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きつねうどん、たぬきそば
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ソファに座り、前をくつろがせた進也の股間に顔を埋め、正之助は口を使って、丹念に進也の性器を愛撫する。根元を手で押さえながら先端を舐め、ちろちろと舐めて唾液をこぼしてから、一気に口の中に入れた。
途端、進也が顔を顰めて正之助の頭をはたいた。
パコン
「んへっ」
性器を口の中に入れていた正之助は、思わず声を出す。声が出たせいで、僅かに歯を立てられて、ますます進也は眉を寄せた。正之助の頭を掴んで、自分の性器から顔を離させる。
「歯が当たってんだよ、このヘタクソ!」
「んな事言ったって、お前のがデカいんだから、しょうがないだろ!歯が当たるのが嫌なら小さくしろよ」
変化が可能な進也になら、男根の小さい男になるなど朝飯前だが、それはなんだか男として好い気がしない。いや、問題はそこではないと進也は首を振る。
「デカくなきゃ意味ねーんだよ、阿呆狸!言っとくけどな、俺は好きでお前にしゃぶられてんじゃねーんだぞ!」
「俺だって好きでしゃぶってねーよ!美味しくないもん」
味の問題ではないだろうと正之助の反論に呆れつつ、進也は正之助の頭をぽんぽん叩きながら、言い聞かすように囁いた。
「お前、自分の立場を弁えろよ。正体バラされて一族路頭に迷いたくなかったら、俺の言う通りにしろ」
「うっ」
正之助は言葉を詰まらせる。校内には弟の正平もいる。進也は生徒会長で人望も厚く、PTAや教員にも顔がきくらしい。自分達が狸であると知られたら、一体どうなる事やら、想像するだけで恐ろしい。
ごくりと唾を飲んでから、正之助はじとりと進也を睨みつけた。
「・・・それはお互い様じゃねーの。俺が先にお前の正体をバラすかもしんねーぞ」
正之助の言葉をフンと鼻で笑い、進也は前を性器を露にしたまま、足を組んでふんぞり返る。
「生憎、俺はお前と違って、バラされた場合の対処法をいくつか考えてる。少しでもお前が妙な真似をした場合、百倍にして返すと明言しとく」
うっすら目を細めた進也の表情に、彼が本気だと悟る。確かに、ろくに友達も作らずに人間の片隅に混じって過ごしてきた正之助と、生徒会長まで上り詰めた進也だったら、修羅場を潜り抜けてきた場数が違うだろう。それに、進也の正体をバラした場合、おそらく自動的に自分らも正体がバレる羽目になるのは想像に容易く、自らの首を絞める真似は出来ない。
言い返せずに唸る正之助を無視し、進也は視線をそらしてぼそりと呟く。
「・・・それに、俺にはもう本物の家族はいねーしな」
進也の言葉がうまく聞き取れず、正之助は聞き返す。
「家族がなんだって?」
「なんでもね。続き、やるぞ」
言葉を濁し、進也は正之助の手を掴んで自分の下腹部に添えらせる。何かを思い出すように目を閉じてから、正之助に命令する。
「ゆっくり舐めろ。勃ってきたら、歯を立てずに口の中に入れるんだ」
言われた通り、正之助は再び進也の性器に舌を宛がい、ぺろぺろと舐め始める。真剣に舐めるその様子に、ムードも何もなく、進也の気持ちも全く盛り上がって来ないから、性器はくったりと項垂れたままだった。
全く勃ち上がってこない進也の性器に正之助も焦り始める。上から冷たい視線も感じる。自分なりに一生懸命舐めているつもりなのだから、勃起しないのは進也の変身に問題があるんじゃないかと思う。狸は一般的に春が繁殖期だと言われているが、狐は違うのかもしれない。
その疑問を口にする前に、顎が疲れてきた。それに気づいた進也が言った。
「舌が疲れてきたんなら、手を使え」
ただ添えられていただけの手を見やり、正之助は上目遣いで進也を見、首をかしげる。
「手?」
「自分のを扱くみてーに摩ってろ」
「自分のって、どれ?扱くって、どうすんの?」
「いちいち面倒くせーな、お前は!!!」
耳元で怒鳴られて、正之助は肩を竦めて耳を押さえる。怒鳴られる謂れは無い。正之助はムッとなって進也を見据える。
「お前の説明不足なのが悪いんだろ」
「だから阿呆狸だってんだよ!徹頭徹尾説明しねーとなんねーのか!俺は、オナニーみてーにやれって言ってんの!」
大声を出して言う事ではない。一体俺は何を叫んでるのだと、心のどこかで自問する進也に対し、正之助は険しい顔になった。その表情は真剣そのものだ。
頬に汗をかきつつ、正之助は問うた。
「・・・・オナニーって何?」
進也はがくりと項垂れた。
そこから説明しなければならないのか。
狸の生態は知らないが、おそらく一般的な狸は自慰行為はしないのだろう。狐だって同じものだから、発情期以外で性行為をしたいなんて思わない気持ちは良く分かる。だが、人間の男子高校生の生活をまっとうに2年間過ごしてきたと言うのなら、避けては通れない話題だった筈だ。オナニーも知らないでよくへらへらと人間に混じって暮らせたものだ、と少々偏向知識を持っている進也なのだった。
知らないのなら仕方ない。
「分かった。俺が教えてやる」
「ありがとう」
無邪気に笑う正之助に呆れつつ、進也は正之助の腰を掴んでソファに押さえつけると、ズボンのチャックを開けた。正之助はされるがままだ。僅かにズボンをずらして現れた性器に、正之助の手を掴んでそこに添えさせる。その上から自分も手を重ね、ゆっくりと上下に動かし始めた。
「・・・うっ・・・わ・・」
正之助が思わず声を出す。これまで味わった事の無い、感覚だった。ぞわぞわと体の奥から熱さが込み上げ、むず痒さに体をくねらせる。正之助の手を握り締めた進也の手が、優しく揺れる度に、言い知れぬ感情が湧き上がってくる。
「ぅっ・・・あ・・・・・・」
徐々に早くなってくる手の摩擦に、それに合わせて自分の中の何か熱いものも、どんどんどんどん、破裂しそうに膨れ上がってくる。このまま破裂してしまったら、人間の姿を留まってられるか、自信が無い。
体に力が入らず、正之助は助けを求めて片方の手で進也の肩を掴んだ。
「・・・・・」
進也はその手をちらりと見ただけで、振り払いはしなかった。
顔を近づかせ、正之助の顔を覗き込む。頬を真っ赤にして、歯を食いしばっている正之助の表情は、さっきまでのノラクラとした間抜け面とは違って、何処か幼く見えた。
射精が近いのか、正之助の息が荒くなり、進也の肩を掴む手に力がこもる。その手が進也を押しのけようと前に動いた。
「も・・・・・・・・ダメ・・だ・・・。離して・・・くれ」
「イカせてやるから、大人しくしてろ」
「イカす・・て・・・・なに・・?俺、カッコ・・イイ?」
この期に及んでボケる正之助にムードを殺がれたが、進也は構わず手を動かし続けた。
「阿呆狸・・・イクって言葉を覚えろよ。出そうになったら、言うんだ。分かったな?」
「出るって・・・な・・にが・・?」
説明するのはまどろっこしい。進也は正之助の性器を強く掴んで、激しく擦り出す。さっきまでじわじわと蒸されるような熱さを感じていたのに、突然発火した如く、体が芯から熱を持つ。いや、芯ではない、性器だ。見れば、自分の性器とは思えないぐらい大きく膨れ上がってそそり立っている。思わず正之助は進也を見上げ、心細げに眉を寄せる。
「・・・・・やめ・・ろ・・・!俺の体・・おかしい!・・・・!!!」
しがみ付いてくる正之助の鼻をぺろりと進也は舐めた。
「・・・お前だけじゃねーよ」
そう呟いて、進也は正之助を上からがっちり押さえ込むと、パクパク開閉を繰り返している正之助の唇に噛み付いた。縮こまっている舌を舌で引き出して絡ませ、何度も口の中を愛撫する。正之助はギュッと目を閉じた。
唇を開放し、進也は正之助の耳を甘く噛むと、息を吹きかけるように囁いた。
「・・・出そうになったら、イクって言え」
吹き込まれた息に更に体に痺れが走った正之助は、進也の言葉の意味も分からず必死に頷くと、進也の胸に顔を押し当てた。乱れた息の出るままに、正之助は声を出した。
「・・・イ・・・・・ク!!」
射精したと分かると、進也は動かせていた手を止めた。重なっている正之助の手がプルプル震えている。きつく閉じた目はまだ開かれず、僅かに怯えた表情の正之助を見下ろしていると、微々ながら罪悪感が湧いてくる。固まったまま動かない正之助を、進也は肩を揺すって起きさせる。
揺さぶられ、ゆっくり目を開けた正之助は、目の前で複雑な顔をしている進也に気づくと、ほっと息を吐いた。そして、自分の手のひらが濡れた事に、少し遅れて気づいた。
「・・・なんだ、これ」
「オナニーしたらこういうのが出るんだよ。普通の男子高校生ならよくやってる事だから」
そう言って正之助の上からどくと、テーブルに乗っていたティッシュ箱を正之助に放り投げた。濡れてねばねばしている手を不愉快そうに眺め、くんくん匂いを嗅いで、正之助は顔を顰めた。
「小便?」
「違う、精子」
進也の言葉に、正之助はカッと目を見開いた。上に乗っかっていた進也を蹴っ飛ばし、怒鳴る。
「この馬鹿狐!!!俺の貴重な子種を・・・・!!!!」
繁殖できなくなったらどうしてくれるんだとわめく正之助に、進也は頭を押さえ、この狸は何処から何処まで人間の知識があるのかと、深々とため息を吐いたのだった。
進也の態度に、正之助は腕を組んで仏頂面になる。
「そもそも、なんでこんな事しなきゃなんねーの」
「だから・・・・最初に言ったろ」
「最初?」
それは用具室での話。男子生徒と絡んでいた男性教員を誑かせと、進也は言った。あの男性教員には見覚えがあるものの、名前は記憶に無い。
「誑かすっつったけどさ、どうすりゃいいんだよ。お前の言葉は説明が足りなすぎる。言う事を聞かせたいんなら、1からナンチャラまで説明しろよ」
「一から十な」
正之助が鈍感で、頭が弱い上、人間の知識も歯抜けだと分かった今、進也は愚痴も言わず、ただ正之助の顎を掴んで顔を上げさせ、鼻先を触れ合わせると、声を低めて言った。
「俺はこれでも親切なつもりだぞ。ろくに性教育も受けてねぇお前に、こうやって狐直伝のお色気の術を教えてやろうってんだからな」
これは果たして親切なのだろうかと、正之助は股間を押さえながら思う。
「俺の教育が終わった後は、あの教師をその術で落とすんだ。時と場所は指定する」
そう言って笑ってみせた進也の目は鋭く光っていて、狡猾な狐そのものだった。
あの教師を自分が誘惑して、進也にどんなメリットがあるのか問おうとすれば、そこでチャイムが鳴った。
もう昼休みも終わりだ。ここは生徒会室。いつの時代の生徒会長が、どういう風に教師を買収したのか分からないが、生徒会室は生徒会長の権限で好きに使っていい部屋だった。
いつもは昼休みは寝てばかりいたので、今から授業だと思うと、正之助は大きく欠伸をした。
「眠い」
「授業には出ろよ。俺の代わりに」
「えー・・・・」
授業をサボる気でいた正之助は、不満そうに唇を尖らせる。
「お前はサボる癖に俺には出ろって?」
「俺がいねーと変に思われるけど、お前がサボってても誰も変だと思わねーからな」
そう言って、進也は鞄から勉強道具を取り出すと、テーブルの前に広げた。受験対策の為の小難しそうな参考書だ。正之助は興味を覚え、参考書を手に取った。
「授業をサボって勉強をする?わけがわかんない」
「お前にゃ分からないだろうさ」
参考書を正之助から奪い取ると、進也はテーブルの上に置いてあった正之助の葉っぱを取って、正之助の頭に乗せた。青々とした葉はバランスよく、正之助の頭の上に収まっている。
気乗りしないのか、変身せず、正之助は進也をじとりと睨む。進也はにやりと笑って、言った。
「お前の変化の腕を、俺に見せてみろよ」
「そう言う言葉に乗せられねーからな」
「阿呆狸の癖に・・・・文句言わずに大人しく乗せられとけ」
進也はそう言うと、自分も頭に葉っぱを乗せて、ドロンと正之助に変化してみせた。目の前で披露された進也の変化の術は完璧だった。自分そっくりの人間を、まじまじと観察する。
「・・・・うまいもんだな」
「当然」
「そんなに完璧に変身出来るんなら、お前があの教師を誘惑すればいいだろ」
正之助がそう言った途端、進也はギロリと鋭い瞳で正之助を睨みつけた。自分と全く同じ顔なのに、妙に迫力があって、正之助は一歩後ろに下がる。
「・・・・二度と言うな」
「は、はい」
この狐を怒らせると厄介だと、ひやひやしながら、正之助は頭を上下に振った。何が逆鱗に触れるか分からない。
進也は時計に目をやり、顎をしゃくって指示する。
さっさと変化して、とっとと教室に行け、と言う意味だと、さすがの正之助も分かる。
頭に葉っぱを乗せると、ドロンと進也に変化してみせた。
「なんか変な感じだな。変化した人間に化けるのは」
自分の姿を眺め回していると、進也も同じく正之助を凝視する。その姿形が自分と酷似していると、納得してようやく首を縦に振った。
「さっさと慣れろよ」
「なんでさ」
「お前は黙って俺の言う事を聞いときゃいーんだよ」
暴言ではあったが、正之助は反論しなかった。反論した所で立場が不利な事には変わらず、結局言う通りに動く羽目になるのなら、余計な口論は無用だ。暢気者の正之助は平和主義で、諦めが早い。
「まぁ、いいけどさ。それで?後は?」
素直に頷く正之助に苦笑しつつ、進也は腕を組んで言った。
「授業が終わったら、放課後またここに来いよ。クラスメイトの話には適当に応えとけ」
「適当って・・・・」
それが一番難しい。
困った風に眉を下げた正之助に、進也も困ったように笑む。
「そう難しく考えねーでいーよ。仮にもお前だって2年は人間の中で暮らしてきたろ。ノリが悪いなって言われたら、今日調子悪いんだって言えばいいから。授業受けるだけなんだから、誰かとそんなに話したりはしねーから」
また面倒臭い事を要求してきたなと、正之助はぽりぽり頬を掻く。
進也は正之助の背を押して扉へと向かわせ、ぽんと背中を叩いた。
「授業に遅れる。ほらほら、行った行った」
「・・・・・はぁ~い」
気乗りしない返事で、正之助は応える。
狐なんかに正体がバレてしまったせいで、ゆっくり昼寝も出来ないのかと、扉へ向かう正之助の足取りは重い。
「戻ってきたら、職員室でちょろまかしてきたお菓子分けてやるから」
「ホント?!」
パッと振り返った正之助は、晴れやかな顔を見せた。進也は腕を組んで、コクリと頷いた。途端、正之助は軽やかな足取りで、歩き出す。
「じゃ、また後でな~」
そう言って手を振って、陽気に部屋を出て行った。上機嫌に歩いていく、その後姿を見送った後、クスッと進也は密かに笑った。
「・・・単純な狸だな」
見えなくなってから、辺りの様子を伺って、進也は戸口にしっかりと鍵をかけると、テーブルの前に座り直す。そこで、向かいのソファに精液が飛び散ってるのを見て、顔を引きつらせる。急いで白濁とした液をティッシュで拭うと、虚しさが込み上げてきた。自分は狸相手に何をやっているのだろうと、落ち込んだりもする。けれども、自分の計画を遂行させるには、あの狸はうってつけの存在だった。
ここは妥協して、オナニーも知らなかったあの狸には、しっかり性教育せねばと、心に決める進也なのだった。
2-2
進也の姿になって、正之助は教室に入る。スタスタと自分の机に座った所で、女生徒に声をかけられた。
「進ちゃん。そこ、多抜くんの席だよ」
「あぁ、そうだった。寝ぼけてた」
正之助が笑ってとぼけてから、教室を見回す。何処が進也の席か、聞くのを忘れていた。きょろきょろしている正之助に気づき、その女生徒は一番前の席を指差した。
「進ちゃんの席、あそこでしょ」
「そうそう」
調子よく頷いて、正之助は進也の席に座る。その女生徒はおかしそうに笑って、正之助の顔を覗き込む。
「どうしちゃったの、進ちゃん。変だよ」
「うん。調子悪いのかも」
基本、何を言われても否定はしない。適当に受け流す術を正之助は身につけていた。
正之助の言葉を聞き、後ろに座っていた男子生徒が背中をつついてきた。
「お前でも調子悪い時ってあんのな。いっつも澄ました面して、何でもやっちゃう癖に」
軽口を叩く男子生徒に、正之助はあいまいに笑って見せる。男子生徒は気にした風でもなく、そのまま、またべらべら喋り始める。
「この前だって、一緒にいたってのに、先生に注意されたのは俺だけでさ。世の中、不公平だよな。ちょっとはこっちに運を寄越せ」
話がずれてきていると思いながら、正之助は彼の話を黙って聞いていた。漫談と言うのだろうか。この男子生徒の口はよく動く。にこにこ笑っていると、ろくに返事を返さない正之助にじれて、彼は唸った。
「進也、ちゃんと聞いてるか?」
「聞いてる聞いてる」
この軽い返しに、傍に立っていた女生徒がプッと噴き出す。笑われて、男子生徒がそれを咎めた。
「笑うなよ、純。マジで俺相手にされなすぎて可哀想になるだろ」
「だって、進ちゃん・・・ぜんぜん茂ちゃんの話聞いてないんだもん」
そのやり取りを聞き、正之助はようやく二人が誰なのか分かった。二人とも、去年もクラスが一緒だった羽戸純と根津茂樹だ。人間の美的感覚からすれば、純は美人に類するらしく、よく男子生徒の話題に上っていた。茂樹も何かと騒いでよく目立っていた生徒だったように思う。進也とは去年まで違うクラスだった筈だから、何処で彼らと繋がっていたのか、共通点が不明だ。
「進也が俺に冷たいのは、昔からだよ」
なぁと同意を求められ、正之助は肩をすくめた。彼らの関係がいまいち掴めない。馴れ馴れしい態度から親友なのだろうと予測がつくが、茂樹の喋り方には棘があるように聞こえる。それは自分がまだ人間の中に混じりきれていないからだろうか。
本鈴が鳴った。
一同席に着き、英語教諭が教室に入ってくる。その教師の姿を認めると、正之助はあっと声を上げそうになった。5時間目の英語を受け持っていたのは、昨日の用具室の教師で、進也が誘惑しろと指名した男だ。確か、無地名英介と言う名だ。驚いて凝視していたせいで、目が合い、英介はにこりと正之助向けて笑んでみせた。無邪気な笑顔だが、何処か違和感を感じる。どう不審なのか、正之助は分からなかった。とりあえず、笑い返す。すると、英介は少し意外そうな顔を見せた後、周りを見回した。
「多抜はまたサボりか」
その一言に正之助はどきりとさせられる。自分がいない時に自分の話題が出るとは、想定していない。
「あいつ、5時間目はよく休むな・・・。お前ら、昼休みに多抜を見かけたら、5時間目もあるって教えとけよ。5時間目の存在を、知らないらしい」
冗談混じりの言い方に、クラスの皆が顔を見合わせて笑っている。正之助もつられて笑っていたが、自分の事を言われているのだと気づくと、少々気恥ずかしくて頭を掻いた。春からの新しいクラスなのに、もうサボリ魔のイメージを持たれてしまったではないか。
まぁ、いいか。その通りだし。
英介の授業はクラスメイトの大半が真面目に授業を受けていて、寝ている生徒は見受けられなかった。いや、自分がこの教室にいたら寝ている確率は高いだろう。
英介は舌が回り、べらべらよく喋る。ただおしゃべりなのではなく、説明がうまかった。
この街で暮らす人間の言葉を覚えるのにも苦労した正之助だから、英語なんて遠い国の言葉には一切の興味が持てず、テストでも一番成績が悪くて学ぶ意思の更々無い科目だったが、英介の話を聞いていると、面白いフレーズや言い回しを教えてくれるので、それが楽しくなってきた。
進也の教科書は、びっしり予習した内容が書き込まれており、当てられてもうろたえる事はなかった。正之助の時は教師の質問の意味が分からず、「すみませんわかりません」としか答えられなかったのに、進也の教科書さえ見れば、答えは瞭然だ。
授業を受けていて、進也が英介を嫌う理由を探ろうとしていたが、思いのほか授業が楽しかったので、その目的も忘れてしまっていた。時折、彼が自分の表情を伺っているのが気になったが、進也に変化しているのをすっかり忘れていた正之助は深くは考えなかったのだった。
深読みする、洞察力のある狸だったのなら話はまた違った風に展開したのかもしれない。そもそも、狐にバレて脅される羽目には陥ってないだろう。
無事に授業が終わった後、すぐさま生徒会室に向かおうとした正之助を、純が呼び止めた。
「進ちゃん。今日、当番当たってないなら付き合ってよ」
「え」
咄嗟にどう返事をすればいいか迷ったら、横から茂樹が口を出してきた。
「純。裏庭なら俺がついてってやるよ。進也は生徒会だろ」
「茂ちゃんは掃除当番でしょ。サボるのはダメ。ね?」
純が進也を見て同意を求めるので、思わず頷いてしまう。
成り行き上、仕方なかった。そう言ったら狐も納得するだろうと、正之助は楽観的に考えていた。
学校の奥にある小さな庭は通称『裏庭』と呼ばれていて、基本あまり人は立ち寄らない。池と二宮金次郎像があるせいで、学校七不思議の一つに無理やりこじつけられているせいもある。そこに、ぽつんと小屋が建っていた。それを見て、正之助は顔を引きつらせた。
「この臭いは・・・・!」
「そうだね、ちょっと臭うね。小屋、やっぱり毎日掃除してあげなきゃ兎さん達も可哀想だね」
純はそう言って、小屋の横に置かれてあった餌と掃除道具を持って、中に入っていく。正之助は体を強張らせ、首を横に振った。
「どうしたの?怖い顔して」
「う・・・・兎は苦手なんだ・・・・・」
「そうだったっけ?臭いがダメとか?」
「兎は・・・背中に火をつけたり、嘘つくから・・・・」
「なにそれ。昔ばなしみたい」
クスクス純は笑っていたが、正之助には笑い事ではなかった。小さな頃から祖父や父から諄々と言い聞かされてきたのだから、その恐怖は体に染みついている。
金網越しにじっとこちらを見つめてくるつぶらな瞳に、足が震えてきそうだった。
「こんなに可愛いのに」
純が一匹抱き上げて、頬摺りをする。正之助は見ているだけで、肝を冷やす思いだ。
「私、この子達をギュッとしてると安心できるんだ。赤ちゃん抱いてるみたいで」
人間の赤ん坊はそんなに毛がふさふさしてないだろうと、正之助は思う。人間の、特に雌は、赤ん坊や犬猫兎などの力の弱い小動物をやたら触りたがるが、狸の正之助は他の動物に触れるのはどちらかと言うと苦手な方だった。山で暮らしてた頃も、それぞれの縄張りの中で生きていたから、交流はなかった。
正之助は兎の目線に耐えられず、水汲みや小屋の外の掃除を引き受けて、池の鯉にも餌をやる。そうしていると掃除を終わらせた純が傍にやってきた。
「いつ見ても見事な鯉だよねぇ」
「うん。うまそう」
「え?」
「間違った。フフフ」
人間は鯉は食べないんだったっけと考えながら、正之助は笑って誤魔化した。実際は鯉こくなど、鯉料理はあるものの、観賞用の鯉を見て述べる感想ではない。
「お腹減ってるんだったら、これあげる」
鞄から出てきたのは小さな紙袋だった。受け取り、中身を取り出すと、大きなおにぎりの形をしたクッキーが出てきた。
「お菓子だ!」
正之助の目が大きく開かれ、キラキラ輝く。そのままガブリとかぶりつけば、香ばしいゴマの風味が口の中に広がる。柔らかなソフトクッキーで、おにぎりの海苔の部分はチョコレート味だった。
数枚入っていたクッキーを全て平らげたのを見て、純が嬉しそうな声を出した。
「甘いの嫌いじゃなかったっけ」
「だって、これ美味しいんだもん」
正直な感想を述べると、純の頬が僅かに赤くなる。
もじもじした様子で、純は少し躊躇った後、正之助に問うた。
「・・・ちょっと相談に乗ってもらっていいかな?」
「ん?うん。いいよ」
大事な話だと雰囲気で察せられたのまでは良かったが、正之助は自分が進也である事を失念していた。
純は鞄から一冊の冊子を取り出した。表紙には製菓学院の入学案内と記されている。
「製菓・・・・・製菓って・・・」
何?と続く前に、純が先に喋りだした。
「驚いたでしょう?周りも皆、私がT大に進学すると思ってる。私もそのつもりでずっと勉強してきたけど・・・やっぱりお菓子職人の道に進みたいの」
喋りながらどんどん声のトーンが低くなっているのに気づかず、呑気に正之助は笑って言った。
「あぁ!お菓子職人ね!いいと思うよ。こんなに上手だしね」
「えっ?!」
瞠目してこちらを凝視する純に対し、正之助は笑顔を向けた。T大が有名な大学なのは正之助も分かっている。クラスメイトの大半が、名のある大学を目指しているのも知っている。それが将来に繋がるのだと理解していて、だからと言ってそんなものが今の自分の欲求の妨げになる根拠にはならないと思う。
純が目指す道を素直に応援したかった。
「本当に・・・そう思う?」
「うん。美味しいもの食べると、幸せになれるから」
それは正之助の持論だった。
人間になってから、随分と色んなものを食べてこれたように思う。敷かれたルールが多すぎて、元来怠け者の正之助には人間の生き方は骨が折れる。そんな中で、食事に関してだけは唯一尊敬出来るものだった。人間の美食への拘りには頭が下がる。
正之助は当たり前の事を話したつもりだった。それが純の心の重荷を幾分軽くさせてくれ、彼女はハッと驚いた顔を見せた後、口をいっぱいに引き伸ばし、満面の笑みを見せた。
「ありがとう。進ちゃん」
にこりと笑い返した正之助は、そこで自分が進也に変化している事をはたっと思い出した。また忘れてしまっていた。集中力がとことん続かない。自分の迂闊さを罵りつつ、頭の端からは既に進也には後で説明すればそれでいいと楽観的な考えが浮かんで、徐々に正之助の頭の中を埋めていき、結局正之助はまぁいいかと開き直った。難しい事はあの狐に任せればいい。そもそも彼の提案した事だ。不測の事態に備えているだろう。
ぱくりとクッキーをもう一つ頬張り、正之助は「うまい」と唸った。
純とは話が合った。正之助が言葉を間違っていたらすぐに純は訂正して丁寧に説明してくれるし、返事を急いたりしない。のんびりした性格が正之助と共通していて、二人はしばらくそこで座って空を見上げていた。
鯉が水をはねる音。青い空にはふわりと浮かぶ雲がおいしそうに見えて、やわらかく甘い匂いを含んだ春の風が頬を撫でる。そのまま眠ってしまいそうな正之助に、純がぽつりと問うた。
「・・・・進ちゃんはどうするの?おうち、継ぐんでしょう」
正之助は桔根家の事情を何も知らない。彼についての知識は一切無い。よくそれで進也に変化したものだと我ながら思ったが、それを言うなら進也も同罪だ。
「うち?」
「あの病院。うちのお母さんも進ちゃんが継ぐと思ってるよ」
これで進也があんなに勉強している理由が正之助は分かった。人間の医者になるには、勉強とお金が必要だと、テレビで言ってた。
「どうするの?」
「さぁ?なるようになるさ」
曖昧な返事を返す。それは、突き放したような言い方だった。
純や進也には見据えている未来があると、今日はじめて思った。彼らは未来へ生きている。でも、自分はそうじゃないのだと正之助は改めて思ったのだ。今はただこうやって、深く考えもせずに人間を演じているけれども、高校を出た後はどうなるのだろう。父親みたいに蕎麦屋に勤めればいいと正之助は思っていたが、果たしてそれでいいのかと、彼らの行動を見ているとつい自分も考えてしまう。だけれども、こうやって自分の未来に疑問を持っても、ただどうしたいのか、どうするべきかは全く考え付かなかった。
純が何か言いかけた。その時、二人の後ろから声がした。
「桔根。俺、待ちくたびれちゃったんだけど。二人で何してんの?」
聞き覚えのある声で、振り返ると自分が立っていた。いや、自分は今は進也に変化しているのだから、目の前に居るのは自分ではなく、変化している進也だ。
「多抜くん」
「よぅ」
わざわざ迎えに来てくれたのかと、正之助は軽い返事をする。にこにこ笑顔の進也の真意に、正之助は全く気づいていない。進也の空気を読んだのは、純が先だった。
二人の顔を見比べてから、純は急いで立ち上がると、手をついて謝った。
「ごめん。待ち合わせしてたの?私、邪魔しちゃった」
「ううん。俺が生徒会室を借りてただけなんだ。終業の鐘が鳴ったのに戻ってこないから、鍵どうしようかなって思って探してたんだよ。な、桔根」
そう言って、進也は正之助に向き直る。
そんな約束をしていたかと正之助が思い返していれば、進也に目配せされ、ようやく意味に気づいて慌てて頷いた。
「あー、そうそう。悪い悪い」
全然悪びれた風ではない正之助に、ぴきぴきと顔面が引きつる笑顔を見せる進也なのだが、それも正之助が気づかないから進也の怒りは倍増していく。唯一、雰囲気を察せられたのは純で、鞄から小袋を取り出して進也に手渡した。
「これ、多抜くんにもあげる。さっき進ちゃんからお墨付きもらったものだから、悪くない味だと思う。それじゃあ、私は先に帰るね。相談乗ってくれて有難う、進ちゃん。お兄ちゃんにもよろしくね」
二人の顔をもう一度見比べてから、フフと笑い、純は手を振って去っていった。その後姿を正之助はにこやかに見送る。進也も正之助に並んで笑顔で純を見送ったが、彼女の姿が見えなくなるやいなや、勢いよく正之助の頭をはたいた。
「いってー!何すんの」
「そりゃこっちのセリフだよ。まっすぐ戻って来ねーわ、勝手に純の相談に乗って・・・仕事を増やすんじゃねぇ!」
「成り行きだよ。俺のせいじゃねーもん」
「本気でそう思ってんだから、お前は本当に阿呆狸だ」
進也はうんざりするようにそう呟いてから、歩き出した。ぼんやりとその後姿を眺めて突っ立っていた正之助に、振り返って進也が怒鳴った。
「ボケッとしてんじゃねぇ!さっさとついてこい!」
「あぁ、はいはい。わかったわかった」
思考力も行動も鈍い正之助に、今まで一体どうやって人間の中で生活したのかと、本気で悩む進也なのだった。
後ろについて歩きながら、ふと正之助はさっきの純の言葉を思い出した。
「お兄ちゃんによろしくって言ってたっけ。お前、兄弟いるの?俺んとこみてーに同じ学校にいる?」
進也の顔が僅かに強張り、ちらりと正之助を見やった後、ぼそりと小さな声で返事をした。
「・・・いねーよ」
「へー、もう学校出てんのか。お前、しっかりしてるからてっきり長男だと思ってた。教育の違いなんかな。狐って皆、お前みてーに性格悪いの?」
悪気が無いから、始末が悪い。進也は正之助をギロリと睨んで、唸った。
「口に出す前に、それがおかしな質問かどうかまず考えろ。今の調子で喋ってたら、その内、化けの皮が剥がれんぞ」
指摘に従い、正之助は次の問いを一度自分で考えてから、問うた。
「・・・俺、間違った事聞いた?」
「・・・・・・」
この狸はダメだ。阿呆すぎる。
もうそれ以上は何も言うまいと、進也は歩く速度を速めたのだった。
ソファに座り、前をくつろがせた進也の股間に顔を埋め、正之助は口を使って、丹念に進也の性器を愛撫する。根元を手で押さえながら先端を舐め、ちろちろと舐めて唾液をこぼしてから、一気に口の中に入れた。
途端、進也が顔を顰めて正之助の頭をはたいた。
パコン
「んへっ」
性器を口の中に入れていた正之助は、思わず声を出す。声が出たせいで、僅かに歯を立てられて、ますます進也は眉を寄せた。正之助の頭を掴んで、自分の性器から顔を離させる。
「歯が当たってんだよ、このヘタクソ!」
「んな事言ったって、お前のがデカいんだから、しょうがないだろ!歯が当たるのが嫌なら小さくしろよ」
変化が可能な進也になら、男根の小さい男になるなど朝飯前だが、それはなんだか男として好い気がしない。いや、問題はそこではないと進也は首を振る。
「デカくなきゃ意味ねーんだよ、阿呆狸!言っとくけどな、俺は好きでお前にしゃぶられてんじゃねーんだぞ!」
「俺だって好きでしゃぶってねーよ!美味しくないもん」
味の問題ではないだろうと正之助の反論に呆れつつ、進也は正之助の頭をぽんぽん叩きながら、言い聞かすように囁いた。
「お前、自分の立場を弁えろよ。正体バラされて一族路頭に迷いたくなかったら、俺の言う通りにしろ」
「うっ」
正之助は言葉を詰まらせる。校内には弟の正平もいる。進也は生徒会長で人望も厚く、PTAや教員にも顔がきくらしい。自分達が狸であると知られたら、一体どうなる事やら、想像するだけで恐ろしい。
ごくりと唾を飲んでから、正之助はじとりと進也を睨みつけた。
「・・・それはお互い様じゃねーの。俺が先にお前の正体をバラすかもしんねーぞ」
正之助の言葉をフンと鼻で笑い、進也は前を性器を露にしたまま、足を組んでふんぞり返る。
「生憎、俺はお前と違って、バラされた場合の対処法をいくつか考えてる。少しでもお前が妙な真似をした場合、百倍にして返すと明言しとく」
うっすら目を細めた進也の表情に、彼が本気だと悟る。確かに、ろくに友達も作らずに人間の片隅に混じって過ごしてきた正之助と、生徒会長まで上り詰めた進也だったら、修羅場を潜り抜けてきた場数が違うだろう。それに、進也の正体をバラした場合、おそらく自動的に自分らも正体がバレる羽目になるのは想像に容易く、自らの首を絞める真似は出来ない。
言い返せずに唸る正之助を無視し、進也は視線をそらしてぼそりと呟く。
「・・・それに、俺にはもう本物の家族はいねーしな」
進也の言葉がうまく聞き取れず、正之助は聞き返す。
「家族がなんだって?」
「なんでもね。続き、やるぞ」
言葉を濁し、進也は正之助の手を掴んで自分の下腹部に添えらせる。何かを思い出すように目を閉じてから、正之助に命令する。
「ゆっくり舐めろ。勃ってきたら、歯を立てずに口の中に入れるんだ」
言われた通り、正之助は再び進也の性器に舌を宛がい、ぺろぺろと舐め始める。真剣に舐めるその様子に、ムードも何もなく、進也の気持ちも全く盛り上がって来ないから、性器はくったりと項垂れたままだった。
全く勃ち上がってこない進也の性器に正之助も焦り始める。上から冷たい視線も感じる。自分なりに一生懸命舐めているつもりなのだから、勃起しないのは進也の変身に問題があるんじゃないかと思う。狸は一般的に春が繁殖期だと言われているが、狐は違うのかもしれない。
その疑問を口にする前に、顎が疲れてきた。それに気づいた進也が言った。
「舌が疲れてきたんなら、手を使え」
ただ添えられていただけの手を見やり、正之助は上目遣いで進也を見、首をかしげる。
「手?」
「自分のを扱くみてーに摩ってろ」
「自分のって、どれ?扱くって、どうすんの?」
「いちいち面倒くせーな、お前は!!!」
耳元で怒鳴られて、正之助は肩を竦めて耳を押さえる。怒鳴られる謂れは無い。正之助はムッとなって進也を見据える。
「お前の説明不足なのが悪いんだろ」
「だから阿呆狸だってんだよ!徹頭徹尾説明しねーとなんねーのか!俺は、オナニーみてーにやれって言ってんの!」
大声を出して言う事ではない。一体俺は何を叫んでるのだと、心のどこかで自問する進也に対し、正之助は険しい顔になった。その表情は真剣そのものだ。
頬に汗をかきつつ、正之助は問うた。
「・・・・オナニーって何?」
進也はがくりと項垂れた。
そこから説明しなければならないのか。
狸の生態は知らないが、おそらく一般的な狸は自慰行為はしないのだろう。狐だって同じものだから、発情期以外で性行為をしたいなんて思わない気持ちは良く分かる。だが、人間の男子高校生の生活をまっとうに2年間過ごしてきたと言うのなら、避けては通れない話題だった筈だ。オナニーも知らないでよくへらへらと人間に混じって暮らせたものだ、と少々偏向知識を持っている進也なのだった。
知らないのなら仕方ない。
「分かった。俺が教えてやる」
「ありがとう」
無邪気に笑う正之助に呆れつつ、進也は正之助の腰を掴んでソファに押さえつけると、ズボンのチャックを開けた。正之助はされるがままだ。僅かにズボンをずらして現れた性器に、正之助の手を掴んでそこに添えさせる。その上から自分も手を重ね、ゆっくりと上下に動かし始めた。
「・・・うっ・・・わ・・」
正之助が思わず声を出す。これまで味わった事の無い、感覚だった。ぞわぞわと体の奥から熱さが込み上げ、むず痒さに体をくねらせる。正之助の手を握り締めた進也の手が、優しく揺れる度に、言い知れぬ感情が湧き上がってくる。
「ぅっ・・・あ・・・・・・」
徐々に早くなってくる手の摩擦に、それに合わせて自分の中の何か熱いものも、どんどんどんどん、破裂しそうに膨れ上がってくる。このまま破裂してしまったら、人間の姿を留まってられるか、自信が無い。
体に力が入らず、正之助は助けを求めて片方の手で進也の肩を掴んだ。
「・・・・・」
進也はその手をちらりと見ただけで、振り払いはしなかった。
顔を近づかせ、正之助の顔を覗き込む。頬を真っ赤にして、歯を食いしばっている正之助の表情は、さっきまでのノラクラとした間抜け面とは違って、何処か幼く見えた。
射精が近いのか、正之助の息が荒くなり、進也の肩を掴む手に力がこもる。その手が進也を押しのけようと前に動いた。
「も・・・・・・・・ダメ・・だ・・・。離して・・・くれ」
「イカせてやるから、大人しくしてろ」
「イカす・・て・・・・なに・・?俺、カッコ・・イイ?」
この期に及んでボケる正之助にムードを殺がれたが、進也は構わず手を動かし続けた。
「阿呆狸・・・イクって言葉を覚えろよ。出そうになったら、言うんだ。分かったな?」
「出るって・・・な・・にが・・?」
説明するのはまどろっこしい。進也は正之助の性器を強く掴んで、激しく擦り出す。さっきまでじわじわと蒸されるような熱さを感じていたのに、突然発火した如く、体が芯から熱を持つ。いや、芯ではない、性器だ。見れば、自分の性器とは思えないぐらい大きく膨れ上がってそそり立っている。思わず正之助は進也を見上げ、心細げに眉を寄せる。
「・・・・・やめ・・ろ・・・!俺の体・・おかしい!・・・・!!!」
しがみ付いてくる正之助の鼻をぺろりと進也は舐めた。
「・・・お前だけじゃねーよ」
そう呟いて、進也は正之助を上からがっちり押さえ込むと、パクパク開閉を繰り返している正之助の唇に噛み付いた。縮こまっている舌を舌で引き出して絡ませ、何度も口の中を愛撫する。正之助はギュッと目を閉じた。
唇を開放し、進也は正之助の耳を甘く噛むと、息を吹きかけるように囁いた。
「・・・出そうになったら、イクって言え」
吹き込まれた息に更に体に痺れが走った正之助は、進也の言葉の意味も分からず必死に頷くと、進也の胸に顔を押し当てた。乱れた息の出るままに、正之助は声を出した。
「・・・イ・・・・・ク!!」
射精したと分かると、進也は動かせていた手を止めた。重なっている正之助の手がプルプル震えている。きつく閉じた目はまだ開かれず、僅かに怯えた表情の正之助を見下ろしていると、微々ながら罪悪感が湧いてくる。固まったまま動かない正之助を、進也は肩を揺すって起きさせる。
揺さぶられ、ゆっくり目を開けた正之助は、目の前で複雑な顔をしている進也に気づくと、ほっと息を吐いた。そして、自分の手のひらが濡れた事に、少し遅れて気づいた。
「・・・なんだ、これ」
「オナニーしたらこういうのが出るんだよ。普通の男子高校生ならよくやってる事だから」
そう言って正之助の上からどくと、テーブルに乗っていたティッシュ箱を正之助に放り投げた。濡れてねばねばしている手を不愉快そうに眺め、くんくん匂いを嗅いで、正之助は顔を顰めた。
「小便?」
「違う、精子」
進也の言葉に、正之助はカッと目を見開いた。上に乗っかっていた進也を蹴っ飛ばし、怒鳴る。
「この馬鹿狐!!!俺の貴重な子種を・・・・!!!!」
繁殖できなくなったらどうしてくれるんだとわめく正之助に、進也は頭を押さえ、この狸は何処から何処まで人間の知識があるのかと、深々とため息を吐いたのだった。
進也の態度に、正之助は腕を組んで仏頂面になる。
「そもそも、なんでこんな事しなきゃなんねーの」
「だから・・・・最初に言ったろ」
「最初?」
それは用具室での話。男子生徒と絡んでいた男性教員を誑かせと、進也は言った。あの男性教員には見覚えがあるものの、名前は記憶に無い。
「誑かすっつったけどさ、どうすりゃいいんだよ。お前の言葉は説明が足りなすぎる。言う事を聞かせたいんなら、1からナンチャラまで説明しろよ」
「一から十な」
正之助が鈍感で、頭が弱い上、人間の知識も歯抜けだと分かった今、進也は愚痴も言わず、ただ正之助の顎を掴んで顔を上げさせ、鼻先を触れ合わせると、声を低めて言った。
「俺はこれでも親切なつもりだぞ。ろくに性教育も受けてねぇお前に、こうやって狐直伝のお色気の術を教えてやろうってんだからな」
これは果たして親切なのだろうかと、正之助は股間を押さえながら思う。
「俺の教育が終わった後は、あの教師をその術で落とすんだ。時と場所は指定する」
そう言って笑ってみせた進也の目は鋭く光っていて、狡猾な狐そのものだった。
あの教師を自分が誘惑して、進也にどんなメリットがあるのか問おうとすれば、そこでチャイムが鳴った。
もう昼休みも終わりだ。ここは生徒会室。いつの時代の生徒会長が、どういう風に教師を買収したのか分からないが、生徒会室は生徒会長の権限で好きに使っていい部屋だった。
いつもは昼休みは寝てばかりいたので、今から授業だと思うと、正之助は大きく欠伸をした。
「眠い」
「授業には出ろよ。俺の代わりに」
「えー・・・・」
授業をサボる気でいた正之助は、不満そうに唇を尖らせる。
「お前はサボる癖に俺には出ろって?」
「俺がいねーと変に思われるけど、お前がサボってても誰も変だと思わねーからな」
そう言って、進也は鞄から勉強道具を取り出すと、テーブルの前に広げた。受験対策の為の小難しそうな参考書だ。正之助は興味を覚え、参考書を手に取った。
「授業をサボって勉強をする?わけがわかんない」
「お前にゃ分からないだろうさ」
参考書を正之助から奪い取ると、進也はテーブルの上に置いてあった正之助の葉っぱを取って、正之助の頭に乗せた。青々とした葉はバランスよく、正之助の頭の上に収まっている。
気乗りしないのか、変身せず、正之助は進也をじとりと睨む。進也はにやりと笑って、言った。
「お前の変化の腕を、俺に見せてみろよ」
「そう言う言葉に乗せられねーからな」
「阿呆狸の癖に・・・・文句言わずに大人しく乗せられとけ」
進也はそう言うと、自分も頭に葉っぱを乗せて、ドロンと正之助に変化してみせた。目の前で披露された進也の変化の術は完璧だった。自分そっくりの人間を、まじまじと観察する。
「・・・・うまいもんだな」
「当然」
「そんなに完璧に変身出来るんなら、お前があの教師を誘惑すればいいだろ」
正之助がそう言った途端、進也はギロリと鋭い瞳で正之助を睨みつけた。自分と全く同じ顔なのに、妙に迫力があって、正之助は一歩後ろに下がる。
「・・・・二度と言うな」
「は、はい」
この狐を怒らせると厄介だと、ひやひやしながら、正之助は頭を上下に振った。何が逆鱗に触れるか分からない。
進也は時計に目をやり、顎をしゃくって指示する。
さっさと変化して、とっとと教室に行け、と言う意味だと、さすがの正之助も分かる。
頭に葉っぱを乗せると、ドロンと進也に変化してみせた。
「なんか変な感じだな。変化した人間に化けるのは」
自分の姿を眺め回していると、進也も同じく正之助を凝視する。その姿形が自分と酷似していると、納得してようやく首を縦に振った。
「さっさと慣れろよ」
「なんでさ」
「お前は黙って俺の言う事を聞いときゃいーんだよ」
暴言ではあったが、正之助は反論しなかった。反論した所で立場が不利な事には変わらず、結局言う通りに動く羽目になるのなら、余計な口論は無用だ。暢気者の正之助は平和主義で、諦めが早い。
「まぁ、いいけどさ。それで?後は?」
素直に頷く正之助に苦笑しつつ、進也は腕を組んで言った。
「授業が終わったら、放課後またここに来いよ。クラスメイトの話には適当に応えとけ」
「適当って・・・・」
それが一番難しい。
困った風に眉を下げた正之助に、進也も困ったように笑む。
「そう難しく考えねーでいーよ。仮にもお前だって2年は人間の中で暮らしてきたろ。ノリが悪いなって言われたら、今日調子悪いんだって言えばいいから。授業受けるだけなんだから、誰かとそんなに話したりはしねーから」
また面倒臭い事を要求してきたなと、正之助はぽりぽり頬を掻く。
進也は正之助の背を押して扉へと向かわせ、ぽんと背中を叩いた。
「授業に遅れる。ほらほら、行った行った」
「・・・・・はぁ~い」
気乗りしない返事で、正之助は応える。
狐なんかに正体がバレてしまったせいで、ゆっくり昼寝も出来ないのかと、扉へ向かう正之助の足取りは重い。
「戻ってきたら、職員室でちょろまかしてきたお菓子分けてやるから」
「ホント?!」
パッと振り返った正之助は、晴れやかな顔を見せた。進也は腕を組んで、コクリと頷いた。途端、正之助は軽やかな足取りで、歩き出す。
「じゃ、また後でな~」
そう言って手を振って、陽気に部屋を出て行った。上機嫌に歩いていく、その後姿を見送った後、クスッと進也は密かに笑った。
「・・・単純な狸だな」
見えなくなってから、辺りの様子を伺って、進也は戸口にしっかりと鍵をかけると、テーブルの前に座り直す。そこで、向かいのソファに精液が飛び散ってるのを見て、顔を引きつらせる。急いで白濁とした液をティッシュで拭うと、虚しさが込み上げてきた。自分は狸相手に何をやっているのだろうと、落ち込んだりもする。けれども、自分の計画を遂行させるには、あの狸はうってつけの存在だった。
ここは妥協して、オナニーも知らなかったあの狸には、しっかり性教育せねばと、心に決める進也なのだった。
2-2
進也の姿になって、正之助は教室に入る。スタスタと自分の机に座った所で、女生徒に声をかけられた。
「進ちゃん。そこ、多抜くんの席だよ」
「あぁ、そうだった。寝ぼけてた」
正之助が笑ってとぼけてから、教室を見回す。何処が進也の席か、聞くのを忘れていた。きょろきょろしている正之助に気づき、その女生徒は一番前の席を指差した。
「進ちゃんの席、あそこでしょ」
「そうそう」
調子よく頷いて、正之助は進也の席に座る。その女生徒はおかしそうに笑って、正之助の顔を覗き込む。
「どうしちゃったの、進ちゃん。変だよ」
「うん。調子悪いのかも」
基本、何を言われても否定はしない。適当に受け流す術を正之助は身につけていた。
正之助の言葉を聞き、後ろに座っていた男子生徒が背中をつついてきた。
「お前でも調子悪い時ってあんのな。いっつも澄ました面して、何でもやっちゃう癖に」
軽口を叩く男子生徒に、正之助はあいまいに笑って見せる。男子生徒は気にした風でもなく、そのまま、またべらべら喋り始める。
「この前だって、一緒にいたってのに、先生に注意されたのは俺だけでさ。世の中、不公平だよな。ちょっとはこっちに運を寄越せ」
話がずれてきていると思いながら、正之助は彼の話を黙って聞いていた。漫談と言うのだろうか。この男子生徒の口はよく動く。にこにこ笑っていると、ろくに返事を返さない正之助にじれて、彼は唸った。
「進也、ちゃんと聞いてるか?」
「聞いてる聞いてる」
この軽い返しに、傍に立っていた女生徒がプッと噴き出す。笑われて、男子生徒がそれを咎めた。
「笑うなよ、純。マジで俺相手にされなすぎて可哀想になるだろ」
「だって、進ちゃん・・・ぜんぜん茂ちゃんの話聞いてないんだもん」
そのやり取りを聞き、正之助はようやく二人が誰なのか分かった。二人とも、去年もクラスが一緒だった羽戸純と根津茂樹だ。人間の美的感覚からすれば、純は美人に類するらしく、よく男子生徒の話題に上っていた。茂樹も何かと騒いでよく目立っていた生徒だったように思う。進也とは去年まで違うクラスだった筈だから、何処で彼らと繋がっていたのか、共通点が不明だ。
「進也が俺に冷たいのは、昔からだよ」
なぁと同意を求められ、正之助は肩をすくめた。彼らの関係がいまいち掴めない。馴れ馴れしい態度から親友なのだろうと予測がつくが、茂樹の喋り方には棘があるように聞こえる。それは自分がまだ人間の中に混じりきれていないからだろうか。
本鈴が鳴った。
一同席に着き、英語教諭が教室に入ってくる。その教師の姿を認めると、正之助はあっと声を上げそうになった。5時間目の英語を受け持っていたのは、昨日の用具室の教師で、進也が誘惑しろと指名した男だ。確か、無地名英介と言う名だ。驚いて凝視していたせいで、目が合い、英介はにこりと正之助向けて笑んでみせた。無邪気な笑顔だが、何処か違和感を感じる。どう不審なのか、正之助は分からなかった。とりあえず、笑い返す。すると、英介は少し意外そうな顔を見せた後、周りを見回した。
「多抜はまたサボりか」
その一言に正之助はどきりとさせられる。自分がいない時に自分の話題が出るとは、想定していない。
「あいつ、5時間目はよく休むな・・・。お前ら、昼休みに多抜を見かけたら、5時間目もあるって教えとけよ。5時間目の存在を、知らないらしい」
冗談混じりの言い方に、クラスの皆が顔を見合わせて笑っている。正之助もつられて笑っていたが、自分の事を言われているのだと気づくと、少々気恥ずかしくて頭を掻いた。春からの新しいクラスなのに、もうサボリ魔のイメージを持たれてしまったではないか。
まぁ、いいか。その通りだし。
英介の授業はクラスメイトの大半が真面目に授業を受けていて、寝ている生徒は見受けられなかった。いや、自分がこの教室にいたら寝ている確率は高いだろう。
英介は舌が回り、べらべらよく喋る。ただおしゃべりなのではなく、説明がうまかった。
この街で暮らす人間の言葉を覚えるのにも苦労した正之助だから、英語なんて遠い国の言葉には一切の興味が持てず、テストでも一番成績が悪くて学ぶ意思の更々無い科目だったが、英介の話を聞いていると、面白いフレーズや言い回しを教えてくれるので、それが楽しくなってきた。
進也の教科書は、びっしり予習した内容が書き込まれており、当てられてもうろたえる事はなかった。正之助の時は教師の質問の意味が分からず、「すみませんわかりません」としか答えられなかったのに、進也の教科書さえ見れば、答えは瞭然だ。
授業を受けていて、進也が英介を嫌う理由を探ろうとしていたが、思いのほか授業が楽しかったので、その目的も忘れてしまっていた。時折、彼が自分の表情を伺っているのが気になったが、進也に変化しているのをすっかり忘れていた正之助は深くは考えなかったのだった。
深読みする、洞察力のある狸だったのなら話はまた違った風に展開したのかもしれない。そもそも、狐にバレて脅される羽目には陥ってないだろう。
無事に授業が終わった後、すぐさま生徒会室に向かおうとした正之助を、純が呼び止めた。
「進ちゃん。今日、当番当たってないなら付き合ってよ」
「え」
咄嗟にどう返事をすればいいか迷ったら、横から茂樹が口を出してきた。
「純。裏庭なら俺がついてってやるよ。進也は生徒会だろ」
「茂ちゃんは掃除当番でしょ。サボるのはダメ。ね?」
純が進也を見て同意を求めるので、思わず頷いてしまう。
成り行き上、仕方なかった。そう言ったら狐も納得するだろうと、正之助は楽観的に考えていた。
学校の奥にある小さな庭は通称『裏庭』と呼ばれていて、基本あまり人は立ち寄らない。池と二宮金次郎像があるせいで、学校七不思議の一つに無理やりこじつけられているせいもある。そこに、ぽつんと小屋が建っていた。それを見て、正之助は顔を引きつらせた。
「この臭いは・・・・!」
「そうだね、ちょっと臭うね。小屋、やっぱり毎日掃除してあげなきゃ兎さん達も可哀想だね」
純はそう言って、小屋の横に置かれてあった餌と掃除道具を持って、中に入っていく。正之助は体を強張らせ、首を横に振った。
「どうしたの?怖い顔して」
「う・・・・兎は苦手なんだ・・・・・」
「そうだったっけ?臭いがダメとか?」
「兎は・・・背中に火をつけたり、嘘つくから・・・・」
「なにそれ。昔ばなしみたい」
クスクス純は笑っていたが、正之助には笑い事ではなかった。小さな頃から祖父や父から諄々と言い聞かされてきたのだから、その恐怖は体に染みついている。
金網越しにじっとこちらを見つめてくるつぶらな瞳に、足が震えてきそうだった。
「こんなに可愛いのに」
純が一匹抱き上げて、頬摺りをする。正之助は見ているだけで、肝を冷やす思いだ。
「私、この子達をギュッとしてると安心できるんだ。赤ちゃん抱いてるみたいで」
人間の赤ん坊はそんなに毛がふさふさしてないだろうと、正之助は思う。人間の、特に雌は、赤ん坊や犬猫兎などの力の弱い小動物をやたら触りたがるが、狸の正之助は他の動物に触れるのはどちらかと言うと苦手な方だった。山で暮らしてた頃も、それぞれの縄張りの中で生きていたから、交流はなかった。
正之助は兎の目線に耐えられず、水汲みや小屋の外の掃除を引き受けて、池の鯉にも餌をやる。そうしていると掃除を終わらせた純が傍にやってきた。
「いつ見ても見事な鯉だよねぇ」
「うん。うまそう」
「え?」
「間違った。フフフ」
人間は鯉は食べないんだったっけと考えながら、正之助は笑って誤魔化した。実際は鯉こくなど、鯉料理はあるものの、観賞用の鯉を見て述べる感想ではない。
「お腹減ってるんだったら、これあげる」
鞄から出てきたのは小さな紙袋だった。受け取り、中身を取り出すと、大きなおにぎりの形をしたクッキーが出てきた。
「お菓子だ!」
正之助の目が大きく開かれ、キラキラ輝く。そのままガブリとかぶりつけば、香ばしいゴマの風味が口の中に広がる。柔らかなソフトクッキーで、おにぎりの海苔の部分はチョコレート味だった。
数枚入っていたクッキーを全て平らげたのを見て、純が嬉しそうな声を出した。
「甘いの嫌いじゃなかったっけ」
「だって、これ美味しいんだもん」
正直な感想を述べると、純の頬が僅かに赤くなる。
もじもじした様子で、純は少し躊躇った後、正之助に問うた。
「・・・ちょっと相談に乗ってもらっていいかな?」
「ん?うん。いいよ」
大事な話だと雰囲気で察せられたのまでは良かったが、正之助は自分が進也である事を失念していた。
純は鞄から一冊の冊子を取り出した。表紙には製菓学院の入学案内と記されている。
「製菓・・・・・製菓って・・・」
何?と続く前に、純が先に喋りだした。
「驚いたでしょう?周りも皆、私がT大に進学すると思ってる。私もそのつもりでずっと勉強してきたけど・・・やっぱりお菓子職人の道に進みたいの」
喋りながらどんどん声のトーンが低くなっているのに気づかず、呑気に正之助は笑って言った。
「あぁ!お菓子職人ね!いいと思うよ。こんなに上手だしね」
「えっ?!」
瞠目してこちらを凝視する純に対し、正之助は笑顔を向けた。T大が有名な大学なのは正之助も分かっている。クラスメイトの大半が、名のある大学を目指しているのも知っている。それが将来に繋がるのだと理解していて、だからと言ってそんなものが今の自分の欲求の妨げになる根拠にはならないと思う。
純が目指す道を素直に応援したかった。
「本当に・・・そう思う?」
「うん。美味しいもの食べると、幸せになれるから」
それは正之助の持論だった。
人間になってから、随分と色んなものを食べてこれたように思う。敷かれたルールが多すぎて、元来怠け者の正之助には人間の生き方は骨が折れる。そんな中で、食事に関してだけは唯一尊敬出来るものだった。人間の美食への拘りには頭が下がる。
正之助は当たり前の事を話したつもりだった。それが純の心の重荷を幾分軽くさせてくれ、彼女はハッと驚いた顔を見せた後、口をいっぱいに引き伸ばし、満面の笑みを見せた。
「ありがとう。進ちゃん」
にこりと笑い返した正之助は、そこで自分が進也に変化している事をはたっと思い出した。また忘れてしまっていた。集中力がとことん続かない。自分の迂闊さを罵りつつ、頭の端からは既に進也には後で説明すればそれでいいと楽観的な考えが浮かんで、徐々に正之助の頭の中を埋めていき、結局正之助はまぁいいかと開き直った。難しい事はあの狐に任せればいい。そもそも彼の提案した事だ。不測の事態に備えているだろう。
ぱくりとクッキーをもう一つ頬張り、正之助は「うまい」と唸った。
純とは話が合った。正之助が言葉を間違っていたらすぐに純は訂正して丁寧に説明してくれるし、返事を急いたりしない。のんびりした性格が正之助と共通していて、二人はしばらくそこで座って空を見上げていた。
鯉が水をはねる音。青い空にはふわりと浮かぶ雲がおいしそうに見えて、やわらかく甘い匂いを含んだ春の風が頬を撫でる。そのまま眠ってしまいそうな正之助に、純がぽつりと問うた。
「・・・・進ちゃんはどうするの?おうち、継ぐんでしょう」
正之助は桔根家の事情を何も知らない。彼についての知識は一切無い。よくそれで進也に変化したものだと我ながら思ったが、それを言うなら進也も同罪だ。
「うち?」
「あの病院。うちのお母さんも進ちゃんが継ぐと思ってるよ」
これで進也があんなに勉強している理由が正之助は分かった。人間の医者になるには、勉強とお金が必要だと、テレビで言ってた。
「どうするの?」
「さぁ?なるようになるさ」
曖昧な返事を返す。それは、突き放したような言い方だった。
純や進也には見据えている未来があると、今日はじめて思った。彼らは未来へ生きている。でも、自分はそうじゃないのだと正之助は改めて思ったのだ。今はただこうやって、深く考えもせずに人間を演じているけれども、高校を出た後はどうなるのだろう。父親みたいに蕎麦屋に勤めればいいと正之助は思っていたが、果たしてそれでいいのかと、彼らの行動を見ているとつい自分も考えてしまう。だけれども、こうやって自分の未来に疑問を持っても、ただどうしたいのか、どうするべきかは全く考え付かなかった。
純が何か言いかけた。その時、二人の後ろから声がした。
「桔根。俺、待ちくたびれちゃったんだけど。二人で何してんの?」
聞き覚えのある声で、振り返ると自分が立っていた。いや、自分は今は進也に変化しているのだから、目の前に居るのは自分ではなく、変化している進也だ。
「多抜くん」
「よぅ」
わざわざ迎えに来てくれたのかと、正之助は軽い返事をする。にこにこ笑顔の進也の真意に、正之助は全く気づいていない。進也の空気を読んだのは、純が先だった。
二人の顔を見比べてから、純は急いで立ち上がると、手をついて謝った。
「ごめん。待ち合わせしてたの?私、邪魔しちゃった」
「ううん。俺が生徒会室を借りてただけなんだ。終業の鐘が鳴ったのに戻ってこないから、鍵どうしようかなって思って探してたんだよ。な、桔根」
そう言って、進也は正之助に向き直る。
そんな約束をしていたかと正之助が思い返していれば、進也に目配せされ、ようやく意味に気づいて慌てて頷いた。
「あー、そうそう。悪い悪い」
全然悪びれた風ではない正之助に、ぴきぴきと顔面が引きつる笑顔を見せる進也なのだが、それも正之助が気づかないから進也の怒りは倍増していく。唯一、雰囲気を察せられたのは純で、鞄から小袋を取り出して進也に手渡した。
「これ、多抜くんにもあげる。さっき進ちゃんからお墨付きもらったものだから、悪くない味だと思う。それじゃあ、私は先に帰るね。相談乗ってくれて有難う、進ちゃん。お兄ちゃんにもよろしくね」
二人の顔をもう一度見比べてから、フフと笑い、純は手を振って去っていった。その後姿を正之助はにこやかに見送る。進也も正之助に並んで笑顔で純を見送ったが、彼女の姿が見えなくなるやいなや、勢いよく正之助の頭をはたいた。
「いってー!何すんの」
「そりゃこっちのセリフだよ。まっすぐ戻って来ねーわ、勝手に純の相談に乗って・・・仕事を増やすんじゃねぇ!」
「成り行きだよ。俺のせいじゃねーもん」
「本気でそう思ってんだから、お前は本当に阿呆狸だ」
進也はうんざりするようにそう呟いてから、歩き出した。ぼんやりとその後姿を眺めて突っ立っていた正之助に、振り返って進也が怒鳴った。
「ボケッとしてんじゃねぇ!さっさとついてこい!」
「あぁ、はいはい。わかったわかった」
思考力も行動も鈍い正之助に、今まで一体どうやって人間の中で生活したのかと、本気で悩む進也なのだった。
後ろについて歩きながら、ふと正之助はさっきの純の言葉を思い出した。
「お兄ちゃんによろしくって言ってたっけ。お前、兄弟いるの?俺んとこみてーに同じ学校にいる?」
進也の顔が僅かに強張り、ちらりと正之助を見やった後、ぼそりと小さな声で返事をした。
「・・・いねーよ」
「へー、もう学校出てんのか。お前、しっかりしてるからてっきり長男だと思ってた。教育の違いなんかな。狐って皆、お前みてーに性格悪いの?」
悪気が無いから、始末が悪い。進也は正之助をギロリと睨んで、唸った。
「口に出す前に、それがおかしな質問かどうかまず考えろ。今の調子で喋ってたら、その内、化けの皮が剥がれんぞ」
指摘に従い、正之助は次の問いを一度自分で考えてから、問うた。
「・・・俺、間違った事聞いた?」
「・・・・・・」
この狸はダメだ。阿呆すぎる。
もうそれ以上は何も言うまいと、進也は歩く速度を速めたのだった。
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