紀尾井坂ノスタルジック

涼寺みすゞ

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密か事

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 華族に関することを一手に担うのは、宮内省の宗秩寮そうちつりょう
 家族構成、財産や結婚まで把握する内部局となるので、適齢期の子を持つ家からは「良い相手がいないものか?」と相談を持ちかけられるのは、良くあることだった。
 年齢だけで紹介するのなら簡単だが、相性というものがあり、見合いをさせるのにも、その場に高等官まで同席しなければならないとなると、なかなか大変なことである。そこで、宗秩寮総裁が言い出した。
 華族会館と名を変えた鹿鳴館は、元々舞踏会を開く場所であったので、手っ取り早く適齢期の者達を集め、表向きは官主宰の舞踏会とし、顔合わせのような場にできたら、宗秩寮の高等官を悩ませる斡旋のようなことを、少しは減らせると。
 それは、それで準備などに追われるのだが、1つ、1つ、貝合わせをするような作業よりもマシだと、着々と進んでいた。


 ◆◆◆◆◆


 光留は、どうやって尾井坂邸の正門を潜ったのか覚えていない。瀬戸物町で見聞きしたことが、どうにも上手く処理できないでいた。
 今、通されている応接間で泰臣を待つ間も、目の前に出された西洋食器をボンヤリと眺めているだけで、瞳に映る食器がどんな物で、何が描かれているかといった些細な情報でさえ、頭に入ってこない。
 心ここに有らず――。男爵家の女中らも不思議に思ったようだ。
 いつもなら、使用人にまで満面の笑みを浮かべ「ごきげんよう」と挨拶をする光留が、表玄関に入るや否や「泰臣君を……」と口走ったきり、無言であることから普段と明らかに様子が違うと、声をひそめ話していた。
 そんな女中達に、声を掛けたのは家令でも女中頭でもない。2階から伸びる、緩やかな曲線を優美な足どりで下る晃子だった。訪れる初夏を思わせる空色の裾を指でつまみ、乱れもなく、磨きあげられた螺旋階段から降り立ち「どうしたの?」と。
 
「それが……」

 言いよどむ女中らは、お互い顔を見合わせるが、黙っているわけにもいかず、躊躇いがちに口を開いた。

「 本日は、宮内省のご用件で来訪されると知らせが来ておりましたが、泰臣様を――と仰られたきり、黙り込んでしまわれて」
「今度、鹿鳴館で舞踏会があるとか。その件でしょうけど、別に黙っていても良いではありませんか」

 光留が、多弁でなければダメだとでも言いたげな女中達に、晃子は首を傾げた。
 確かに光留は、他の来訪者だったら素通りする使用人に挨拶をするが、それは光留の方が変わっているのだから。
 女中達は、晃子のピシャリとした言い分に、モジモジと下を向き「申し訳ございません」と頭を垂れる。

「まあ、貴女達がご様子を心配するのは分かりますが、光留様は宗秩寮に出仕されて間もなく、この度の鹿鳴館の件もあり色々とお忙しく、考えごとも多いのでしょう。こんな時は、そっとしておくに限りますよ」

 晃子は、温室へ向けていた足をクルリと変え、談話室へ向かった。

 一方、光留は、1人頭を抱えていた。
 瀬戸物町でバッタリ出くわした羽倉崎とは、あのあと少し話をした。当然だが、何故、あの家に出入したのかを話しておかなければ、ならないからだ。
 以前、俥が走行不可能になり世話になったこと。多忙を極め、お礼が今になったこと。これだけを告げた。
 里から聞き出した、泰臣と咲の関係などに口を閉ざすのは、要らぬことだからだ。
 羽倉崎は、理由を知ると嬉しそうに目元を緩め「それは、ご丁寧に」と頭を下げる。黙っていれば怜悧れいりが出過ぎている、隙のない知性的な顔立ちが、ガラリと変わるのは得なようにも思え、光留は苦笑いを漏らした。

「田中様、よろしかったらお上がりになりませんか?」
「いえ、今から予定がありまして」

「そうですか。それでは、またお越しください。家の者も、周りに知り合いがおらず毎日寂しくしております」
「……ええ、機会があれば」

 お上がり下さいは、社交辞令だが次に続く言葉は、来訪を願っているということだろう。
 何もなければ「それでは」で、終わりだからだ。

 ―― ああ、清浦さんの手下と思われている。

 だが今は、それで良いとさえ思う。なるべく男爵家とは、関わりがない男だと思われていたい。

 ―― 晃子さんが、知ったらどうするのだろうか?

 毛嫌いするタイプの男が、婚約者であると。どうする……いや、行動ではなく、感情が問題だ。知ってしまったら、絶望するのではないか?と。激怒し、結婚なんて絶対にしないと男爵に訴える、羽倉崎のことを嫌悪する。こんなことが想定されるならば、暴露してしまうという選択肢もある。
 だが、憔悴したら?泣いて、食が細くなり病気にでもなったら?

 ―― 僕は、晃子さんが羽倉崎さんをどう思っているのかを知りもしない。

 そんな状況で、暴露なんてできるはずがない。どうしょうもない事実を知ってしまった罪悪感にも似た感情が、臓腑の底からジワリ、ジワリと身体に滲むような錯覚まで覚えた。
 居心地が悪い、早く帰りたい。そう思えば思うほど、訪れることを告げていたのに待たせる泰臣に腹が立ってきた。
 きっと、先日の曲がったヘソが戻っていないのだろう。光留は、懐から一通の封書をテーブルに放り投げると、磨きあげられ光沢を放つ、ドアノブを引っ掴んだ。チョコレート色が遮っていた視界は開け、緋毛氈の廊下と高い天井のステンドグラスから差し込む柔らかい日射し、そこには何故か、驚きで肩を跳ねさせた晃子がいた。
 視界に飛び込んできた、愛しくも気まずい人の姿に光留は、一瞬戸惑うも「失礼!」と一声叫ぶなり、戻りたくない室内へ一歩、飛び退いた。

「いらっしゃいませ、光留様」

 微笑む晃子は、様子が変だという光留の顔をジッと眺めた。

「いえ!あの、泰臣君……お忙しそうなので僕はこれで。あの封書を渡して頂けたら……」

 いつもなら泰臣が、永遠に来なければいいとさえ思うだろう。しかし、今は重大な秘密を知ってしまったことから、もう少し時間が欲しい。光留は、晃子の返事を聞きもせず、横を通り抜けたが、通せんぼをするように晃子の背後に立つ泰臣の姿を目の当たりにし、真っ白なグローブの指先で顔を覆った。
 もっと早く席を立てば良かったと。
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