異境の人 ~鈴音が紡ぐ世界~

葉月奈津・男

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第21話 巧遅拙速 ③ ~妖精の言葉~

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 鈴音は、気が動転していた。

――いや、その表現は正しくなかった。

彼女の頭は、今も冷静に機能していた。
精神もまた、落ち着いて状況に対処しようとしていた。

にもかかわらず――身体だけが、彼女のコントロールを離れ、暴走していたのだ。

頭と心は、必死に「止まれ」と命じていた。
だが、まるで他人の身体であるかのように、その命令は届かず、足は止まらなかった。

「どこまで走るの?」心が問いかける。
だが、答えはない。

森の中を、まるで歩き慣れた散歩道でもあるかのように、鈴音の身体は走り抜けていく。

平時の彼女では到底出せないスピードと跳躍力で、一歩ごとにリカートとバンボラとの距離が開いていく。

その無理が、身体に大きな負担をかけていた。

特に心肺機能への影響は急速で、致命的だった。

「もう駄目、死んじゃう……」

ギリシャ・ローマ神話の地獄の番犬――ケルベロスの顎に、自ら飛び込んでいくような絶望感。

鈴音の心は、死を覚悟し、受け入れかけていた。

一瞬、視界が真っ白になる。

「死んじゃった……」

咄嗟にそう思った。
だが、それは誤解だった。

視界が白んだのは、暗い森から急に陽の光が差す場所へ出たためだった。

背後には、鬱蒼とした森。
そして、目前には――

底の見えない暗黒がたゆたう、巨大な穴があった。

擦り鉢状に広がるその穴は、まるで世界の底が抜けたかのようだった。

「……『ストイックの魔窟』なの?」

ホアンホア・ロイドの背中から見た、森の中心に穿たれた穴――それが、今まさに目の前にある。

無茶苦茶に走ったはずなのに、いつの間にか目的地に辿り着いている。

そんな不自然な偶然を、素直に信じることはできなかった。

「そうよ。これが『ストイックの魔窟』と呼ばれる場所。もちろん、地界への入り口でもあるわ」

東京ドームよりも三回りは広いその穴を、呆然と見つめる鈴音の耳元で、誰かが囁いた。

「えっ!? 誰!!」

突然の声に驚き、飛び退く鈴音。

振り返ったその瞬間――
この世界に来てから最大の驚きが、彼女を待ち受けていた。

 そこには――より正確に言えば、鈴音の耳元あたりの空中に、身長十五、六センチほどの女の子が浮かんでいた。

背中には、蝶のような形で、トンボのような色をした羽根。
それは、まさしくファンタジーの世界でおなじみの『妖精』だった。

ただし、外見はそうでも――性格や役割まで同じとは限らない。

「はじめまして、鈴音さん」

風鈴のように澄んだ声とともに、妖精は鈴音の目の前、ほとんど鼻先まで近づいてきた。

「な、なんであたしの名前を?」

物語の中にしか存在しないはずの妖精。
幼い頃、花畑を見るたびにその姿を探していた憧れの存在が、今、目の前にいる。

夢のような現実に戸惑いながらも、鈴音は幼い頃の夢に一瞬だけ心を預けた。

だが――妖精が自分の名前を口にしたことで、現実へと引き戻された。

「知ってますよ。なにしろ、あたしは勇者様――そう、義人様。こちらの世界では『オーリン』と呼ばれているあの御方の指示で、あなたを待っていたのですから」

純真無垢をそのまま形にしたような微笑みを浮かべ、妖精が答える。

その言葉を耳にし、鈴音は頭の中で何度も反芻した。
そして、その意味を完全に理解した瞬間――

彼女の表情が、まるでマネキンのように一度無表情になり、次の瞬間には、文字通り『破顔』した。

「待っていた? あたしを? 義人君の指示で?」

この世界に来て以来、ずっと孤独だった鈴音。
もちろん、リカートやバンボラという仲間はいる。
だが、真の意味での『同胞』ではない。

この世界で唯一の同胞――しかも、好きになった相手が、自分を『待っていた』。

たとえそれが、妖精を介してのことだったとしても――過酷な現実に立ち向かう若き少女にとって、これほど心強く、勇気づけられることがあるだろうか。

喜びに満ちた表情で、胸の前で手を組み、その余韻に浸る鈴音。

妖精は、そんな彼女を優しく見つめながら、さらに言葉を重ねた。

「勇者様は気にしておられましたわ。あなた様のような、かよわい女性を自分の戦いに巻き込んでしまったことを。そして、すまないと思いつつも旅を続けざるを得ない御自身の不甲斐なさに、怒りを覚えていらっしゃるようでした」

その言葉に、鈴音は思わず俯いた。

「そ、そんなこと……」

気にしなくていいのに。
妖精の言葉が、くすぐったくて、面映ゆくて――胸の奥が、じんわりと熱くなる。

だがその一方で、恋心と切っても切れない、もう一つの感情――『我儘』が、頭をもたげてきた。

「だったら……そんなに気にしてくれてるんだったら、なんで逢いに来てくんないの? なんで、自分で待っててくんないの!!」

思い余った鈴音は、瞳を潤ませながら妖精に詰め寄った。

その必死な問いかけに、妖精は待ってましたと言わんばかりに深くうなずき、真剣な表情を浮かべると――

義人を取り巻く『事情』を、語り始めた。

「オーリン、いえ、義人様はオルゲスとの戦いで傷付き疲れた隙をつかれ、地界現住の民――ラクロア族の手によって、捕らえられてしまったのです。彼らは義人様を人質に、あなた様を脅迫し、自分たちに都合よく世界を組み替えようと謀っているのです」

「……?」

いかにも、ありそうな話ではある。
だが、何かが腑に落ちない――鈴音の潜在意識が、微かな違和感を訴えていた。

それが何なのかは分からない。
けれど、確かに『何か』が引っかかっていた。

「……」

鈴音はしばし瞳を閉じ、自分の内側から響く警告に耳を澄ませる。

だが、ここは敵地のど真ん中。
いつまでも立ち止まって話していられる状況ではなかった。

「…! いけない、ラクロア族の追手が!!」

妖精の緊迫した声に、鈴音はハッと我に返る。
気づけば、辺りを乳白色の膜のようなものが覆い始めていた。


――その頃。

鈴音を追って走り続けていたバンボラが、突然足を止めた。

目の前に、白い壁が立ちはだかっていたのだ。

「なんだ?」

突如として現れた白い壁に、呆然と声を漏らすバンボラ。

狩人歴十五年、森と付き合って二十七年。
誰よりも森を知る男ですら、見たことのない異常な光景だった。

「『なんだ』じゃないでしょっ! 急ぎなさいよ! あの娘にもしものことがあったら、世界は……」

――終わる。

リカートの神官戦士としての感性が、声高に危険を告げていた。

二人は怯むことなく、白い壁の中へと身を躍らせる。
目隠し状態のまま、ほとんど全力疾走で。
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