呟く。
 どうやら、彼女の思考は封印される直前で止まってしまっているようだった。

「殺す!!」

 叫びと同時に、娘は錫杖を振り下ろす。
 その動きは鈍く、格闘の心得があるとは思えない。
 だが——

「クッ!」

 赤い炎のような魔力が錫杖から放たれ、アモールの肩口を切り裂いた。
 紙一重でかわしたつもりだったが、炎は物をすり抜け、肉体だけを傷つける。

 服は無傷。
 だが、内側から染み出す血が、傷の深さを物語っていた。

「こいつぁ・・・ちーとヤバイかな?」

 ヤバイどころではなかった。
 この魔力は剣で受けることができない。
 完全に足さばきだけで避け続けるしかない。

 それは、肉体にも精神にも、極限の負担を強いる戦い方だった。

「・・・こりゃ、駄目かな・・・」


 でも、あいつが待ってる。
 俺が倒れたら、誰が守る?

   ◇シレーネ視点◇

『シレーネ・・・シレーネ。起きなさい、シレーネ』

 頭の中に、聞き覚えのある声が響く。

「ん・・・う~ん・・・」

 心地よい眠りを妨げられ、不機嫌そうに目を開けるシレーネ。
 腕を伸ばそうとしたが——肩より上に上がらない。

 ガシャッ、ガシャッ。

 重い金属音と、異様な感覚。
 寝ぼけ眼で腕を見たシレーネは、思わず叫んだ。

「なによ! これ!!」

 腕には、重そうな手枷。
 鎖は石の台に埋め込まれていて、ちょっとやそっとでは外れそうにない。

 鎖の長さは二十センチほど。
 窮屈すぎず、自由すぎず——精神を逆撫でする絶妙な制限。

「なんで、こんな・・・」

『ことに?』と続けようとして、言葉が止まる。
 気を失う前の記憶が、よみがえってきた。

 アモールやマルコと引き離され、巨大な青いミミズに襲われたこと——

「・・・アモール」

 彼と再会したのも、気を失って目覚めたときだった。
 その記憶が、逆に目を覚まさせてくれた。

 一分も経たずに、シレーネは冷静さを取り戻していた。

「ここ・・・どこなのかしら?」

 辺りを見渡す。
 そして——見覚えのある人物の姿が目に入った。

 それは、彼女がこの地へ渡るきっかけをくれた女性。
『北へ』と告げた、あの声の主。

「・・・!!」

 声をかけようとした瞬間、シレーネは絶句する。


「・・・氷の柩」

 思わず、そんな言葉が口をついて出た。

 まるで死者の美しさを永遠に閉じ込めたような、透明な氷の中の女性。
 だが、シレーネは首を振る。
 この人は死んでなんかいない。
 そう信じたかった。

 ——だって、さっき確かに《声》が聞こえた。

『シレーネ・・・』

 再び、頭の中に響く声。
 凍ったままの女性の表情は変わらない。
 それでも、声は確かに届いていた。

 不思議と、シレーネはその声を自然に受け入れていた。
 まるで、ずっと前から知っていたような感覚で。

『シレーネ、我が娘よ』

「・・・え?」

 意味はわかっていた。
 でも、すぐには受け止めきれなかった。

『戸惑っているようですね。無理もありません。あなたが物心つく前に姿を消した母が、こんな姿で現れるなんて・・・でも、信じて。あなたを捨てたわけではないのです』

 氷の中にいるはずなのに、彼女の声には温もりがあった。
 胸の奥が、じんわりと熱くなる。

「でも、あたしに『北へ』って言ったのは・・・あなたでしょう?」

 《声》が母のものだと、シレーネはもう疑っていなかった。
 それでも、『お母さん』とは、まだ呼べなかった。

『ええ。ダルトンに囚われる前に、自分の足でここへ来てほしかった。その方が、あなたのためになると思ったのです』

 その言葉とともに、氷の壁が光を放ち、映像が浮かび上がる。
 そこには、アモールの姿。
 彼が出会った人々、交わした言葉——だが、映像は途中で途切れた。

「あなたが・・・女神スラインローゼの実体、なのね?」

 尋ねるまでもない。
 そうとしか思えなかった。

「だから、その娘であるあたしが、《器》として選ばれたわけだ」

『そうです。あなたには、並の人間を超える生命力が宿っています。

 でも、あなたが『自分』であり続ける限り、ゼナの力は流れ込まない。

 ダルトンの思惑を打ち砕く唯一の方法は、あなたがあなたでいること。

 どうか、忘れないで。

 あなたがあなたでいる限り、私はいつでも、あなたの中にいます』

 その言葉を最後に、声は消えた。
 不思議な感覚も、すっと消えていった。

「・・・自分であり続けること。自分を見失わないこと・・・」

 呪文のように繰り返すたびに、心の中の弱さが薄れていく。
 代わりに、勇気と希望が満ちてきた。


「絶対、負けないんだから」


 その言葉は、空元気ではなかった。
 意志の強さが、すべてを決める。
 たとえ力では敵わなくても、心だけは折れない。

 恐怖はあった。
 だが、それ以上に、心の奥に灯った炎が、彼女を支えていた。


 ——その時。


「ホーホッホッ。お目覚めでしたか、ご気分は如何ですかな。お嬢さん」

 不快な笑い声とともに、黒づくめの男が現れる。

 ダルトン。
 シレーネは、すでにその名を知っていた。

「たった今、とても悪くなったわ」

 冷たく言い放ち、怒りと軽蔑、そしてわずかな恐れを込めた瞳で睨みつける。

「それは残念。ですが、すぐに気持ちよくして差し上げますよ」

「・・・っ!」

 その言葉に、シレーネの身体が無意識に強ばる。
 命の危険は覚悟していた。
 でも、それ以上の恐怖が、今ここにあった。

 だが——

「・・・自分を見失わないこと」

 その言葉を、心の中で強く繰り返す。

 鎖の音が響くたびに、彼女は心の中でその言葉を繰り返した。
 それが、彼女の剣だった。

 どんな状況でも、自分を保ち続ける。
 それが、母の願いであり、自分の誓いだった。
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