紀尾井坂ノスタルジック

涼寺みすゞ

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醜行

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 これは、婚約者と一夜を明かしたということだろう。例え、純潔を守ったとしても共に夜を明かすことが、何を意味するか。
 屋敷の者から漏れる噂は、確実に光留の耳に入るだろう。箝口令を敷いたとしても、必ず羽倉崎が、仕向けるはずだ。
 窓辺に置かれたテーブルランプが、必要になるには まだ早い。空は、茜に染まっていた。しかし、確実に闇のとばりはおりる。

「お荷物はどうされるの?」
「今、取りに向かわせています。明日は、こちらから出立しましょう」

 明日、上野駅で羽倉崎は足止めをされる手筈になっている。しかし、光留はこの状況を知るよしもないのだ。上手く、汽車で入れ替わったとしても後々、今宵の件を知ることになるだろう。

 ―― 私が、汽車で申し上げなければならない?

 ふと過るが、それでは遅いと打ち消した。羽倉崎の言葉を借りるとするならば、鬼怒川へ向かってしまえば者を掠め取ったことになるのだ。
 大名華族である田中子爵家の跡取りがだ。
 新聞は、大いに賑わうだろう。羽倉崎は、恥をかくと言っていたがコレ幸いと、非難するかもしれない。
 子爵家にとって、とんでもない醜聞となるはずだ。晃子は、立ち上がった。

「どうしたのです?」
「喉が渇きました、少々失礼」

「お待ちなさい、食事を運ばせる手配をしています。水も持ってくるように……」

 コンコン――
 遮る音に2人の視線が一点を差す。
「どうぞ」と、返したのは羽倉崎だ。ワゴンを押す先頭の女中が「失礼します」と軽く頭を下げると、続く女中が配膳の準備を手際よく進める。無駄口を叩かない為、室内はカチャカチャと鳴る食器の音だけが、やけに耳につく。
 晃子は、部屋を出る理由付けがないかと、素早く食卓へ視線を這わせた。
 汁物、魚の塩焼き、わかめの酢の物、きんぴらごぼう。典型的な一汁三菜だ。水注にも、並々と注がれているようで、水を所望する手は、使えなくなった。
 御手水と言っても、着いてきそうだ。
 時刻は、17時。尾伊坂家では、日暮れに使用人を門外に出すことはない。
 退っ引きならない事情というものがあれば、俥を使わせるのだが、今、それを命じると羽倉崎の知ることになる。又、使いとなるであろう志賀に事情を説明している暇もない。晃子が、羽倉崎から離れるというより、羽倉崎に晃子の側を離れてもらう必要があった。

「羽倉崎さん、お願いがあります」
「何でしょう」

「咲さんと仰ったかしら? その方を御呼びになって」
「……ここにですか?」

「ええ、鬼怒川へ行けば縁談は進んでしまうでしょう。このままでは嫌なのです」
「ダメです。ああ、下がっていい」

 羽倉崎は、シッシッ――と手を払い、女中に退出を促す。まるで犬猫を追い払うようだ。晃子は構わず「何故です?」と問う。

「あれは、こちらの敷居を跨ぐような者ではありません」
「私が呼んでいるのです」

「ダメです。あれを呼べば夫人の機嫌を損ねてしまう」
「お母様の? こっそり御呼びください。尋ねられても、羽倉崎さんの下女とでも申し上げましょう」

 咲を呼びつければ羽倉崎は、晃子ばかりに構うことが出来なくなる。隙が生じれば、志賀に言い含め子爵家へ行ってもらおうと。
 黙り聞いていた羽倉崎は、脱力露にハッと息を吐き出した。

「手元に煙草があれば、すべて吸い付くしていたかもしれませんね」
「どういう意味です?」

「呆れたと。貴女は調べもしていないのですね? 大抵、正妻というのは妾を調べるものですよ。すべて知らないまでも、住まい、使用人の数、歳、親兄弟、生まれ……貴女のお母様もそうだったでしょう? それが普通です」
「知りたくないのに、知る必要があるのですか?」

「ええ、ことに妾に子があれば相続にも関係してきますからね。貴女は、咲のことを知らない、だから連れてこいと言える」
「それでは、羽倉崎さんがお知りになることを全て仰って。調べる手間も省けます」

「歳は18、唯一の血縁は泰臣君とでも申しておきましょうか」
「泰臣?」

 立ち尽くし、そっぽを向いていた晃子がゆっくりと振り返った。半歩、ずらされた草履から しなやかに伸びる半身までは、まるで美人画から抜け出たような臈長けた美しさだが、向けられた面は警戒をあらわにし、眼差しは敵を見るようだ。

「咲は、泰臣君の従妹になります」
「何ですって……?」

「貴女は、妾が嫌いだと言われますが咲は、婚約が成立した頃には、私の別宅で暮らしていたのですよ」

 晃子は、信じられないとまじろぎもせず、西陽を受ける羽倉崎の顔を見つめたが、当の本人は落ち着き払い、不貞の事実を淡々と語りだした。商売の関係で、強く結び付きたいと思っていた男爵家と婚姻で結ばれれば言うことはないと考えていた矢先、泰臣の従妹の存在を知ったと。
 次期、男爵となる泰臣の唯一の血縁ならば、文句のつけようがないと考えたとも。

「思い通りにいったと?」

 晃子の声が、か細く震えた。

「ええ、予想以上に。貴女まで手にする幸運に恵まれた」

 低く笑い、瞼を伏せる羽倉崎を目にし、晃子の指先は 目の前のテーブルクロスを怒りに任せ、荒々しく引いた。
 ガラガラ、ガシャ――ン!
 迅雷のような激しい物音は、何重にも轟く。当たり前だが、引かれたクロスは 純白を失い、テーブルにあった品々は 全て床に散乱した。 

「晃子さん!」
「お帰りになって!」

「何度言わせる気ですか。今宵、貴女と共に過ごすと言ったでしょう」
「光留様に誤解を?」

「そうです」
「嫌です、私は光留様にそのような誤解をされるくらいなら死んだ方がマシです……貴方の妻になるくらいなら死んだ方がマシ!」

 晃子は、ドアに向かって駆け出した。
「待ちなさい!」
 普段 物静かな羽倉崎の怒声と共に、グラスがドアに叩きつけられた。弾け飛ぶ破片に、悲鳴を上げた晃子の足は怯んだ。それが目的だったのだろう。
 背後から伸ばされた腕は、細い身体を難なく捕らえ、胸元へ引き寄せた。懸命に身をよじるが、蜘蛛の糸に絡め捕られた蝶のように、身動きができない晃子の顎を易々と掴み上げた羽倉崎は、耳朶へ唇を寄せる「奥へ参りましょうか」まるで、嘲笑うかのような声音で言った。

「離して!! 」

 必死に手足をバタつかせ、抵抗を試みるも 力で敵う訳もなく、草履は脱げ、夕食の残骸で足袋は、散々な有り様となる。
 ズルズルと引きずられてゆく晃子は、辛うじて抜けた右手を伸ばし、窓辺にあるステンドグラスを懸命に求めるが、あと少しといった所でとどかない。
 もうダメかもしれない――、そう思った時、羽倉崎が寝室のドアを開ける為か、足を止めた。
 白魚の指先が、テーブルランプの柄を しかと握ったのと、ガチャリ―― と、わかつ寝室へ続くドアが開かれたのは、ほぼ同時だった。 
 再び、抱え込まれ寝室へいざなわれる晃子は、握りしめたランプを羽倉崎へ叩きつけた。
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