トウジンカグラ

百川カサネ

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5話 邂逅編

34 子どもの頃のことなんか

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 左右のしぐれも三葉も、膝の清佐も火群の微かな仕草に気付かない。視線の先では雀があからさまに肩の力を抜き、安堵した様子だった。

「そう、でしたか。では、その服も」

「はい、施薬院は清潔な格好じゃないといけないからって、新しい服まで頂いたんです。この後、そのまま上方に移るので」

 母はもう昨日のうちに施薬院の方に。信乃が微笑と共に続け、雀は更にほっと息を吐いている。
 信乃が今までどんな娘だったか、無論火群は知る由もない。しかしながらこの学び舎に集まる子どもたちや火群が行き来する町の様子から見ておおよその想像はつく。

 七宝は上方と呼ばれる北へ、つまり宮中に近ければ近いほど暮らしの格が上がるらしい。房持ち以外の宮中に詰める官吏の屋敷もほとんど上方にある。七宝を東西に分ける大路に近ければ近いほど商家が並び、逆に大路から遠のけば遠のくほど農家が増える点も暮らしぶりの目安になるだろう。そしてこの『ふくすず舎』は、田を横目に闊歩する三葉たちが通える程度の立地にある。つまり上方からも大路からも遠い、七宝の端に相応した生活と見ていいはずだった。
 今まで襤褸を着ていた貧乏娘がいいところの娘と見紛うばかりに小綺麗な身なりで現れれば、成程、下衆な勘繰りもするというものだろう。得手勝手に納得しながら火群が眺め続ける先で、雀と信乃は湿った空気をだいぶ和らげている。

「信乃さんはお医者様になりたいと言っていましたからね。……お父さんのことは本当に、」

 ほんの刹那。

「残念でしたが……」

 一度目が合って以降はまるでないもののように振る舞い、今の今まで信乃と向き合っていた雀の視線が。
 ほんの刹那だけ、しかしながら確かにその瞬間、火群に向けられた。
 そう知覚した瞬間には、雀はまた信乃を見つめている。何事もなかったかのように、しかしほんの微かにぎこちなさを含んだ笑みを浮かべて。

「新たな環境で、きっとあなた自身の学びになることが多いはずです。また機会があれば、いつでもここに立ち寄ってくださいね」

「はい。ありがとうございます、先生」

 火群はゆるりと立ち上がった。

 膝に挟まっていた清佐がころりと転がる。三葉はきょとんとして火群を見上げ、しぐれはばちばちと目を瞬いてた。気にせず転がったままの清佐を避けて火群は歩き始める。
 門の前で話し込んでいた信乃はここに来てようやく火群に気付いたのか目を瞠り、慌てたように道を譲った。雀は顔を強張らせながら同じく一歩下がり、しかし信乃と火群の間に立つような位置を取る。

 信乃と雀に、火群はほんの一瞥だけ送る。
 しかしながら歩みを止めることもなく、何を言うでもなく、火群は譲られたとおりに門をくぐって庭を出た。

「ちょ、ちょっと火群くん! あの、どうもお邪魔しました!」

 またご贔屓にとおざなりに言い残し、しぐれが慌てて追い縋る。続けてばらばらと軽く不揃いな足音が続き、門の辺りで止まった。

「ほむらもう帰るのー?」

「まだあそべよー!」

「また来いよほむらー!」

「ほむらまだ泥面子雑魚だからな! あいつに会っても一人で戦うなよ!」

 足音と同じくばらばらと投げかけられる声を聞き流す。代わりのように隣に並んだしぐれが学び舎を振り返り、子どもたちに手を振っていた。火群の視界には昼餉から戻り店先に暖簾を掲げながら、しかしまた慌てて店の奥へと消える大人の姿ぐらいしか映っていない。
 やがて子どもたちの声も遠ざかる。火群としぐれの足音と、そして暖簾を下ろし戸を閉めて火群から遠ざかる忙しない音だけが通りに響いている。

「あの、あのさ、火群くん」

 そろそろ『こんこんや』が見えてくる辺りに至って、唐突にしぐれが声を上げた。隣から火群の眼前へ足早に回り込む。
 塞がれる位置になった火群は歩調を緩める。しぐれはうろうろと視線を彷徨わせ、それでも最後には窺うように上目遣いで火群を見つめる。

「私はね、幼馴染とお兄ちゃんにずーっとくっついて回るような子どもだったんだけどね。火群くんは……どんな子どもだったのかなあって……」

 ――そんな風に唇を震わせるぐらいなら、聞かなくてもいいだろうに。

 子ども。兄、妹、姉、弟。幼馴染。父、母。あるいは師。
 清佐たちに巻き込まれ、『ふくすず舎』で見聞きし、今しぐれに問いかけられている。それらを緩慢に思い返す。それぞれ異なる近さと遠さを持った人間を考える。

 何となく、辺りを眺めた。目の前には震えながら返事を待つしぐれ。通りの店は間口を閉ざし、人影はない。視線をつっと上にやれば、遠く、秋空の下霞むように聳える朱の神殿が佇んでいる。
 視線を下げる。しぐれの瞳が薄らと藍がかっていることに、火群はそこで初めて気付いた。嘆息して瞑目すれば、忘れていた埋み火がちりりと音を立てる。藍深い瞳の男。沸々と、腹の底が煮えていく。

「知らねェよ」

 呼応するように、腰に提げた紅蓮が澄んだ声で何かを囁いていた。

「――オレは、自分の子どもの頃のことなんか知ンねェ」

 温い熱を引きずって秋風が吹き抜け、頬をぬるりと撫でていく。
 しぐれがちいさく息を呑んで唇を引き結ぶ様を、火群は見なかった。
 火群という男は何も知らない。何も持っていない。
 本当に、何も。


  ◇  ◇  ◇


「七宝のことを知りたいって? 兄ちゃん、他所から来たのかい」

 酒精に中てられた真っ赤な顔で、それでも気を利かせてくれたのか声を潜めた男に氷雨は頷きで返した。

 昼餉には遅いこの時間、店の中は淡く陰っている。それでも仕事を終えたと思しき男たち、あるいは仕事を放り投げたと見える男たちが活気づいた笑い声を上げて酒杯を交わしている。酒や菜を運ぶ女給も手が足りないとまでは言わないだろうが、気忙しく店の中を行き来していた。
 氷雨からすると、非日常的な光景である。浮かべた笑みがぎこちないのはこの空気がそうさせるのか、はたまた手にした杯に男がなみなみと酒を注いだせいか。
 氷雨はいわゆるザルと呼ばれる人間である。しかしながら祝い事でもないのに昼日中から、しかも見知らぬ人間と酒を酌み交わすのには慣れていない。ついでに述べるならば酒の味というものも好んでいなかった。

 それでも、やり取りを円滑にするには酒が手っ取り早いことぐらいはわかっている。小さな杯をひと息に呷れば相手は簡単に喜んで、ただでさえ酒で緩んでいる口を更に軽くしてくれる。その上競うように自らも酒を呷って記憶を曖昧にしてくれるのだからありがたいことだった。

「折角なら、都で男を上げたくて。秘密ですよ」

「おーおー、兄ちゃん若いのに立派だねえ。おいちゃん、これでも口は固いんだ。任せなよ」

 俺の倅も兄ちゃんぐらいの歳だけど志ってもんが足りねぇんだよ、昔は近衛様になって七宝の平和を守るなんてキラキラした目で言ってたのにさあ、今じゃ三軒隣の放蕩息子に唆されて……。聞いてもいない話をつらつらと続ける姿はどう見ても口が固そうには思えなかったが、やはり氷雨は頷いた。徳利を取り、空になった男の杯に今度は氷雨から注いでやる。
 男はすぐに杯に口をつけ、満足そうに一気に干した。はあと酒臭い息を吐き、そろりと顔を寄せてくる。氷雨は身を退きたい衝動を堪え、先ほどよりも更に潜められた声に耳をそばだてた。

「何なら良い口入れ屋を紹介してやろうか。少し積めば七宝の外の人間だってのも上手いこと伏せてくれるぜ」

「……そんな店もあるんですか」

「まあな。御禁制だっつっても、兄ちゃんみたいな連中はぼちぼちいるよ」

 もちろん、大っぴらに口にするやつぁいねぇけどよ。小声で付け足される傍ら、氷雨はまた空の杯に酒を注ぐ。今度はちびりちびりと舐めるように呑みながら男は笑った。少しばかり皮肉めいた笑みだった。
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