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第4章 生きることは、守られること

第14話 二人一緒なら

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 何と声をかければいいのか言葉が見つからなかった。

 数年ぶりに会った友人のように親しみを込めて挨拶をするべきなのか、やっぱり初対面らしく遠慮がちに相手の出方を覗いながら声をかけるべきなのか、散々迷った挙句、自然体を装って気さくに話しかけるべきだと判断した。
 
「よお。あ、あのさ……ちょっと話がぁるんだけど」
 
 しかし、物事は予定していた通りに上手くいかないものらしい。

 盛大に声がひっくり返った。

 通常ならば羞恥心が湧き起こるところだが、勝ったのは恐怖心の方で、足に根が生えたように一歩も前へ進まなかった。

 その距離、およそ十メートル。話があるとは言いにくい不自然な距離だ。

 オレは意を決して視線を上げる。

 これはホラー映画を見ているだけかもしれない。

 そう思い込もうとしてみたが無理だった。

 正面に立つ血まみれの女の瞳には恨み辛みがくっきりと浮かび上がっており、これは紛れもない現実なのだと思い知らされる。

 気を抜けば、吹っ飛びそうになる意識をギリギリで繋ぎとめたのは背後からの声援だ。

「真、頑張れ~」

「小さいお兄ちゃんファイト」

 体育祭であまり関心がない同級生に向ける声援と同じく、儀礼的で取ってつけたような薄っぺらい声に励まされるはずがない。

「もしかして、アガっちゃってる? モジモジしちゃって、ぶっきらぼう男子が好きな女子に告白するシチュエーションみたいだ」

「ここ、放課後の教室じゃないのにね」

「うるせえな、外野は黙ってろよ!」

 真之助とおいねを一喝し、鼻から荒い息を吐き出した。ようやく腹を括る決心がつき、血まみれの女に向き直る。

 女は眉間に深いしわを寄せ、不快感を露にした。

「誰あんた。あたしをナンパしてるの?」

 恨み節が飛び出すものかと思いきや、ナンパというこれまた軽薄なワードに拍子抜けする。

「ナンパじゃねえし、こっちは大事な話があって来たんだよ!」

「嘘、絶対に嘘。ナンパに決まってる。今いやらしい目であたしを見てた。お巡りさん、ここに痴漢がいます!」

「バッ……大声出すなよ!」

 血まみれの女はスカートから覗く太ももをわざとらしく隠すようにした。

 顔を背けたくなるほど痛々しい見た目なのに、痛みを感じている様子はなかった。

『おいねちゃんのお付き人は自分が死んでしまったことに気がついていない』

 つい五分前に真之助と交わした会話を思い出す。


 ※ ※ ※


 ――五分前。

 おいねが指差した血まみれの女に驚いたオレは、軍隊の行進よろしく、速やかに回れ右をし、元来た道へと引き返そうとしたのだが、真之助に肩を掴まれ、あっけなく退路を断たれてしまった。

「義理と人情を大切にして、おいねちゃんを助けてあげるんでしょ?」

「それとこれとは話が別。オレが、ホラー映画が苦手なことくらい知ってるよな。そういうのは守護霊ズで何とかする事案だろ?」

「守護霊ズって」

「ここはオレみたいな素人が出る幕じゃねえんだよ。そもそも、どうしてオレにおいねのお付き人が……幽霊が見えているんだ!」

「さあ」

「さあってな……」

 原因不明の体調不良に悩まされるのによく似た不安が押し寄せた。

 飄々とした真之助の態度が妙に白々しく見え始め、オレは勘ぐる。そして、ひとつのひらめきを見つけてしまった。

「よく言うじゃねえか。霊感の強い人間の傍にいると、霊感が幽霊が見えるようになるって。お前が霊力を使ってオレに姿を見せているせいで、霊力がオレにうつって幽霊が見えるようになっちまった、違うか?」

 我ながら冴えた答えだと思った。

「うつった、うつったって、風邪のウイルスじゃないんだからさぁ」

 心外だとでも言うように呆れ顔の真之助は被害者意識を滲ませているが、被害者はオレの方だ。怒りのせいで目眩がした。近い将来、高血圧で倒れたとしたら、原因は恐らく真之助こいつで間違いないだろう。

「理由はどうであれ、せっかく幽霊が見えているんだから、真が説得してあげるべきなんだ。おいねちゃんのお付き人は自分が死んでしまったことに気がついていない。死を自覚していない死者は、自分が生きていると思い込んでいるから、生者しか目に映らない」

「生者しか目に映らないだって?」

「そ。おいねちゃんのお付き人には自分以外の死者が見えないんだよ。だから、私たちにはどうすることもできない。おいねちゃんがどんなに頑張って成仏するよう説いたところで、お付き人に声は届かないからね。泣いても、叫んでも、吹き抜ける風みたいに鼓膜をすり抜けていく」

 オレの鼓膜からも真之助の声がすり抜けていけばいいのにと強く願ったが、生憎それは叶いそうもなかった。おいねに制服の裾を引っ張られたのだ。

「小さいお兄ちゃん、お願い。人は死後、三年以内に成仏しないと不成仏霊になっちゃうんだよ!」

「不成仏霊だって?」

 まさか、このワードに再び出くわそうとは思いもしなかった。

 成瀬さんを狙っていた幽霊がまさにその不成仏霊で、真之助が不成仏霊を追い払うためのサポート役として、寿々子すずこさんに協力を求められたばかりだった。

 確か真之助の話によると、不成仏霊は生前の未練や執着のせいで成仏が叶わないにも関わらず、生者を道連れにすれば、成仏できると信じ込んでいるとかで、業界で問題視されているということだった。

「普通の不成仏霊は何かがきっかけで成仏できる可能性もあるけど、おいねのお付き人はまだ自分の死を受け入れていないから、もし、このまま不成仏霊になってしまったら、元凶に魂を乗っ取られて、やがて生者を脅かす元凶そのものになってしまうんだよぉ……」

 不成仏霊が元凶化する? どうやら事態は思ったよりも深刻らしい。

『不成仏霊のほとんどは自らの死を受け入れている』

 真之助はそんなことも話していたから、自らの死を受け入れていない、おいねのお付き人はイレギュラーなケースなのかもしれなかった。

「今を逃せば、一生成仏できないってことか」

「一生じゃない。永遠に、だよ……」

 言葉を詰まらせたおいねの代わりに真之助が続けた。

「お付き人の死後、守護霊がこの世に留まれる時間は最長で三年。おいねちゃんはもうすぐお付き人を置いて守護霊界に帰らないといけないんだ。これが最初で最後のチャンスになる」

「どうか、おいねのお付き人を助けて!」

 無垢な子供に潤んだ瞳で懇願されれば、むげに突っぱねることもできない。すなわち、引き受けるしか選択肢が残されていないということだ。

「……仕方ねえなー」

 ニコニコの笑顔でハイタッチする守護霊ズを睨みながら、まあ人助けできればいいかと軽い気持ちで承諾したのだったが――。


 ※ ※ ※


「お巡りさん、痴漢です!」

 おいねのお付き人である血まみれの女に痴漢呼ばわりされることになるとは想像もしなかった。

 戸高莉帆とだかりほ。十九歳。大学生。

 それがおいねから聞いた彼女の情報だったが、戸高莉帆が大声を上げるたび、頭部の傷が腹をすかせた金魚の口のようにパクパクと開閉したり、そこから湧き水のように止めどなく血が流れ出ると前もって聞かされていたら、ホラー映画を嫌厭する身としては、この件はやっぱり断っていたかもしれない。

 戸高莉帆は垂らしたロングヘアを振り乱す。

「来ないで。あたしに何をするつもり?」

「何もしないって。何かするにしても、できるわけがねえよ。あんたはもう死んでいるからな。いい加減、気づけったら!」

 しまったと思ったときには後の祭りだった。

 戸高莉帆に死を伝えるときは冷静さと慎重さが重要になる。なるべく神妙な面持ちを取り繕い、オブラートに包むこと。

 そうでもしなければ、感情的な性格の彼女は運命を入れないだろうと、おいねにアドバイスをもらっていたのだ。

 それなのにオレときたら、怒りの形相でデリカシーのかけらもない告白をしてしまった。

 ゼンマイ仕掛けの人形のように戸高莉帆はパタッと動くのをやめた。まさに嵐の前の静けさだ。大騒ぎが始まる前兆に身をすくめたとき、

「あ、やっぱそうだったんだ。何だかおかしいと思ったのよね」

 戸高莉帆は拍子抜けするほど簡単に自分の死を受け入れた。あまりの潔さに目を見張る。

 もしかすると、生と死の狭間を行き来するような現在の状況に違和感を覚え、嫌気がさしていたのかもしれない。そう思ったのは、「道行く人に話しかけても、みんなこぞってあたしを無視するから、日本中から壮大ないじめを受けているかと思ってた」そんなことを話したからだ。

 気がつけば、戸高莉帆はが落ちたかのようなすっきりとした表情をしていた。頭部の出血も止まっている。

「ねえ、あたしが死んでからどのくらい時間が経ったの?」

「今日でちょうど三年だって」

「三年も気づかなかったなんて、ウケるんだけど。しかも、話しかけてくれたのが、見ず知らずのあんたひとりだったなんて、あたしの人生笑えるわ!」

 神社の駐車場は無人ということもあり、乾いた声が鐘のように響き渡った。戸高莉帆は手を叩いて笑い転げるが、オレにはどこに笑いの要素があるのか見当もつかなかった。それが彼女の強がりだったと気がついたのは、潮が引くように笑い声が消えたあとだった。

「ひとりぼっちは寂しいね……」

 涙の跡が一筋、頬に残されていた。
 
「このままじゃ、あたし寂しくて成仏できないかも。ねえ、あんた一緒に死んでくれない?」 

「……オレも一緒に?」

「そう、一緒に」

 不成仏霊になるにはまだ時間があるはずだったが、事態は楽観視できないようだった。

 差し迫った表情で戸高莉帆はジリジリと距離を詰めてくる。

「二人一緒だったら、寂しくないよ」

 一刻も早く成仏するよう説得しなければならないのに、あろうことか、催眠術にかかったような浮遊感がじわじわと全身に広がっていた。

 思考は空転し、曇りガラス越しの景色のようにぼんやりとしている。

 一緒に死ぬのも悪くない。もうひとりのオレがそう呟くのが聞こえた。莉帆と一緒に死んで、じいちゃんを死に追いやった罪を償おう――。

 莉帆が差し出した手を取ろうとしたとき、

「莉帆はひとりぼっちなんかじゃないよ!」

 空気を引き裂くような声で我に返った。

 振り返ると、真之助と繋いだ手をほどき、おいねが駆けてくるところだった。

「誰、この子?」

 戸高莉帆はようやく自分以外の死者が見えるようになったらしい。目の前で立ち止まったおいねに好奇心と軽い困惑を向け、瞬きを重ねた。

「おいねは、莉帆の守護霊なの!」

「しゅご……れい?」

「おいねは莉帆が生まれたときから、ずっとずっと莉帆と一緒だったから、莉帆の好きなものも、嫌いなものも、一番よく知っているの。おいねは莉帆と一緒だったから、ずっとずっと楽しかったよ。これからも、おいねと莉帆の楽しい時間がずっと続くはずだったのに、それなのに、それなのに……おいねが未熟だったせいで莉帆を死なせてしまってごめんなさい」

 おいねの涙がいくつも頬を滑ると、戸高莉帆の瞳が湖面のように揺らいだ。

「おいねちゃんって言ったわね。あたしが九歳だった頃、いきなり看板が落下してきたことがあったでしょ。あれ、助けてくれたの、おいねちゃんだったの?」

 おいねがひとつ頷くと、戸高莉帆は膝を折って、おいねを見上げるようにした。

「今頃、おいねちゃんの存在に気づくなんて、あたし何でも遅すぎね。あたしが今日まで生きてこれたのは、おいねちゃんに守られていたからなんだね」

 他にも思い当たる節があるらしく、戸高莉帆は記憶を辿る顔つきになる。

「おいねのこと許してくれるの?」

「あったり前じゃない。おいねちゃんは全力であたしのことを守ろうとしてくれたんでしょ? むしろ、感謝しているくらいだわ。最期の瞬間まで、ううん――」

 戸高莉帆は宝物を包み込むようにおいねを抱きしめた。

「死んでからも、ずっと傍にいてくれてありがとう。あたし、ひとりぼっちじゃなかったのね」

 いつの間にか戸高莉帆の姿は傷ひとつない十九歳の女子の姿になっていた。いや、なっていた、というより事故前の姿に戻ったという方が正しいのかもしれない。

 柔らかなロングヘア、その髪をまとめるフリルのついたシュシュ、短いスカート。

 凄惨な事故とはかけ離れた、五月の風を思わせる爽やかさをまとっている。

 抱き合いながら涙を流す、おいねと戸高莉帆は年の離れた姉妹のようにも、母子のようにも、祖母と孫のようにも見えた。
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