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第19話 巧遅拙速 ① ~魔窟~
しおりを挟む雄大な翼が、星明かりに黒々と広がっていた。
密やかに灯り始めた夜空の下、冷えた大地から飛び上がった巨体が、まるで嘘のようにゆっくりと浮かび上がる。
吹きすさぶ風が、鈴音とリカートの髪を乱暴にかき乱す。
だが二人は、風の中を飛ぶという初めての体験に夢中で、言葉を交わすことすら忘れていた。
身体の下には、途方もなく力強い筋肉の動きと、風に耐えて張りつめる翼の感触が伝わってくる。
星々の間近を飛び抜け、手を伸ばせば掴めそうなほどの距離に、夜空の輝きがあった。
凍てつくような月が、彼女たちとともに滑空していく。
巨大な翼は一定のリズムで羽ばたき、闇の道を刻むように、空を進んでいく。
やがて風が静まり、冷え冷えとした藍色の夜の静寂が、辺りを包み込んだ。
そこは、静止した夜の無幻境。
星をちりばめた、無次元・無窮の世界だった。
そしてついに、鈴音たちは眼下に広がる――闇よりもなお暗い森を見つけた。
ちょうど、太陽の最初の一片が顔を覗かせ、森の木々に白い帽子をかぶせていく。
やがて、白と碧の光が森を染めていった。
鈴音たちは、闇が音もなく去っていくのを、肌で感じていた。
「あれが……」
『カプリチオ盆地』――神々が地上界を創った際、そこに住む生き物を創ろうと研究していた場所。
企画室であり、製造工場。
ゆえに別名『神々の実験室』と呼ばれる地である。
この森は『支衛の杜』と同じく、まるで線で引いたような完璧な円を描き、闇を内に秘めた巨木が、深く静かな森を形作っていた。
そして、その中心には――闇よりもなお暗く、夜よりもなお深い穴が穿たれている。
それこそが、魔龍アイオーンが住むとされる『ストイックの魔窟』だった。
目的地を視認し、人間たちはこのまま魔窟へ飛び込むものと思っていた。
だが、神獣ホアンホア・ロイドはその意図に反し、森の手前の草地へと、木の葉のように静かに舞い降りた。
朝露に照らされた草原が、銀色に輝いている。
バンボラがぎこちなく降り立ち、言い尽くせぬ心境を笑いに託して、あえぎながら鈴音を抱き下ろす。
リカートはすでに自分の足で飛び降り、ビロードの羽根に頬を預け、その肌触りを楽しんでいた。
だが、それは長くは続かなかった。
一瞬――ほんの一瞬、森の中から風が吹き抜けてきた。
その風に、鈴音ですらも異様な臭いが混じっていることに気づいた。
森の湿気や樹液、腐葉土の匂いとは明らかに異なる、異質な臭い。
たとえるなら――鉄を口に含んだような、そんな臭いだった。
鈴音には、最初それが何の臭いなのか、判断がつかなかった。
一度も嗅いだことのない臭いだった。
だが、しばらく鼻をひくつかせているうちに、経験に基づく微かな記憶と知識が頭の中で目を覚まし、遠い記憶がその正体を教えてくれた。
――血。
血の臭い。
それは紛れもなく、幼い頃に感じたことのある匂い。
血を『汚い』とすら思わなかった頃、自分の傷口から滲んだ血を舐め取ったときに感じた、あの鉄のような匂いだった。
「こりゃ、一人や二人のもんじゃねぇな……数十、いや、数百をゆうに越える人間が……」
バンボラがそう呟きかけて、言葉を飲み込んだ。
殺気にも似たリカートの視線に気づき、鈴音の存在を思い出したからだ。
いかに『勇者』としての自覚があろうとも、鈴音はまだ若い少女。
人の死に慣れているわけではない。
数百に及ぶ死――それは、あまりにも重すぎる。
しかも、その死が『普通』ではないことは、この強烈な臭いが物語っていた。
「人間ではありませんよ」
突然、背後から銀の鈴のような声が響いた。
黒鳥――ホアンホア・ロイドが、口を開いたのだ。
三人はハッとして振り返り、美しくも賢いその鳥に目を向けた。
「人間ではありません。この奥に横たわるのは、魔窟から侵攻してきた『オルゲス』の兵たち。他の種族の者たちです」
三者三様に驚きの表情を浮かべる人間たち。
その無言の問いかけに応えるように、黒鳥は語り続けた。
「この地上界の混乱を避けるため、そしてあなた方が動きやすいようにするため、ある一人の勇者が、単身で戦いを挑み、これを制しました。その時に倒された者たちが、今なお森に放置されているのです。……誰も片付けようとしないので」
感情のない、美しいだけの声。
だがその言葉には、重く冷たい現実が込められていた。
想像もできないほどの時を渡り、星の数ほどの悲喜を見届けてきた黒鳥にとって、この出来事は『瑣末なこと』に過ぎないのかもしれない。
「勇者!! 勇者って、もしかして……」
鈴音が思わず声を上げた。
『勇者』という言葉に、瀬戸義人の名と顔が脳裏に浮かんだからだ。
だが、黒鳥の返答はあまりにもそっけなかった。
「それは、あなた自身の目で確かめることです。私の役目は、あなたをここまで運ぶこと。そして、『すでに残された時間は少ない』ということを告げること。それだけなのですから」
静かに、淡々と語る黒鳥。
だが、その内容は無視できるものではなかった。
『残された時間は少ない』――その言葉が、鈴音たちの胸に焦りを刻んだ。
「それって…」
「どういうこと?」
と訊こうとしたリカートだったが、その問いは黒鳥のざくろのように紅い瞳に射すくめられ、喉元で止まった。
「それも、あなたがた自身で確かめなさい。……ただ、一つだけ言えることは、全世界の生き物にとって、あなた方が最後の希望だということです。だからこそ、私もこうして協力を惜しまずにいるのですから」
それだけを言い残し、黒鳥はリカートの制止の声を背に、空へと飛び去っていった。
あとに残されたのは、気が遠くなるほど広がる草原と、気が変になりそうなほど深い森、そして三つの人影だけだった。
「協力を惜しまない」などと言いながら、あまりに素っ気ない別れだった。
これで本当に、すべての謎を自分たちだけで解き明かさなければならなくなったのだ。
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