55 / 60
第十章 纏向の悲劇
第55話 砂塵
しおりを挟む
磐余彦との会見を終えた長髄彦が自陣に戻ると、一人の兵士が駆け寄って来た。
「おかしな噂が流れています。長髄彦さまを裏切り者として捕えるというものです」
「なんだと!」
長髄彦の目がぎらりと光った。
しかしその光はすぐに消え、長髄彦は傍にいた少彦名に声を掛けた。
「すまぬが、すぐに兄者と三炊屋の元へ走ってくれ」
兄の安日彦は先日の戦いで磐余彦の放った矢を受けて負傷した。
その矢は皮肉にも、かつて長髄彦が磐余彦に授けた天羽羽矢である。
安日彦は今、妹の三炊屋媛の館で手当てを受けている。
「そのまま兄者を守り東国へ行け」
つまり、兄たちを連れて落ち延びろということである。
「そんな、儂も一緒に戦わせて下され!」
出雲以来の老宿将は懇願した。
当然である。ここまでさまざまな危機を乗り越え、あらゆる労苦を共にしてきたのに、あまりにも勝手な言い草だ。
「もう終いだ。これ以上皆を死なせたくない。頼む!」
長髄彦の兄安日彦は、のちに東北地方に逃げ落ち、蝦夷の王となったとの伝承がある。
平安後期の前九年、後三年の役で朝廷を震撼させた安倍貞任、宗任ら安倍一族の祖となった、という言い伝えだが、定かではない。
間もなく、伝令が来た。
「ニギハヤヒさまがお呼びです」
ニギハヤヒの近衛軍は、長髄彦の陣から後方へ一里、纏向に布陣している。
「分かった、すぐに行く」
答えた長髄彦は少彦名の顔を振り返った。
少彦名が黙って頷くと、長髄彦も頷き返した。
寂寞とした空気が漂った。
共に今生の別れとなる運命を察知していた。
近衛軍の本陣で待つニギハヤヒの顔は憤怒に満ちていた。
「どういうことだ!」
「はて、どうとは?」
長髄彦が軽蔑の眼差しで問い返す。
「これは何だ!」
ニギハヤヒが突き出したのは一本の黒い矢である。
紛れもなく、磐余彦が放ち、安日彦を傷つけた天羽羽矢である。
――いったい誰が、吾の陣から持ち出したのだ?
ニギハヤヒの背後に玄狐がいて、薄笑いを浮かべていた。
玄狐が盗み、密告したに違いない。
玄狐ははじめ日向吉備合同軍の一員として遠征に参加したが、途中で長髄彦側に内通した。
玄狐は少彦名と謀って日向軍を孔舎衛坂に誘い込み、窮地に陥れた。
そして今また長髄彦を裏切り、ニギハヤヒに付こうとしている。
「一度裏切った者は、何度でも裏切るというのは本当だった」
長髄彦がじろりと睨むと、玄狐は怯えるようにニギハヤヒの背中に隠れた。
ニギハヤヒはもう一本の黒い矢を取り出した。
磐余彦が放った矢と瓜二つである。
だが比べてみると美しさといい鏃の黒い耀きといい、明らかに見劣りする。
これまで本物と信じて疑わなかった偽の天羽羽矢である。
「これは偽物であろう!」
ニギハヤヒが怒りに顔面を紅潮させて長髄彦に詰め寄った。
「さて、何のことやら」
長髄彦はとぼけたが、ひそかに舌打ちしていた。
今から十数年前、長髄彦が偶然出会って気まぐれに弓矢を授けた少年が、成長して日向軍の首領として現れた。
なんという偶然だ。
――あの時吾は、ニギハヤヒに渡すぐらいならと、あの小僧に呉れてやった。
そして偽の天羽羽矢と歩鞆を作り――作ったのは吉備時代の剣根である――ニギハヤヒに献上したのだ。
そうとも知らず、ニギハヤヒは王権の証を得たと満足し、増長してヤマトを治めた。
「弓矢と歩鞆は、我ら天孫族のみに許された王権の証じゃ。ところが敵も同じ物を持っていた。むしろ磐余彦という田舎者が持っていた矢のほうが正統だった」
ヤマトは間もなく滅び、ニギハヤヒも王の座を追われるであろう。
だがそれは断じて弓矢の有無のせいではない。
ひとえに己の力と徳の無さのせいだ。
ニギハヤヒは偽の天羽羽矢を目の前に掲げ、両手に力を込めた。
あっけないほど乾いた音とともに、矢が二つに折れた。
ニギハヤヒの目に昏い煌きが宿った。
「よくも……吾を虚仮にしたな」
長髄彦は瞑目したまま返答しなかった。
「吾は磐余彦に降ることにした。他の豪族たちも賛同している」
ニギハヤヒは赤い目をぎらつかせて冷酷な笑みを浮かべた。
「ついては土産がいる」
ニギハヤヒが「裏切り者を殺せ!」と叫ぶと同時に、十数人の兵士がいっせいに長髄彦に襲いかかった。
こうしてヤマトきっての勇将と謳われた男は、味方である兵卒の刃にかかって斃れた。
血に染まった大地をかき消すように、大和盆地に砂塵が舞った。
兵士たちに刃を向けられても、長髄彦はなぜか剣を抜かなかった。
長髄彦ほどの歴戦の勇者なら、血塗れになっても切り結び、血路を開くことも可能だった筈だ。
それが一合も交えず、切り刻まれたのはなんとも不可解だった。
むしろ、大地に崩れてなお長髄彦の目には、ニギハヤヒに対する憐みの色さえ浮かんでいた。
それは仕える甲斐のない主君に対する、絶望と憐憫の情だったのかもしれない。
こうしてヤマト随一の忠臣長髄彦は、主君ニギハヤヒの裏切りにより、あえない最期を遂げた。
(第十章終わり)
「おかしな噂が流れています。長髄彦さまを裏切り者として捕えるというものです」
「なんだと!」
長髄彦の目がぎらりと光った。
しかしその光はすぐに消え、長髄彦は傍にいた少彦名に声を掛けた。
「すまぬが、すぐに兄者と三炊屋の元へ走ってくれ」
兄の安日彦は先日の戦いで磐余彦の放った矢を受けて負傷した。
その矢は皮肉にも、かつて長髄彦が磐余彦に授けた天羽羽矢である。
安日彦は今、妹の三炊屋媛の館で手当てを受けている。
「そのまま兄者を守り東国へ行け」
つまり、兄たちを連れて落ち延びろということである。
「そんな、儂も一緒に戦わせて下され!」
出雲以来の老宿将は懇願した。
当然である。ここまでさまざまな危機を乗り越え、あらゆる労苦を共にしてきたのに、あまりにも勝手な言い草だ。
「もう終いだ。これ以上皆を死なせたくない。頼む!」
長髄彦の兄安日彦は、のちに東北地方に逃げ落ち、蝦夷の王となったとの伝承がある。
平安後期の前九年、後三年の役で朝廷を震撼させた安倍貞任、宗任ら安倍一族の祖となった、という言い伝えだが、定かではない。
間もなく、伝令が来た。
「ニギハヤヒさまがお呼びです」
ニギハヤヒの近衛軍は、長髄彦の陣から後方へ一里、纏向に布陣している。
「分かった、すぐに行く」
答えた長髄彦は少彦名の顔を振り返った。
少彦名が黙って頷くと、長髄彦も頷き返した。
寂寞とした空気が漂った。
共に今生の別れとなる運命を察知していた。
近衛軍の本陣で待つニギハヤヒの顔は憤怒に満ちていた。
「どういうことだ!」
「はて、どうとは?」
長髄彦が軽蔑の眼差しで問い返す。
「これは何だ!」
ニギハヤヒが突き出したのは一本の黒い矢である。
紛れもなく、磐余彦が放ち、安日彦を傷つけた天羽羽矢である。
――いったい誰が、吾の陣から持ち出したのだ?
ニギハヤヒの背後に玄狐がいて、薄笑いを浮かべていた。
玄狐が盗み、密告したに違いない。
玄狐ははじめ日向吉備合同軍の一員として遠征に参加したが、途中で長髄彦側に内通した。
玄狐は少彦名と謀って日向軍を孔舎衛坂に誘い込み、窮地に陥れた。
そして今また長髄彦を裏切り、ニギハヤヒに付こうとしている。
「一度裏切った者は、何度でも裏切るというのは本当だった」
長髄彦がじろりと睨むと、玄狐は怯えるようにニギハヤヒの背中に隠れた。
ニギハヤヒはもう一本の黒い矢を取り出した。
磐余彦が放った矢と瓜二つである。
だが比べてみると美しさといい鏃の黒い耀きといい、明らかに見劣りする。
これまで本物と信じて疑わなかった偽の天羽羽矢である。
「これは偽物であろう!」
ニギハヤヒが怒りに顔面を紅潮させて長髄彦に詰め寄った。
「さて、何のことやら」
長髄彦はとぼけたが、ひそかに舌打ちしていた。
今から十数年前、長髄彦が偶然出会って気まぐれに弓矢を授けた少年が、成長して日向軍の首領として現れた。
なんという偶然だ。
――あの時吾は、ニギハヤヒに渡すぐらいならと、あの小僧に呉れてやった。
そして偽の天羽羽矢と歩鞆を作り――作ったのは吉備時代の剣根である――ニギハヤヒに献上したのだ。
そうとも知らず、ニギハヤヒは王権の証を得たと満足し、増長してヤマトを治めた。
「弓矢と歩鞆は、我ら天孫族のみに許された王権の証じゃ。ところが敵も同じ物を持っていた。むしろ磐余彦という田舎者が持っていた矢のほうが正統だった」
ヤマトは間もなく滅び、ニギハヤヒも王の座を追われるであろう。
だがそれは断じて弓矢の有無のせいではない。
ひとえに己の力と徳の無さのせいだ。
ニギハヤヒは偽の天羽羽矢を目の前に掲げ、両手に力を込めた。
あっけないほど乾いた音とともに、矢が二つに折れた。
ニギハヤヒの目に昏い煌きが宿った。
「よくも……吾を虚仮にしたな」
長髄彦は瞑目したまま返答しなかった。
「吾は磐余彦に降ることにした。他の豪族たちも賛同している」
ニギハヤヒは赤い目をぎらつかせて冷酷な笑みを浮かべた。
「ついては土産がいる」
ニギハヤヒが「裏切り者を殺せ!」と叫ぶと同時に、十数人の兵士がいっせいに長髄彦に襲いかかった。
こうしてヤマトきっての勇将と謳われた男は、味方である兵卒の刃にかかって斃れた。
血に染まった大地をかき消すように、大和盆地に砂塵が舞った。
兵士たちに刃を向けられても、長髄彦はなぜか剣を抜かなかった。
長髄彦ほどの歴戦の勇者なら、血塗れになっても切り結び、血路を開くことも可能だった筈だ。
それが一合も交えず、切り刻まれたのはなんとも不可解だった。
むしろ、大地に崩れてなお長髄彦の目には、ニギハヤヒに対する憐みの色さえ浮かんでいた。
それは仕える甲斐のない主君に対する、絶望と憐憫の情だったのかもしれない。
こうしてヤマト随一の忠臣長髄彦は、主君ニギハヤヒの裏切りにより、あえない最期を遂げた。
(第十章終わり)
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~
bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
輿乗(よじょう)の敵 ~ 新史 桶狭間 ~
四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】
美濃の戦国大名、斎藤道三の娘・帰蝶(きちょう)は、隣国尾張の織田信長に嫁ぐことになった。信長の父・信秀、信長の傅役(もりやく)・平手政秀など、さまざまな人々と出会い、別れ……やがて信長と帰蝶は尾張の国盗りに成功する。しかし、道三は嫡男の義龍に殺され、義龍は「一色」と称して、織田の敵に回る。一方、三河の方からは、駿河の国主・今川義元が、大軍を率いて尾張へと向かって来ていた……。
【登場人物】
帰蝶(きちょう):美濃の戦国大名、斎藤道三の娘。通称、濃姫(のうひめ)。
織田信長:尾張の戦国大名。父・信秀の跡を継いで、尾張を制した。通称、三郎(さぶろう)。
斎藤道三:下剋上(げこくじょう)により美濃の国主にのし上がった男。俗名、利政。
一色義龍:道三の息子。帰蝶の兄。道三を倒して、美濃の国主になる。幕府から、名門「一色家」を名乗る許しを得る。
今川義元:駿河の戦国大名。名門「今川家」の当主であるが、国盗りによって駿河の国主となり、「海道一の弓取り」の異名を持つ。
斯波義銀(しばよしかね):尾張の国主の家系、名門「斯波家」の当主。ただし、実力はなく、形だけの国主として、信長が「臣従」している。
【参考資料】
「国盗り物語」 司馬遼太郎 新潮社
「地図と読む 現代語訳 信長公記」 太田 牛一 (著) 中川太古 (翻訳) KADOKAWA
東浦町観光協会ホームページ
Wikipedia
【表紙画像】
歌川豊宣, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる