狂おしい棘

尾崎ふみ緒

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第一話

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 今でも、あの日のことは夢だったんじゃないかと思うことがある。一切の音がなく、すべてが白だけに塗られた風景。あの場面のどこをとっても、現実にあったこととは思えない。 
 しかし、彼女は確かにここにいる。私の目の前にいて、テーブルの向こうで、夢中になって本を読んでいる。彼女は何を思いながらそれを、ゴーゴリの『死せる魂』を読んでいるのだろう。
 彼女は私のことなど知らぬ存ぜぬの顔で、紙の上の文字を追っている。今の彼女にとって本は、他者と距離を取るための道具立てでしかなくなっているらしい。
 物心ついた時から私に似て、彼女にとっても本を読むことはただの娯楽以上のものだった。食事で肉体に必要な栄養を摂取するように、精神を育むために必要なのは他のものではいけなかったようだ。本であれば、今、この現実に存在しない人間の肉声も聴くことができるのだから。
 そして、過去の人間の声に耳を澄ますためには、私の存在は邪魔なのかもしれなかった。
 イリナがいた頃は、三人で読んだ部分をあれこれ賑やかに話し合ったものだが、今ではそんな触れあいも記憶の奥底に沈んでしまったようだ。
 真冬の今でも、この部屋は隅々まで暖かい。だが、今の私たちの間には冷たいものが流れていた。
 いや、私が話しかければ、彼女は即座に応えてくれるだろう。「なあに、パパ?」と言って本から顔を上げ、その美しい顔に笑みを浮かべて私を見てくれるはずだ。
 だが、その顔には、かつてはなかった影がうっすらと覆うようになってしまった。その影の向こうに本心を隠して、いつでも私から逃げられるようにしている用心深さが垣間見える。
「パパ、待ってたわ!」
 そう叫んで、無邪気に私の首にしがみついていた少女の顔は消えてなくなった。
 あの日、私は何かを間違えたのだろうか? あれが唯一の正解だと信じていたが、実際は何か取り返しのつかない間違いを犯してしまったのだろうか?
 あの日の視界一面、粉雪で真っ白に煙った景色。世の中から一切の音が消えたような静寂と、唯一感じる呼吸と鼓動。そして、行く先が見えず、どこにいるのか、どこを目指して進んでいるのか分からないまま、あてどもなくぶらぶらしている自分自身に対するぶつけようのない怒りと所在なさ。そして、先の見えない重苦しさ。それらを背負って歩いていた。
 そんな状況で、あの小屋を見つけたのだった。
 当時、私はヴァルショヴァからモスコヴァへの帰路の途中だった。
 しかし、そのまままっすぐモスコヴァに帰る気にはなれず、誰にも行き先を告げず、また目的地も決めず、一人でふらふらと各地の町村を旅していた。足を止めてしまうと頭の奥が刺刺してくるので、一カ所に落ち着くことはせず、ひっきりなしに移動していた。
 そんな遁走の日々の中で、その小屋を見つけたのだ。
 その森があった村のことは忘れてしまった。どうしてその駅で降りようとしたのかも今では覚えていない。ただ、衝動のままに足を動かしているうちに、気がつくと森の中を歩いていたのだった。
 ひたすら雪道を歩いていると、疲れを覚えた。足を止め、息を整えようと、ふと見上げた視線の先に、それが見えた。しんしんと落ちる雪の動きとは逆に、煙がのんびりした動きで空を目指して上っていく。
 街から遠く離れた森だ。ここに来るまでは人間はもちろん、どんな動物の影すら感じなかったはずだ。そんな眠ったような場所に、火の気があるとはどういうことだ?
 不穏な予感に体が強ばった。だが一方で、こんなところにいるのはどんな奴なんだろうという単純な好奇心も湧いた。
 十月革命が起きて以来、この国で平穏無事に生きていられる場所などどこにもなかった。また階級の上下や資産の有無にかかわらず、革命の動乱と無縁でいられる人間もいないはずだ。
 まして今は、隣人同士が血で血を洗う闘争を繰り広げている。
 この国が、その歴史の根底からひっくり返るほどの動乱の世とあれば、誰も彼も心がざわつき、不安に苛まれているというのに、あの煙は俗世間の忙しなさからも、混乱の叫び声にも耳を貸さずに超然としているように見えた。この時代にあって、安らぎに満ちた暮らしをしている人間がいるとすれば、それはきっと革命の手から逃れた貴族階級の人間だろう。
 事実そうであれば捕縛して、身柄をチェーカーに引き渡せばあいつらへの牽制となるはずだ。万が一違ったとしても、革命に参加もせず、こんな安穏とした生活をしているような人間は明らかに反革命分子なのだから、結局は同じことをするだけだった。
 そう考えて、あの煙の下を目指して雪の中を進んでいく。
 だが、どこを見ても整備されたように見える道は見えず、通れるようなものは獣道としか言いようのない道だった。木々の隙間を慎重に選びながら進んだ先に、その小屋はあった。
 小さな掘っ立て小屋としか言いようがない代物だが、小綺麗で、しっかり手入れはされているようで、決してどこにも見窄らしい印象はない。また、小屋の壁には鍬や鎌が掛けられ、薪がひっそりと積まれている。そして、小屋の脇の空間をよく見ると、冬になる前は畑だったらしい跡があった。
 ああ、やっぱりな。こいつは紛れもない反革命分子のアジトだ。
 そう結論づけて、小屋全体を改めて眺めた。
 屋根にようやくひっついているといった頼りない小さな煙突が、さっき見たのと同じような具合にぽやぽやと煙を吐いている。
 入口と思われる扉の前に立つと、そっと腰の拳銃に手をやり、状態を確認する。使う必要がなければないに越したことはないが、脅しや威嚇のために相手に見えるようにしておくことは重要だった。
 頼むから、無駄な仕事はさせてくれるなよ。
 そんなことを思いながら、扉を叩く。
 最初は軽く三回、次は少し力を入れて三回。だが、中からは何の返答もない。 
 予想通りの反応だが、こちらを明確に認識しておきながら拒むような態度はやはり面白くない。向こうがそう来るのであれば、こっちとしては強行手段に打って出るしかないというわけか。しかし、予告もなく踏み入るのもルール違反と考えて、一応の礼儀として断りを入れる。
「赤軍だ。中にいるんだろう? 隠れても無駄だというのは理解してるはずだ。早く開けなさい。こちらとしては危害を加えようなどとは思っていないが、あなたが頑なに抵抗するというのなら……」
 と言っていると、いきなり扉が開いて、中から人が出て来た。
 頬の痩けた長身の若い男だった。
「すみません。床に伏していたものですから、出てくるのに手間取ってしまって……」

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