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(R18)ファタール用改稿版
第10話 波頭
しおりを挟む潮の匂いが、風に乗って流れてきた。
森の冷たい空気とはまるで違う、どこかざらついた、けれど温かい匂い。
シレーネは思わず足を止めた。
胸の奥が、また小さく震える。
(……ここが、港……)
遠くで鐘が鳴り、人々の声が重なり合って波のように押し寄せてくる。
アモールは振り返り、軽く顎で前方を示した。
「着いたぞ。北へ行く船が出る町だ」
その声はいつも通り軽いのに、どこかシレーネを気遣う柔らかさが混じっていた。
シレーネは胸を押さえた。
山小屋で感じた熱が、まだどこかに残っている。
(……どうして、こんなに……)
けれど、胸の奥の『北へ』という声は、ここに来てもまだ消えない。
むしろ、潮風に乗って強くなるような気さえした。
アモールが歩き出す。
シレーネもその背を追う。
港町の喧騒が、二人を包み込んだ。
氷原の風は、山小屋で感じたぬくもりを容赦なく奪っていった。
アモールの手の温もりは、まだ指先に残っている。
けれど、その熱は歩くたびに薄れていき、胸の奥だけが、逆にじわりと火照り続けていた。
(……どうして、こんなに揺れるの)
北へ向かうべき理由は、確かに胸の奥で響いている。
『北へ』と囁く声は、氷原の風よりも強く、深く、彼女を引っ張っていた。
なのに——
隣を歩くアモールの気配が、その声をかき消すように、静かに、確かに存在していた。
半日歩き続け、ようやく港町カリスの影が見えたとき、シレーネは足を止めた。
かつて自由と富の象徴だったという街は、今や潮と煤の匂いに沈み、
閉ざされた扉と割れた窓が並ぶ、
どこか『壊れた器』のようだった。
(……ここが、北へ渡るための場所)
胸の奥の声は、確かにここを指している。
けれど、街の空気は冷たく、人々の視線は鋭く、山小屋で感じた『温度』とはまるで違っていた。
路地裏で焚き火に集まる影。薄い布をまとった少女たちの、諦めと媚びの混ざった目。
酔った男が女を壁に押しつけ、誰も止めようとしない通り。
そのすべてが、シレーネの胸を締めつけた。
(……あたし、一人だったら)
想像した瞬間、背筋が冷えた。
アモールの存在が、どれほど自分を守っていたのかを思い知らされる。
「……あそこで、少し休もう」
アモールの声に、シレーネは顔を上げた。
宿酒場の看板が潮風に揺れていた。。
扉の向こうからは、街の沈黙を押し流すような喧騒が漏れている。
「場違いなくらい明るい店ね……」
呟きながら扉を押し開けると、
錆びた蝶番が軋み、潮と汗と酒の匂いが一気に押し寄せた。
その瞬間、シレーネの心は、また揺れた。
外の世界の冷たさと、アモールのぬくもりと、胸の奥の導きと——
そのすべてが、彼女の中で複雑に絡まり合っていた。
アモールの手が、静かに彼女の手を包んだ。
そのぬくもりは、火のようだった。
指先から腕へ、腕から胸へ。
彼の熱が、彼女の中に流れ込んでくる。
それは、ただの安心ではなかった。
もっと深いところにある、衝動。
触れられたことで、逆に『触れたい』という欲望が目を覚ます。
彼の手が、彼女の逃げ出したい衝動を押さえつける。
けれど、それは支えであると同時に、誘惑でもあった。
「……行こう」
アモールの声は、耳元で囁くように響いた。
その声に導かれるように、シレーネは一歩を踏み出す。
視線の海を割って、二人は店の奥へと進んでいった。
その背中に、誰も声をかけなかった。
まるで、二人だけが別の温度で生きているようだった。
二人が席に着くと、店内は再び喧騒に包まれた。
あるテーブルでは、土地ごとの女性の魅力を語り合い、別のテーブルでは、海での怪奇現象を披露し合っている。
入り口近くでは、少年が曲芸のような踊りを披露し、陽気な歌で小金を集めていた。
客の多くは浅黒い肌に赤茶けた髪。
船乗りだとすぐにわかるが、寒さのせいか、皆が動物の革で全身を覆っていた。
その姿は、まるで山間の狩人のようで、どこか違和感があった。
知らない街に来た。
自分自身の異物感が否応なく感じさせられる。
この先、どうすればいいのか。
不安で、気持ちが沈んでいく。
だけど、同時に――
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