トウジンカグラ

百川カサネ

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4話 邂逅編

24 飼い主の躾

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「こちらの手落ちではあるが、妾の顔に免じて今は納めてくれんか」

 慮外の力を以て制圧する女は、いっそ朗らかなまでの声でそう告げた。
 口調は頼みにするものだが、他の答えなど許すまい。そもそも空を封じ込めたあの得体の知れないひと振りを抑えている以上、男にも選択肢はないだろう。
 氷雨なる男は目端で瑠璃と切っ先の落ちた刀を見比べ、やがて緩やかに息を吐いた。

「……元より、御前で抜刀する無礼を働いたのは私です。今上様にお許しとお収めを頂けるのであれば異論などございません」

「うむ。そう言うてもらえると助かる」

 氷雨の返答に、瑠璃は微笑を湛えてちいさく頷いた。
 途端、がくりと男の腕が下がる。そう見えたのも刹那のことで、失態などなかったかのように男はゆっくりと立ち上がった。紅蓮の全てを捌ききった軽やかさを見せつけるように空色の煌めきを曳き、瞬きの間に腰の鞘へと刀刃を納める。
 ちん、という澄んだ音と同時、男は再度座して顔を伏せた。硨磲しゃこ真珠しんじゅに連れられ現れたときと全く同じ、拝謁の姿勢である。

 ――まるでつい先ほどの、火群との斬り合いなどなかったかのように。

 ちりりと。
 男の刀刃、あるいは瑠璃によって冷まされた熱が再び火群の中に熾る。
 腹の底に、喉に、目の奥に、またちりりちりりと熱が熾る。臓腑を突き上げて口から零れる息が熱い。
 座して尚真っ直ぐに伸び、そして火群を一顧だにしない男の背に視線は吸い寄せられていく。みしみしと、無様に床に押さえつけられたままの身体が、どこかが、軋みを上げる。
 声にならない悲鳴。掻き消すように、穏やかな女の声。

「面を上げよ、氷雨殿。どうか楽に」

 男の後ろ頭がすっと、静かにもたげられる。
 背後で無様に伏す男など、初めからいなかったかのように。その背はどうしたって床に這う火群を顧みない。凛と真っ直ぐに伸びて、正しさの塊のように。

「遠路遥々の末にまだかと思われるであろうが、少々時間を貰えぬか」

 好漢そのものの男の居住まいに、瑠璃は撫でるようなやわい口調で問う。男は応えるべくちいさく息を吸い、

「――その場で即躾けんと犬にはわからぬゆえな」

 しかしながら男の吐息が言葉を象るよりも先に、女の声が硬質に急速に遠ざかった。
 ぎゅうと、火群の喉が獣めいた音を漏らす。
 見えない何かに喉を掴まれ、微かの浮遊を知覚する間もなく叩きつけられる。火群の身体は出来の悪い人形のようにめちゃくちゃに床を滑り打ち付けられ、出鱈目な打音を散々に上げてから何かに当たって止まった。押し潰される格好のまにまに喉が反る。視界には黒と赤で組み上げられた典承殿の庇の端っこと、そして呑気に鰯雲の泳ぐ高い空が広がっている。天から麗らかに注ぐ陽光に刺し貫かれ、狭められた気道を抜ける吸気が、ひゅうっとか細く喉を裂いた。
 見えない何かに押し出された火群の身体は縁台に、先ほど男に斬りかかる最中に足裏で蹴った欄干に押しつけられている。

「お゛げ、ッ――」

 随分と遠くなった女へと、火群は辛うじて視線を向けた。更に押し潰される喉は潰れた蛙のような音を漏らし嘔吐を誘っている。
 これほど遠く離れても、瑠璃の視線は過つことなく冷たく火群に刺さっている。その手前では面を上げることを許された男が目を大きく目を瞠り、動揺を滲ませた顔で火群を振り返っていた。

 その瞳が何色をしているのか、今の火群にはよく見えない。
 ぴんと真っ直ぐ、正しさの塊みたいに伸びていた背筋が少しばかり歪んでいるような気がする、それに微かに溜飲が下がる、ような気がする。思考も呼吸も腹の底から背筋へ這い上がり喉でわだかまる得体の知れない何かに遮られていて曖昧だった。

 薄れ、散逸する思考の中、それでも唯一鮮明に視界に佇むものが見える。無造作に叩きつけられる最中、手中を離れ置き去りになった紅蓮が静かな熾りを宿して抜き身を晒していた。
 頭上には届きもしない空が、背後には端が霞むほど遠い町並みが広がっている。掌は空っぽで、熾りが、熱が、重みが、紅蓮があまりにも離れている。
 身体の内側のどこかにある虚ろが広がって、背中からずるりずるりと火群を引きずり込もうとしている。塞がれる気道に視界すら暗く狭まって、かたかたとちいさく身体が震えていることに火群は気づいていない。

 瑠璃が少しでも翻意すれば。
 欄干で引っかかっているだけの火群の身体など容易くこの空へ、遠い地上へ落とされる。

「火群」

 ひゅう、ひゅうと風が抜ける。火群の細い喉を空気が辛うじて渡っていく。
 胃の底が震える。腹に、胸に、身体の中に収まる臓腑の全てが浮き上がる。薄く開いたままの火群の唇からは粘ついた涎と、げぇ、おぇえと、汚く濁った声が漏れていた。

「火群。わかるな」

 凛と鮮明に。瑠璃の声が響いた。
 秋風の吹き抜ける、あるいは鼓膜の奥で血潮が流れ落ちていく音。急速に奈落へ向かうその音を退けて、瑠璃の声は火群の思考を静かに揺さぶる。距離をも厭わぬ女の低い声はまるで脳みそに手を差し入れて掻き回すようで、それでも火群の背を苛む不快感よりは遥かにましだった。

 火群は喉を押さえ込まれた姿勢のまま、それでも不格好に頷いた。
 実際は前髪が揺れたか否か程度の所作だっただろう。そもそも女が何を念押しているのかもわからない。ただ現状から脱するにはこうするしかないのだという、本能的な動きでしかなかった。
 暗がる視界には蒼も藍も濃淡もない、平坦で虚ろな空だけが映っている。空っぽの手はすうすうしている。

 ――嗚呼、自分は何も持ってはいないのだ。

 虚ろに苛まれ、ひとり身体を震わせながら。
 火群はただ、そんな場違いなことばかり考えていた。

「――ならばよい」

 冷徹から温情へ。ひらりと、瑠璃の声が翻る。
 同時に、急速に空気がなだれ込んでくる。見えない圧から解かれた火群は喉と肺で暴れ狂う新鮮な空気にただただ喘いだ。自由を許された身体が自然と丸まり、げぇと呼気だか涎だかを吐き散らかす。びくんびくんと腹の底が震えて、唾液を吐き出す舌の根が痺れていく。手足が酷く冷たい。急速に明るむ視界では床の木目が濡れて霞んでいた。
 やがて吐き出すものがなくなり、火群はようよう目を瞬いた。げほ、と空咳を漏らしながら、冷えた手足を床に突いて身を起こす。背筋を舐る虚ろから逃げ出すようにべたり、べたり、這うようにして縁台を進む。蛞蝓なめくじのような鈍重で無様な進みだったが、ひとつ進むごとに空が、遠い地上が遠ざかる。はっと、犬のように息を吐く。何の慰めにもならない安堵が僅かに腹の底を撫でた。

 あとは、あと少しで。空っぽの手が、艶やかな飴色の木目に爪を立てる。
 置き去りのまま床に伏すひと振り。火群の、火群だけの刀刃。唯一の紅蓮。
 紅蓮さえ、紅蓮さえ掴めば。紅蓮がこの手にあれば構わない。紅蓮があればいい。紅蓮がないと。紅蓮、紅蓮。早く。紅蓮を。

 ――そうでないと、オレは。

 刺すような陽が注ぐ外から淡い影に包まれた大広間へと這い進めば、水が張ったように視界が滲んだ。
 その滲む視界に、藍色が揺れる。
 のろりと、顔を上げれば男がそこにいた。
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