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第十章 纏向の悲劇
第54話 勇者の背中
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「知ってのとおり、吾は出雲の出だ。力及ばずヤマトの軍門に降り、いまは生駒の鳥見に館がある。だが心は今も出雲にある」
長髄彦が懐かしそうに語った。
日向軍が河内に上陸した際、長髄彦軍との間で激しい戦闘が繰り広げられた。
磐余彦の長兄五瀬命はその戦いで腕に矢を受け、その傷が元で命を落とした。
「吾らはあれで勝ったと思うた。だが汝らは短い期間に信じられぬほどの力をつけ、吾らをここまで追い込んだ。実に見事な戦いぶりじゃ」
「自分ひとりの力ではありません。ここにいる仲間の他にも、死んだ兄や多くの仲間が力を貸してくれました。そして天神の導きも賜り、ここまで来られたのです」
磐余彦が答えると、長髄彦はわずかに口の端を上げて頷いた。「善き哉」とでも言うような優しい笑みだった。
「やはり〈天神の子〉の噂は真のようだな。ならば今いる王に代わって、新たなヤマト王となる大義は十分にある」
長髄彦は今度は皮肉な笑みを見せて、後ろに控える少彦名に言った。
少彦名がため息交じりに答えた。
「問題はニギハヤヒさまじゃ。あの方が自ら身を引かれるというならば、儂らも最早戦う理由がなくなる」
長髄彦に付き従ってきた出雲以来の宿将も、長引く戦いに倦んでいるようだった。
「だが、ニギハヤヒさまの心根が今ひとつはっきりせぬ。『儂はいずれ磐余彦に王位を譲ってもよいと思うておるが、まだその時期ではない。だからそなた達にはまだ戦っていてほしい』と言うのが本心と見ておりますが」
少彦名が眉間に刻まれた皺を寄せて言った。
「つまり、『我が身の安全が保証されるまでは、王座は降りない』ということなのですね」
椎根津彦の鋭い指摘に、少彦名の眉間の皺がさらに深くなった。
「さよう、『降りて欲しくば、褒美をよこせ』という、大した王じゃ」
少彦名が言うと、二人の軍師は顔を見合わせて苦笑した。
親子ほども年が離れた少彦名と椎根津彦だが、互いの才覚を認め合っているようだ。
「あの方は『亡き女王のために』と申さば、吾らがただ従うと思っておるのだ」
長髄彦が苦々し気に吐き捨てた。
ニギハヤヒに国を統べる力がないことは、誰もが承知している。
それでもこの麗しき国を、女王卑弥呼が愛した大地を、むざむざと余所者に明け渡してはならじ。
その一点でニギハヤヒを支えてきた長髄彦である。
――吾とて時代の流れに棹さすことは潔しとせぬ。だが吾を倒せぬ者に、新たな国など造れるはずがない。ヤマトに歯向かう者に吾が立ちはだかってきたのは、ただその一念じゃ。
長髄彦が持ち続けた信念が揺らぐことは、これまでなかった。
――だがこの朽ちかけたヤマトを、そうまでして生き長らえさせる価値があるのか?
そう思うようになったのは、自分が老いたせいかもしれない。そして、
――磐余彦にはその資格があるのかもしれぬ。
いまや長髄彦はそう考えるようになっていた。
磐余彦は高貴な血筋と風格に加え、慈悲の心を備えているように映る。
これこそがまさに天神の子、つまり王者に求められる資質である。
道臣や椎根津彦のような一騎当千の若者たちが、素直に、かつ懸命に付き従うのが、何よりの証左であろう。
「もう誰も死なせたくはないのです、敵も味方も。吾とともに新しき国を造っていただけませんか」
磐余彦が真摯に問いかけた。
だが長髄彦は首を縦に振らなかった。
「勘違いするな。吾にはいまさら新しき国造りなどする気など毛頭ない。吾の願いはせめて禍根を残さぬよう、露払いして果てるだけだ」
「ヤマトに殉じるということですか?」
「ああ……」
言いかけて長髄彦は口を閉じ、にやりと笑った。
「それも嘘じゃ。本音はヤマトの行く末など最早どうでもよい。吾はただ戦いが好きなのだ。この度もニギハヤヒの優柔不断さを利用して戦いを続けてきた――」
長髄彦は言葉を切り、虚空を見据えた。
瞳に悲しみの色があった。
「これまではそれでよかった。だがこの前の戦いで兄の安日彦が傷を負った。吾が無益な戦いを繰り返した結果がこれだ……」
磐余彦は不思議な感動を覚えた。
権力や地位には恋々とせず、戦うことのみに悦びを見出してきた男が、今や悔恨の姿を隠そうともしない。
だがふたたび磐余彦を見据えた時には、長髄彦は毅然とした顔に戻っていた。
「どうやら吾にも、もうひとつ仕事が残っているようだ」
長髄彦が立ち上がって言った。
「ニギハヤヒに降伏を説いてみよう」
「長髄彦どの!」
謝意を伝えようとして立ち上がる磐余彦を、長髄彦は制した。
「説得できるとは限らぬ。汝とはまた戦場でまみえることになるかもしれぬ」
結果が出る前に礼など言われたくない、というせめてもの意地なのかもしれない。
会談を終え、去っていく長髄彦の後ろ姿を見送りながら椎根津彦が呟いた。
「どうぞご無事で」
「どういうことだ?」
磐余彦が驚いて振り返った。
椎根津彦は一瞬顔を曇らせたが、つとめて平静に言った。
「長髄彦さまが疑われなければよいと思ったのです」
「何を?」
磐余彦は戸惑ったが、すぐに気づいた。
「まさか、我らに寝返ったと?」
ヤマトきっての勇者、長髄彦の背中が遠ざかっていく。
駈け出そうとする磐余彦の前に、道臣が両手を広げて立ちはだかった。
「行ってはなりません」
強い調子で制止した。
「どけ!」
磐余彦は剣を抜いて道臣に剣先を向けた。「どかねば斬るぞ!」と形相である。
しかし道臣はいささかも怯まなかった。
「どきません。行かせるわけには断じて参りません!」
その気迫に気された磐余彦はぐっと唇を噛み、椎根津彦を睨んだ。
「臣の思い過ごしかもしれません」
椎根津彦が感情を押し殺して言うと、警護を終えて現れた来目が、「そうだ。きっとそうだよ」と妙にはしゃいだ声で笑った。
笑い声が途絶えると、重苦しい沈黙があたりを覆った。
長髄彦が懐かしそうに語った。
日向軍が河内に上陸した際、長髄彦軍との間で激しい戦闘が繰り広げられた。
磐余彦の長兄五瀬命はその戦いで腕に矢を受け、その傷が元で命を落とした。
「吾らはあれで勝ったと思うた。だが汝らは短い期間に信じられぬほどの力をつけ、吾らをここまで追い込んだ。実に見事な戦いぶりじゃ」
「自分ひとりの力ではありません。ここにいる仲間の他にも、死んだ兄や多くの仲間が力を貸してくれました。そして天神の導きも賜り、ここまで来られたのです」
磐余彦が答えると、長髄彦はわずかに口の端を上げて頷いた。「善き哉」とでも言うような優しい笑みだった。
「やはり〈天神の子〉の噂は真のようだな。ならば今いる王に代わって、新たなヤマト王となる大義は十分にある」
長髄彦は今度は皮肉な笑みを見せて、後ろに控える少彦名に言った。
少彦名がため息交じりに答えた。
「問題はニギハヤヒさまじゃ。あの方が自ら身を引かれるというならば、儂らも最早戦う理由がなくなる」
長髄彦に付き従ってきた出雲以来の宿将も、長引く戦いに倦んでいるようだった。
「だが、ニギハヤヒさまの心根が今ひとつはっきりせぬ。『儂はいずれ磐余彦に王位を譲ってもよいと思うておるが、まだその時期ではない。だからそなた達にはまだ戦っていてほしい』と言うのが本心と見ておりますが」
少彦名が眉間に刻まれた皺を寄せて言った。
「つまり、『我が身の安全が保証されるまでは、王座は降りない』ということなのですね」
椎根津彦の鋭い指摘に、少彦名の眉間の皺がさらに深くなった。
「さよう、『降りて欲しくば、褒美をよこせ』という、大した王じゃ」
少彦名が言うと、二人の軍師は顔を見合わせて苦笑した。
親子ほども年が離れた少彦名と椎根津彦だが、互いの才覚を認め合っているようだ。
「あの方は『亡き女王のために』と申さば、吾らがただ従うと思っておるのだ」
長髄彦が苦々し気に吐き捨てた。
ニギハヤヒに国を統べる力がないことは、誰もが承知している。
それでもこの麗しき国を、女王卑弥呼が愛した大地を、むざむざと余所者に明け渡してはならじ。
その一点でニギハヤヒを支えてきた長髄彦である。
――吾とて時代の流れに棹さすことは潔しとせぬ。だが吾を倒せぬ者に、新たな国など造れるはずがない。ヤマトに歯向かう者に吾が立ちはだかってきたのは、ただその一念じゃ。
長髄彦が持ち続けた信念が揺らぐことは、これまでなかった。
――だがこの朽ちかけたヤマトを、そうまでして生き長らえさせる価値があるのか?
そう思うようになったのは、自分が老いたせいかもしれない。そして、
――磐余彦にはその資格があるのかもしれぬ。
いまや長髄彦はそう考えるようになっていた。
磐余彦は高貴な血筋と風格に加え、慈悲の心を備えているように映る。
これこそがまさに天神の子、つまり王者に求められる資質である。
道臣や椎根津彦のような一騎当千の若者たちが、素直に、かつ懸命に付き従うのが、何よりの証左であろう。
「もう誰も死なせたくはないのです、敵も味方も。吾とともに新しき国を造っていただけませんか」
磐余彦が真摯に問いかけた。
だが長髄彦は首を縦に振らなかった。
「勘違いするな。吾にはいまさら新しき国造りなどする気など毛頭ない。吾の願いはせめて禍根を残さぬよう、露払いして果てるだけだ」
「ヤマトに殉じるということですか?」
「ああ……」
言いかけて長髄彦は口を閉じ、にやりと笑った。
「それも嘘じゃ。本音はヤマトの行く末など最早どうでもよい。吾はただ戦いが好きなのだ。この度もニギハヤヒの優柔不断さを利用して戦いを続けてきた――」
長髄彦は言葉を切り、虚空を見据えた。
瞳に悲しみの色があった。
「これまではそれでよかった。だがこの前の戦いで兄の安日彦が傷を負った。吾が無益な戦いを繰り返した結果がこれだ……」
磐余彦は不思議な感動を覚えた。
権力や地位には恋々とせず、戦うことのみに悦びを見出してきた男が、今や悔恨の姿を隠そうともしない。
だがふたたび磐余彦を見据えた時には、長髄彦は毅然とした顔に戻っていた。
「どうやら吾にも、もうひとつ仕事が残っているようだ」
長髄彦が立ち上がって言った。
「ニギハヤヒに降伏を説いてみよう」
「長髄彦どの!」
謝意を伝えようとして立ち上がる磐余彦を、長髄彦は制した。
「説得できるとは限らぬ。汝とはまた戦場でまみえることになるかもしれぬ」
結果が出る前に礼など言われたくない、というせめてもの意地なのかもしれない。
会談を終え、去っていく長髄彦の後ろ姿を見送りながら椎根津彦が呟いた。
「どうぞご無事で」
「どういうことだ?」
磐余彦が驚いて振り返った。
椎根津彦は一瞬顔を曇らせたが、つとめて平静に言った。
「長髄彦さまが疑われなければよいと思ったのです」
「何を?」
磐余彦は戸惑ったが、すぐに気づいた。
「まさか、我らに寝返ったと?」
ヤマトきっての勇者、長髄彦の背中が遠ざかっていく。
駈け出そうとする磐余彦の前に、道臣が両手を広げて立ちはだかった。
「行ってはなりません」
強い調子で制止した。
「どけ!」
磐余彦は剣を抜いて道臣に剣先を向けた。「どかねば斬るぞ!」と形相である。
しかし道臣はいささかも怯まなかった。
「どきません。行かせるわけには断じて参りません!」
その気迫に気された磐余彦はぐっと唇を噛み、椎根津彦を睨んだ。
「臣の思い過ごしかもしれません」
椎根津彦が感情を押し殺して言うと、警護を終えて現れた来目が、「そうだ。きっとそうだよ」と妙にはしゃいだ声で笑った。
笑い声が途絶えると、重苦しい沈黙があたりを覆った。
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