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(R18)ファタール用改稿版
第16話 触れる手
しおりを挟むカリスの街から半日ほど北東に、小さな半島がある。
そこから北の大陸までの数キロが、年に一度だけ凍りつくことがあるという。
潮流に乗って集まった流氷がぶつかり合い、結合してできる『氷の道』。
今年は寒波の影響で、例年よりも広く厚く凍っているはずだと、マルコは言う。
「ただし……帰ってこられるかどうかは、保証できないよ。渡った人の話はよく聞くけど、無事に戻ってきた話は、あまり聞かないからね」
その言葉が、部屋の空気をさらに冷たくした。
まるで、風のない場所に吹雪が舞い込んできたようだった。
それでも、行かなければならない。
逃げることはできる。
でも、進むしかない。
シレーネは再び唇を引き結んだ。
その表情には、もう迷いはなかった。
ただ、冷たい決意だけが残っていた。
マルコが眠ったあと、貨物置き場には静寂が訪れた。
風の音も遠く、波のざわめきも届かない。
ただ、冷気だけが、じわじわと床を這っていた。
その冷たさが、胸の奥の熱を静かに締めつけていく。
シレーネは、壁際に座ったまま、膝を抱えていた。
身体の芯まで冷え切っていた。
それは、気温のせいではなかった。
あの部屋で過ごした、価値のない何時間。
何も得られず、何も守れず、ただ削られていった時間。
その記憶が、彼女の心を凍らせていた。
(……あたし、まだ『ここ』にいていいのかな)
誰にも言えない問いが、胸の奥で渦巻いていた。
アモールは、少し離れた場所で荷物の整理をしていた。
その背中が、妙に遠く感じられた。
(あの人は、わかってる。きっと、全部)
だからこそ、怖かった。
今でも、自分に欲望を持ってくれるのか。
それとも、『怖がられて』いるのか。
自分が何をしたのか。
詳細はわからない。
だが、自分のできることは限られている。
予想はできた。
不安が、指先を震わせる。
けれど、シレーネは、そっと手を伸ばした。
「……アモール」
その声は、風に消えそうなほど弱かった。
けれど、彼は振り返った。
目が合った瞬間、シレーネは言葉を失った。
何を言えばいいのか、わからなかった。
ただ、触れてほしかった。
『まだここにいていい』と、言ってほしかった。
アモールは、何も言わずに近づいてきた。
そして、彼女の手を、そっと握った。
その手は、温かかった。
それだけで、シレーネの胸の奥に、少しだけ熱が戻った。
言葉はなかった。
でも、それで十分だった。
『北へ』進むための勇気は、まだ残っていた。
それは、誰かの温もりに触れることで、ようやく思い出せるものだった。
アモールの手は、確かに熱かかった。
その熱さが、凍えていたシレーネの指先から、少しずつ身体の奥へと染み込んでいく。
彼女は、そっと目を閉じた。
言葉はいらなかった。
ただ、今だけは、何も考えずにいたかった。
触れ合う肌の熱さ。
交わる吐息の熱さ。
体の奥で燃え上がる熱さ。
何かが、溶けていく。
風が、貨物置き場の隙間から忍び込んでくる。
けれど、その冷たささえも、今は遠く感じられた。
アモールの手が、そっと肩に触れる。
拒む理由はなかった。
むしろ、その手に包まれたくて、ここにいるのだと、ようやく気づいた。
静かに、二人の影が重なる。
灯りはない。
けれど、夜の闇がすべてを包み込んでくれる。
誰にも見られない場所で、誰にも触れられない時間の中で、シレーネは、ようやく自分を取り戻していく。
それは、傷を癒すための行為ではなかった。
ただ、確かめたかった。
まだ、自分が『誰かに触れてもいい存在』であることを。
アモールは、何も問わなかった。
ただ、そばにいた。
その沈黙が、何よりも優しかった。
夜が、ゆっくりと流れていく。
風の音も、遠くの波も、すべてが遠のいていく。
そして、朝が来るまで——二人は、言葉のないまま、ひとつの温もりを分け合っていた。
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