トウジンカグラ

百川カサネ

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4話 邂逅編

26 天意の所在

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「近頃、七宝の門を開けと羅城に迫る者、あるいは不当に七宝に入り込み凶刃を振るうならず者が増えておる」

 溜め息のように吐き出し、瑠璃は肘置きに片身を預けた。身を退く主人に代わり水球たちがくるくると周り、氷雨の、あるいは火群の前を行き交う。そこには昨晩火群に迫った男たち、あるいは昼に門前払いを食らわせた戦行列、はたまたもっと以前に火群が切り捨ててきた武士無頼が映っていた。

「その度にこの火群が紅蓮と共に出向いておるのだがな。何せ切りがない。あまつさえ宮中に、あるいは今上帝たる妾に天意なしなどと嘯く者までおる」

「宮中には精鋭の近衛府があるのでしょう。切りがないのであればそちらを頼みにしては?」

 冷めた氷雨の声。また答えるのは飾だった。

「数ではなく質の問題だ。天意を疑う者には天意で以て返さねばわからぬ。尤もそこな男では天意を語るにあまりに及ばぬが」

「飾」

 落ちた。
 瑠璃の制止と同時に、糸が切れたように全ての水球が床に落ちた。びしゃりと飛沫いたそれらは同時にただの水となり、磨き込まれた木目に染み入ることもなくじわりと広がっていく。その様を火群は無感動に見つめる。

 飾の物言いが火群を刺すのはいつものことである。そもそもテンイだのシンイだのシュゴだの、火群は一つも知らないし、何であれば今日初めて聞く言葉である。及ばぬなどと誹られたとて痛くも痒くもない。瑠璃が何を以て強く止めたのか、今度こそ明確に頭を垂れて黙る飾を眺めたところでわかるはずもなかった。
 恐らく瑠璃と相対する男も同じだろう。冷めた気を隠しもせず氷雨は瑠璃を見つめている。

「まあ、そういう訳でな。妾が直々にフジの里へ、アメの一族が当主殿へと遣いをやった本題だが、」

 取りなすように瑠璃は身を起こした。

「どうか我らに力を貸してはくれんか、氷雨殿」

 少女は両の手を合わせる。精緻な装飾の施されたゆったりとした袖に細い指は隠れるが、代わりに声が、視線が真摯を纏う。

「名高き蒼天が宮中に与するのであれば、妾らに天意なしと吠える連中も納得しよう。何、その神剣を振るうてくれと言うのではない。宮中に蒼天ありと知らしめてくれればそれでよい」

 少女の瞳はその名の通り、瑠璃のように深く静かに煌めきを湛えている。
 対する氷雨は静かに、藍の瞳を眇めていた。ぴんと伸びた背筋もそのままに、膝の上で握られた拳に微かな力が籠もる様を火群は黙して見つめる。
 ヒノモトで最も尊き女。それに答える男の声は低く、その背に途方もない重みを背負っているようだった。

「我らアメの一族、あるいはフジは、天より降りし神剣を受け継ぎ、守護する。これを任された唯一です。であれば例え今上帝の御言葉であろうとも、不用意に余所事に関わることは、」
「妾こそが七宝であり、七宝は妾である」

 男の身体が刹那強張る。重々しく続く声を遮る一声。
 それは最早少女の声ではない。取りなし、言い含め、棘を手折るようなやわらかさはどこにもなかった。
 氷雨が俄に目を細める。火群もじいと御簾の向こうを見据える。御前に控える飾と刻すら、居住まいを正しているように見えた。
 朗々と大広間を満たす声。決して重みのない少女の声でありながら、否を許さない強さに満ちている。これなるは七宝の国の頂きに坐し、ヒノモトを統べる今上帝。現人神たる少女――瑠璃の詔である。

「裏を返せば妾の力が直々に及ぶのは七宝まででしかない。であれば先のフジの景色は、妾のみが示したものではない。……氷雨殿であればわかるであろう?」

 徐々に圧を解いた女は、最後には少女の顔をして微笑んでみせた。対する男はぴくりと片眉を跳ねさせる。視線は刹那、腰に差した蒼天なる刀刃に絡んだようだった。

 この女は、七宝そのものである。
 火群ですらそれは理解している。この七宝において瑠璃に視えないものはなく、拾えない声はなく、森羅全て瑠璃の意のままであると。ならばこそ業腹にも火群は瑠璃に従うしかなく、刃向かうことは叶わない。
 先の一幕を思い出し、火群は紅蓮を抱える腕に力を込めた。腹の底が浮き上がるような不快を思い出し、ゆるく息を吐く。密やかな吐息の向こうで、氷雨はじっと瑠璃を見つめていた。

「そもそも其方とて、思惑があって七宝に赴いたのであろう。でなければ初めから妾の呼び立てに応じる必要がない。なれらフジは常に、今も昔もそうだ。なあ、氷雨よ?」

 沈黙があった。
 女は何かを含んで、天上から男を見つめている。
 男はただ真っ直ぐに背筋を伸ばし、藍深い目を眇めて女を見据えている。
 やがて空白の時間を崩したのは呼びかけられた男の方だった。

「……仰る通り、自分はこの七宝に果たすべきがあり御身の招聘に応じております。選ばれしのみが許されるこの七宝には能わぬと、早急に放逐されては困るのも事実です」

「うむ。正直で良い」

 女は鷹揚と頷いた。男は言葉を選んでいるのか、ゆるりと答えを紡いでいく。

「我らフジ、ひいてはアメの一族は、俗事に関与致しません。しかしながら蒼天を受け継ぐ俺という一人が、御身というただ一人に力を貸すというのであれば――多少の面目は立ちましょう」

「ならば妾の頼み、引き受けてくれるな」

 俗事との呼ばわりに触れることもなく、念を押す女の声。
 男はゆっくりと、殊更にゆっくりと――頷いた。

「神剣は宮中にあり、その意を示すのみ、と。その御言葉、相承知仕りました」

「うむ。其方の英断に感謝しよう」

 ちりりと。
 埋み火が熾る。火群はゆっくりと瞬いて、己の身体を見下ろした。
 蜘蛛の糸が絡むような、些細で、けれどもどうしても払えない不快。何を以て熾っているのか見当がつかない。ならば己ではなく紅蓮のものか。不思議に思って視線をやるが、腕の中の紅蓮は熱もなく沈黙している。

「七宝の滞在を許す。必要とあらば一時の宿として宮中の房を融通するが」
「いえ。城下に当てがあります」
「ならば所用の際は宮中へ赴くか、市中の近衛に頼むがよい。触れは出しておく。こちらからの用には董女を遣る」

 火群の違和感を置き去りに、女は居並ぶ少女たちを視線で示した。頷く男は俄に目を眇め、面布を纏う少女たちの一人ひとりを見つめている。

「其方がどこにおろうと、そこが七宝である限りはわかるゆえな。好きに過ごすとよい。尤も――当主殿は稀に、ようだが」
「…………」

 含めるような瑠璃の物言いに、氷雨はただ黙っている。眺めるばかりの火群はしかし、飾が刹那ぴりりとした気配を発し、刻が微かに肩を揺らすのを見た。
 尤も、誰かがそれ以上の言及をするわけでもない。瑠璃は黙り込む氷雨に向けてただにこりと、まるで幼子を相手にするかのように微笑んだ。

「今日よりしばしの間、頼んだぞ。神剣の仕い手よ」
「――御意に」

 神剣の仕い手なる男は、折り目正しく平伏した。
 またちりりと、火群の中で何かが燻った。
 やがて壇上に控えていた金と銀が楚々と動く。丁寧に御簾を下げ、瑠璃の姿は見えなくなる。同時に大広間の外に控えていたのか、現れたときと同じように硨磲と真珠が氷雨に傍寄った。二人の少女に先導されるがまま男は立ち上がり、踵を返す。

 その瞬間、氷雨の視線は間違いなく火群にあった。
 紅蓮ではない。自分だ。火群はそう確信した。真っ直ぐに射貫いてくる藍深い瞳を見返し――それも刹那、火群は顔を逸らした。

 ――この男は、何だ。

 紅蓮に引きずられ斬りかかった衝動は、今は鳴りを潜めている。それでも胸の奥、あるいは腹の底、火群のどことも知れないうちがわで、ちりり、ちりりと微かな火が熾っている。視線を逸らしてもまだ、藍が火群の身体を絡め取っている。そんな気さえした。

 あの手が欲しい。そんなはずはない。火群はあんな男は知らない。

 男だけではない。神剣、同じもの、天意――蒼天。そんなものは知らない。紅蓮と並ぶものがあるなど知らない。紅蓮だけが唯一で、絶対だ。そのはずだ。火群には紅蓮さえあればいい。他には何もいらない。何も知らない。

 ――火群という男は、本当に、何も知らない。
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