紀尾井坂ノスタルジック

涼寺みすゞ

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手跡

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 ◆◆◆◆◆

「遅かったですね。車輪の音が消えても一向に、お戻りにならないとは。見えなくなるまで……いえ、それ以上にお見送りをされていたのでしょうか?」

 光留の心配が的中した。羽倉崎は、遠回しに『見えなくなっても、名残惜しいと見送っていたのか?』と、言っているのだ。
 探る視線は、いつものことだと晃子は、溜め息と共に、唇を開きかけたのだが、広々とした空間に響き渡ったのは、威勢の良い駒子の声だった。

「宿題の答え合わせを、晃子様とやっておりました!」
「宿題?」

「ええ、富士の額について……それよりも羽倉崎さん、前々から思っていたのですが晃子様のことが大好きなんですね!」
「は!? 」

 あっけらかんと飛び出す言葉に、当の羽倉崎は元より、泰臣も晃子も目を丸くした。駒子の匂わすものに嫌味や、含みなどなく、天真爛漫な人の良さゆえの物言いだ。
 駒子は、人差し指をダメ、ダメ、と左右に振ってみせ、唇を尖らせる。嗜める仕草は下町のかみさん連中のものなのか、伯爵家の女中のものなのか、わからないが 板についていた。

「ダメですよ。長屋の玉三郎姉さんが言っていました。寂しい時は、寂しゅうござんしたと、目をパチパチしながら言わねばならないと」
「玉三郎……?」
「姉さん???」

 羽倉崎と泰臣の疑問には、そ知らぬ振りで駒子は テーブルに手を突き、身を乗り出した。期待を向ける瞳は、いつもより輝いて見える。

「さあ、羽倉崎さん、やってみせてください」
「何をですか?」

 羽倉崎は、微かに眉をひそめた。
 女に、何かを命じられるのが気に入らないのか、不機嫌さが滲み出ている。その為、持ち前の怜悧さが一層、露になるのだが 伯爵令嬢である駒子を、叱りつける訳にもいかない――と、いうのが本音だろう。黙り、腕を組む。

「こう……目をパチパチ……」

 駒子の長い睫毛が、何度も肌を打ち 影を落とす――。

「はぁ!? 」

 羽倉崎の戸惑いを宿す声が、辺りに響く中、泰臣は、吹き出した。プウッ――!と。
 瞬きを繰り返す駒子は、とても可愛らしいのだが、それを羽倉崎にやれと言うのは、流石に無理がある。堪らず笑いだした泰臣に続き、晃子までが両手で顔を覆った。

「晃子さん!」

 羽倉崎は、気色ばむ声を上げたが、それが余計に笑いを誘うのだろう。晃子は震え、必死に絞り出す。

「誤解なさらないで……私は、別に……ふふ、泰臣さんの顔が、面白かっただけですわ」

 未だに顔を隠し、肩を震わせる晃子を他所に、駒子は「あ!そうだわ……」と、立ち上がった。気まぐれにも程があると思うが、これで羽倉崎の悋気の矛先は逸れたと、泰臣は胸を撫で下ろす。

「泰臣様、少し見て頂きたいのです」

 と、手を招く駒子は、すでに扉の前に立ち、ドアを開けている。わざわざ席を外してまで見せる物とは、何だろう?と、思いはするが 駒子の つま先が、誘う緋毛氈に続いた。
 足を踏み入れたのは、窓辺にテーブルと椅子の一組、それと壁に沿う一人掛けのソファーが二組だけ。今は、週に1度の筆道ひつどうが行われるだけの空き部屋なのだから、それで十分だが改めて見ると殺風景であり、今度花でも……と思い付く。

「泰臣様は、すぐに席を外されて私と光留様だけだったでしょう?」

 駒子は、窓辺の机に手を添えると振り返り、そう言った。

「ああ、何かありましたか?」

 筆道の稽古が始まって以来、3人で同じ空間に居たのだが、ただ見ているだけの泰臣は、暇で仕方がなかった。光留と駒子を心配することもないと、3回目からは3人で1度、同じ部屋に入ると、決まって用件を思い出し、退席する流れになっていた。

「ええ、次回提出するものがありまして……まず、10回自分の名を書いて、1番良い出来の物を」
「成る程、それが問題ですか?」

 駒子は、首を振ると縦縞のあわせから、1枚の紙を取り出した。日光――と書かれた文字は、筆の運びがとても美しい。光留の手跡だ。

「もうひとつ、好きな文字を10回書いて1番の出来を……これは、私が光留様の好きな文字をと、お願いしたものでして」
「日光……が?」

 駒子は、頷き語った――。
 好きな言葉でも、好きな食べ物でも良いと笑う光留に、駒子は尋ねた。
「例えば、光留様は?」と。
 すると、直ぐ様 筆をとり、墨を含ませると勢いよく、紙に滑らせたという。書かれた文字は、堂々とした立派な手跡で、日光と書かれていた。駒子は、声に出して読んでみると、小首を傾げる。何故、日光なのだろう?と。そこで尋ねた。

「太陽ではなくて?」
「ええ」

 光留は、当然と云わんばかりに頷く。

「お日様でもダメなのですか?」
「ええ。僕は、この字が大好きです」

 それでも不思議だと、色に出す駒子に
「理屈ではないのですよ」こう告げると、一面 墨で書きなぐられた古紙の中に、滑らせたという。捨てられた筈の物が、何故手元にあるのかと云うと 答えは簡単で、とても美しい文字だから黙って、拾ったらしい。
 駒子は、へへっと笑って見せると、緩んだ口元を引き締めた。

「私、気付いたのです」
「何を?」

「ほら!ご覧になって。日光――、日と光の間隔を縮めてご覧下さい」

 何度も試してみたのか、日と光の間には折れが出来ており、駒子の指先によって簡単に縮められた。出来上がった一つの文字に、泰臣の喉は「あ!」と声を上げた。

「ほら、ね!晃子様のです。凄いでしょう?……あら?泰臣様、どうされたのです?」

 満面の笑みを浮かべる駒子とは、真逆に泰臣の顔は固まった。
 女の勘は 鋭いというが、妻になる駒子の冴え渡る勘に、空恐ろしさを感じる。
 ――が、そんなことよりも……と、突いて出だのは「羽倉崎さんには、絶対に……」という、口止めだった。

「わかっております」

 疎いながらも、羽倉崎の異常な溺愛と光留が絡むと面倒だということは、わかるのだろう。泰臣は、さらに念を押した。

「お姉様にも……」
「あら、ダメですか?」

「ダメです。これは、ただのです。晃というのは憶測であり、勘繰り」

「とても素敵なのに。晃と書く訳にはいけないから、日光って……はぁい、わかりました」

 睨み付ける泰臣に、駒子は肩を落とし渋々了承した。
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