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第三章 隼人の穀璧
第13話 蛇行剣の女
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ホウ、ホウ――
梟が啼いている。
夜も更けて、村の中は静まり返っている。宴に疲れた隼人の村人たちも深い眠りに落ちている。
磐余彦の一行は、隼手王子が用意してくれた賓客用の高殿で眠っている。
夜明けまでは暫く時間がある。
そのとき、寝ていたはずの日臣が暗闇の中で僅かに身を起こした。
「何か来ます」
磐余彦に近づいて耳元で囁く。手には素環頭大刀が握られている。
「分かっている」
磐余彦が静かに答えた。磐余彦もまた、異変に気づいている。
「来目」
「分かってまさあ」
日臣の囁きにぱっと目を開けた来目は、静かに起き上がり「ちょっと見て来ます」と言って闇に消えた。
来目は熊襲きっての狩りの名人である。
森の中でも自由に動き回れるだけでなく、気配を消して獲物や敵に近づき、一撃で仕留める力がある。
敵の村に忍び込んでの偵察や、人懐こさを発揮して、何気ないやりとりからの情報収集にも長けている。
ひとことで言えば忍び――この時代にはまだ存在しないが――のような存在である。
五瀬命はまだ高いびきをかいている。昨夜は隼手に相撲で負けたこともあり、芋酒を浴びるほど呑んだのだ。
磐余彦が五瀬命の身体を揺すって起こしたとき、ちょうど来目が戻ってきた。
「環濠の北側の木の上に、人の気配がありますね。それと入り口から百歩ほど離れた茂みにヤマトの兵が潜んでます。数はざっと三十」
この環濠には老若男女、数百人の隼人族が暮らしている。
環濠の高さは十尺(約三メートル)ほど。外側には水を張った掘があり、何重にも巡らせている。
入り口の扉は跳ね橋になっており、橋を上げてしまえば、大軍が攻めてきても簡単には破られない。
だが、まったく弱点がないわけではない。
北側の塀に近い場所に巨樹が数本そびえている。そこを伝って誰かが環濠内に忍び込み、内側から橋を下ろせば軍勢を引き入れることが可能だ。
「隼人の兵士は?」
「まだ寝てますね。昨日あれだけ騒いだから仕方ないけど」
「そうか。寝込みを襲われたら火の海になる」
ふだんは夜を徹しての見張り役がいるはずだが、昨夜は村を挙げての宴が開かれ、見張り役たちもうたた寝をしているようだ。
それを承知の上で、ヤマト兵は奇襲を仕掛けるつもりなのだ。
一瞬思いを巡らせたのち、磐余彦は来目に言った。
「とりあえず、隼手王子に知らせねば。我らはヤマト兵が環濠に侵入したところを、背後から襲うと伝えてくれ」
「合点です」
来目はふたたび音もなく闇に消えていった。
こちらの戦力は磐余彦、五瀬命の兄弟と日臣、来目のみ。勇猛で知られる五瀬命や日臣がいるとはいえ、数の上では圧倒的に不利である。
だが磐余彦は、不思議なほど落ち着いていた。
環濠の橋が静かに降りてきた。
先に侵入したヤマト兵の仕業である。兵士の一団がひたひたと環濠内に吸い込まれていく。
先頭に立つ男は鹿角兜を被っている。クマシカデに違いない。
侵入者がまさに隼人の集落に襲いかかろうとする寸前、
「待て!」磐余彦が声を上げた。
ぎょっとして振り返るクマシカデとヤマト兵たち。
環濠の入り口を塞ぐように、三人の影が見える。
磐余彦、五瀬命、日臣である。
最初は動揺したヤマト兵だったが、こちらが寡兵なのを知ると逆に取り囲んだ。返り討ちにしようという肚だ。
「なぜ隼人を狙うのだ?」
クマシカデの正面に立った磐余彦が問い質す。
「知れたこと。穀璧を奪えば隼人が従う。日向も筑紫も同じ、すぐに吾らのものだ!」
クマシカデが憎悪の感情を露わにして叫んだ。
「それはヤマト王の命令か?」
「いや、父も兄も小国に甘すぎる。吾が九州の王となって力を父に認めさせてやる。これはその始まりにすぎない!」
「ここにはお前に従う者などいない。大人しく帰ってはどうだ」
「それなら、皆殺しにするまでだ!」
その時、ウオーッという雄叫びを上げながら、黒い集団が横から猛烈な勢いで突進してきた。
「山犬だ!」
何十頭もの狼が猛烈な勢いで走ってくる。だがよく見ると、獣の毛皮を被った人間の一団である。
ただし剣や槍、斧を手に、血走った目で迫り来るその姿は、狼そのものだった。
「ウオーン」という遠吠えが、おどろおどろしさを倍加させている。
ヤマトの兵たちはその不気味さに怯えて棒立ちになり、逃げ出す者も現れた。
「待て、逃げるな、戦え!」
クマシカデが狂ったように叫ぶが、もはや統率が取れない。完全に恐慌を来している。
逃げ惑うヤマトの兵に矢の雨が降り注ぎ、ばたばたと倒れていく。背中には何本もの矢が刺さっている。
刺さった矢を抜こうとした兵が、あまりの痛みに悶絶する。
抜けないのも道理で、鏃は隼人独特の二段逆刺鉄鏃が付いている。
破壊力が高いうえに鏃の先が二段になっており、無理に抜こうとすると肉までそぎ取られてしまう。
恐怖にかられたヤマト兵は、蜘蛛の子を散らすように散り散りに逃げていった。
気がついた時には、クマシカデは敵陣の只中にぽつんと取り残されていた。
「どけ、どけ!」
クマシカデは血路を開こうと、必死になって剣を振り回した。
包囲の輪が崩れかかった時、日臣がすっと歩み出た。
日臣はクマシカデの剣を軽く受け流すと、入れ違いざまにクマシカデの剣を叩き落した。鮮やかな剣さばきである。
無腰のクマシカデの前に立ちはだかったのは隼手である。
隼手を見てクマシカデがにやりと笑った。小兵で組み易しと踏んだようだ。
――こいつを人質にすれば、包囲から逃げられるだろう。
だが、その甘い考えはすぐに吹き飛ばされた。
隼手が低い姿勢から猛烈な勢いで突進した。
がちん、と頭と頭が衝突し、あまりの衝撃にクマシカデの目から火花が散った。
気がつくとクマシカデは、二間(三・六メートル)も吹き飛ばされていた。
「すげえ石頭だ!」
来目が震え上がるほどの強烈な頭突きである。
脳震盪を起こしたクマシカデの背後に回った隼手は、間髪を容れずクマシカデの身体を持ち上げ、
「ソーラヨイ!」
という掛け声とともに高く放り投げた。恐るべき怪力である。
「うわっ!」
宙を舞うクマシカデを待ち構えていたのは、なんと阿多比売だった。
隼人の象徴である穂先に蛇行剣の付いた槍を構え、落下してくるクマシカデの身体をずぶりと貫いた。
――ぎゃあ!
絶叫とともにクマシカデは地面に落ち、二度と起き上がらなかった。
兄妹による見事な連係で、父の仇を討ったのである。
阿多比売は返り血を浴びたまま仁王立ちになっている。その姿は昨夜見た控えめで楚々とした印象とはまったく違い、猛々しさに溢れていた。
「おっかねえ……」
そう言ったきり来目が絶句した。
宴会ではただ可愛い女としか思わず、危うく口説こうとした。うっかり手を出していたら、どうなっていたか――。
来目の背筋に冷たい汗が流れた。
「敵の大将を討ち取ったぞ!」
隼手が右手を高く上げて叫び、ウオーンと吠えた。
それに合わせて隼人の兵士たちも一斉に吠え、勝鬨を上げた。
ウオーン、ウオーンというおどろおどろしい犬吠えが薄闇にこだました。
梟が啼いている。
夜も更けて、村の中は静まり返っている。宴に疲れた隼人の村人たちも深い眠りに落ちている。
磐余彦の一行は、隼手王子が用意してくれた賓客用の高殿で眠っている。
夜明けまでは暫く時間がある。
そのとき、寝ていたはずの日臣が暗闇の中で僅かに身を起こした。
「何か来ます」
磐余彦に近づいて耳元で囁く。手には素環頭大刀が握られている。
「分かっている」
磐余彦が静かに答えた。磐余彦もまた、異変に気づいている。
「来目」
「分かってまさあ」
日臣の囁きにぱっと目を開けた来目は、静かに起き上がり「ちょっと見て来ます」と言って闇に消えた。
来目は熊襲きっての狩りの名人である。
森の中でも自由に動き回れるだけでなく、気配を消して獲物や敵に近づき、一撃で仕留める力がある。
敵の村に忍び込んでの偵察や、人懐こさを発揮して、何気ないやりとりからの情報収集にも長けている。
ひとことで言えば忍び――この時代にはまだ存在しないが――のような存在である。
五瀬命はまだ高いびきをかいている。昨夜は隼手に相撲で負けたこともあり、芋酒を浴びるほど呑んだのだ。
磐余彦が五瀬命の身体を揺すって起こしたとき、ちょうど来目が戻ってきた。
「環濠の北側の木の上に、人の気配がありますね。それと入り口から百歩ほど離れた茂みにヤマトの兵が潜んでます。数はざっと三十」
この環濠には老若男女、数百人の隼人族が暮らしている。
環濠の高さは十尺(約三メートル)ほど。外側には水を張った掘があり、何重にも巡らせている。
入り口の扉は跳ね橋になっており、橋を上げてしまえば、大軍が攻めてきても簡単には破られない。
だが、まったく弱点がないわけではない。
北側の塀に近い場所に巨樹が数本そびえている。そこを伝って誰かが環濠内に忍び込み、内側から橋を下ろせば軍勢を引き入れることが可能だ。
「隼人の兵士は?」
「まだ寝てますね。昨日あれだけ騒いだから仕方ないけど」
「そうか。寝込みを襲われたら火の海になる」
ふだんは夜を徹しての見張り役がいるはずだが、昨夜は村を挙げての宴が開かれ、見張り役たちもうたた寝をしているようだ。
それを承知の上で、ヤマト兵は奇襲を仕掛けるつもりなのだ。
一瞬思いを巡らせたのち、磐余彦は来目に言った。
「とりあえず、隼手王子に知らせねば。我らはヤマト兵が環濠に侵入したところを、背後から襲うと伝えてくれ」
「合点です」
来目はふたたび音もなく闇に消えていった。
こちらの戦力は磐余彦、五瀬命の兄弟と日臣、来目のみ。勇猛で知られる五瀬命や日臣がいるとはいえ、数の上では圧倒的に不利である。
だが磐余彦は、不思議なほど落ち着いていた。
環濠の橋が静かに降りてきた。
先に侵入したヤマト兵の仕業である。兵士の一団がひたひたと環濠内に吸い込まれていく。
先頭に立つ男は鹿角兜を被っている。クマシカデに違いない。
侵入者がまさに隼人の集落に襲いかかろうとする寸前、
「待て!」磐余彦が声を上げた。
ぎょっとして振り返るクマシカデとヤマト兵たち。
環濠の入り口を塞ぐように、三人の影が見える。
磐余彦、五瀬命、日臣である。
最初は動揺したヤマト兵だったが、こちらが寡兵なのを知ると逆に取り囲んだ。返り討ちにしようという肚だ。
「なぜ隼人を狙うのだ?」
クマシカデの正面に立った磐余彦が問い質す。
「知れたこと。穀璧を奪えば隼人が従う。日向も筑紫も同じ、すぐに吾らのものだ!」
クマシカデが憎悪の感情を露わにして叫んだ。
「それはヤマト王の命令か?」
「いや、父も兄も小国に甘すぎる。吾が九州の王となって力を父に認めさせてやる。これはその始まりにすぎない!」
「ここにはお前に従う者などいない。大人しく帰ってはどうだ」
「それなら、皆殺しにするまでだ!」
その時、ウオーッという雄叫びを上げながら、黒い集団が横から猛烈な勢いで突進してきた。
「山犬だ!」
何十頭もの狼が猛烈な勢いで走ってくる。だがよく見ると、獣の毛皮を被った人間の一団である。
ただし剣や槍、斧を手に、血走った目で迫り来るその姿は、狼そのものだった。
「ウオーン」という遠吠えが、おどろおどろしさを倍加させている。
ヤマトの兵たちはその不気味さに怯えて棒立ちになり、逃げ出す者も現れた。
「待て、逃げるな、戦え!」
クマシカデが狂ったように叫ぶが、もはや統率が取れない。完全に恐慌を来している。
逃げ惑うヤマトの兵に矢の雨が降り注ぎ、ばたばたと倒れていく。背中には何本もの矢が刺さっている。
刺さった矢を抜こうとした兵が、あまりの痛みに悶絶する。
抜けないのも道理で、鏃は隼人独特の二段逆刺鉄鏃が付いている。
破壊力が高いうえに鏃の先が二段になっており、無理に抜こうとすると肉までそぎ取られてしまう。
恐怖にかられたヤマト兵は、蜘蛛の子を散らすように散り散りに逃げていった。
気がついた時には、クマシカデは敵陣の只中にぽつんと取り残されていた。
「どけ、どけ!」
クマシカデは血路を開こうと、必死になって剣を振り回した。
包囲の輪が崩れかかった時、日臣がすっと歩み出た。
日臣はクマシカデの剣を軽く受け流すと、入れ違いざまにクマシカデの剣を叩き落した。鮮やかな剣さばきである。
無腰のクマシカデの前に立ちはだかったのは隼手である。
隼手を見てクマシカデがにやりと笑った。小兵で組み易しと踏んだようだ。
――こいつを人質にすれば、包囲から逃げられるだろう。
だが、その甘い考えはすぐに吹き飛ばされた。
隼手が低い姿勢から猛烈な勢いで突進した。
がちん、と頭と頭が衝突し、あまりの衝撃にクマシカデの目から火花が散った。
気がつくとクマシカデは、二間(三・六メートル)も吹き飛ばされていた。
「すげえ石頭だ!」
来目が震え上がるほどの強烈な頭突きである。
脳震盪を起こしたクマシカデの背後に回った隼手は、間髪を容れずクマシカデの身体を持ち上げ、
「ソーラヨイ!」
という掛け声とともに高く放り投げた。恐るべき怪力である。
「うわっ!」
宙を舞うクマシカデを待ち構えていたのは、なんと阿多比売だった。
隼人の象徴である穂先に蛇行剣の付いた槍を構え、落下してくるクマシカデの身体をずぶりと貫いた。
――ぎゃあ!
絶叫とともにクマシカデは地面に落ち、二度と起き上がらなかった。
兄妹による見事な連係で、父の仇を討ったのである。
阿多比売は返り血を浴びたまま仁王立ちになっている。その姿は昨夜見た控えめで楚々とした印象とはまったく違い、猛々しさに溢れていた。
「おっかねえ……」
そう言ったきり来目が絶句した。
宴会ではただ可愛い女としか思わず、危うく口説こうとした。うっかり手を出していたら、どうなっていたか――。
来目の背筋に冷たい汗が流れた。
「敵の大将を討ち取ったぞ!」
隼手が右手を高く上げて叫び、ウオーンと吠えた。
それに合わせて隼人の兵士たちも一斉に吠え、勝鬨を上げた。
ウオーン、ウオーンというおどろおどろしい犬吠えが薄闇にこだました。
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