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第12話 河図洛書 ⑥ ~森の中で~
しおりを挟む「引き返すんなら、いまだぜ」
逡巡する二人に、バンが意地の悪い笑みを浮かべて言った。
だが、その言葉が単なる嫌がらせでないことは、彼の額を流れる汗が物語っていた。
彼は恐れていたのだ。
できることなら、ここで引き返して、酒でも飲んで眠っていたい――そう思っていた。
そして、自分がそう思ってしまうほどの森に、若い女性たちを連れて行くことに、強い抵抗を感じていた。
「いいえ、行きます。あたしには帰る場所なんてないんだもの。進むしか、ないんだもの」
鈴音の声は、健気を通り越して、どこか悲愴ですらあった。
だが、それは彼女の真実だった。
彼女には、前に進む以外の選択肢がなかったのだ。
「……わかった、わかった。おまえさんの根性には負けるよ、ほんと」
鈴音の真っ直ぐな眼差しに射すくめられ、バンは思わず金縛りになりかけた。
それを誤魔化すように、破顔一笑する。
だが、その笑みはすぐに消え、代わりに、険しい表情が浮かんだ。
ここから先は、彼にとっても冗談では済まされない領域。
実際、生きて帰れる保証など、どこにもなかった。
「じゃ、いくぜ」
足の震えを悟られぬよう、わざと軽やかな足取りで先に立つバン。
不安と恐怖を押し殺し、勇気を振り絞って後を追う鈴音。
心の中で何度も女神に祈りを捧げながら、剣の柄を握りしめるリカート。
三人は、強烈な重力に支配された空間へと、足を踏み入れた。
足を一歩踏み出した瞬間、膝が沈んだ。
まるで地面に引きずり込まれるような感覚だった。
強烈な重力下の森に入って、すでに二時間が過ぎようとしていた。
一行は亜熱帯性の気温と湿度の中、三倍近い体重で慣れない道、道とも呼べぬ獣道を歩み進んでいる。
もはや体力は底をつき、今や気力が足に前へ出るよう命じているだけとなっていた。
だが、それも限界に近くなっている。
気力の命令に従うことを、足が拒否しだしたのだ。
足がもつれ、めまいが襲う。
なにかがしきりに眠りを勧めていた。
鈴音は、かつての教室の窓辺に立つ義人の姿を見た。
リカートは、幼い頃に亡くした姉の声を聞いた。
バンは、森で消えた両親の背中を追っていた。
その声に耳を傾け、冷たい地面に身を横たえることができたら、そう思い始めていた。 それでも、わずかに残る理性が弱々しく発する警告が彼らの精神を、命を支えている。
眠ったら死ぬ、と。
だが、眠りと言うものは数ある苦痛の中でも最大のものである。
痛みは最初の一瞬にさえ耐えれば我慢のしようもあるが、眠りに関しては持続性もあり我慢だけでどうにかなるものではない。
ハッキリと自覚できる要素がないぶん空腹よりもつらいものなのである。
同等のつらさを持つものは後に痒みしかないのだ。
やがて、彼らの頭からは眠りを勧める声も、理性の警告も消えていった。
完全な虚無が脳を支配し、三人は膝から崩れ落ちる。
その直前、彼らは見た。
前方に輝く光を、色鮮やかな蝶が、鳥が舞い飛ぶ森を。
重力に押しつぶされようとしている彼らに、その姿は天使のように見えた。
重力の戒めから解かれ、自由に振舞う陽気な天女のようにである。
その笑顔は美しかった。
だが、どこか『人間ではない何か』を感じさせる無機質さがあった。
それが現実なのか、幻なのかは分からない。
だが、どうせ死ぬのであれば少しでも天国に近い場所で死にたかった。
三人は最後の生命力を燃やし尽くすつもりで、光へと向かい這っていく。
黄金に輝く樹木が見え、その奥に天使を見る。
瞬間、あふれる光が網膜を焼き、浮き上がるような感覚が薄れ行く意識の中に流れ込んでいた。
弦楽器であろう甲高く単調な旋律が、耳に滑り込んでくる。
三人にとって、それだけが自分の存在を知覚させてくれるものであった。
強烈な無感覚の中、聴覚だけが外の情報を受け入れていたのだ。
やがて、その旋律につられるようにして、一瞬の輝きのあと闇に沈んでいた視力が光の中へ蘇り、三人は自分たちが生きていることを知った。
自分たちを取り囲む光の少女たちを、ボンヤリ見つめながら……
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