東へ征(ゆ)け ―神武東征記ー

長髄彦ファン

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第十章 纏向の悲劇

第55話 砂塵 

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 磐余彦いわれひことの会見を終えた長髄彦ながすねひこが自陣に戻ると、一人の兵士が駆け寄って来た。
「おかしな噂が流れています。長髄彦さまを裏切り者として捕えるというものです」
「なんだと!」
 長髄彦の目がぎらりと光った。
 しかしその光はすぐに消え、長髄彦は傍にいた少彦名すくなひこなに声を掛けた。
「すまぬが、すぐに兄者と三炊屋みかしきやの元へ走ってくれ」
 兄の安日彦あびひこは先日の戦いで磐余彦の放った矢を受けて負傷した。
 その矢は皮肉にも、かつて長髄彦が磐余彦に授けた天羽羽矢あまのははやである。
 安日彦は今、妹の三炊屋ひめの館で手当てを受けている。
「そのまま兄者を守り東国へ行け」
 つまり、兄たちを連れて落ち延びろということである。
「そんな、わしも一緒に戦わせて下され!」
 出雲以来の老宿将は懇願した。
 当然である。ここまでさまざまな危機を乗り越え、あらゆる労苦を共にしてきたのに、あまりにも勝手な言い草だ。
「もうしまいだ。これ以上皆を死なせたくない。頼む!」
 長髄彦の兄安日彦は、のちに東北地方に逃げ落ち、蝦夷えみしの王となったとの伝承がある。
 平安後期の前九年、後三年の役で朝廷を震撼させた安倍貞任あべのさだとう宗任むねとうら安倍一族の祖となった、という言い伝えだが、定かではない。

 間もなく、伝令が来た。
「ニギハヤヒさまがお呼びです」
 ニギハヤヒの近衛軍は、長髄彦の陣から後方へ一里、纏向まきむくに布陣している。
「分かった、すぐに行く」
 答えた長髄彦は少彦名の顔を振り返った。
 少彦名が黙って頷くと、長髄彦も頷き返した。
 寂寞せきばくとした空気が漂った。
 共に今生の別れとなる運命を察知していた。
 近衛軍の本陣で待つニギハヤヒの顔は憤怒に満ちていた。
「どういうことだ!」
「はて、どうとは?」
 長髄彦が軽蔑の眼差しで問い返す。
「これは何だ!」
 ニギハヤヒが突き出したのは一本の黒い矢である。
 紛れもなく、磐余彦が放ち、安日彦を傷つけた天羽羽矢である。
――いったい誰が、吾の陣から持ち出したのだ?
 
 ニギハヤヒの背後に玄狐げんこがいて、薄笑いを浮かべていた。
 玄狐が盗み、密告したに違いない。
 玄狐ははじめ日向ひむか吉備合同軍の一員として遠征に参加したが、途中で長髄彦側に内通した。
 玄狐は少彦名とはかって日向軍を孔舎衛坂くさえのさかに誘い込み、窮地に陥れた。
 そして今また長髄彦を裏切り、ニギハヤヒに付こうとしている。
「一度裏切った者は、何度でも裏切るというのは本当だった」
 長髄彦がじろりと睨むと、玄狐は怯えるようにニギハヤヒの背中に隠れた。
 ニギハヤヒはもう一本の黒い矢を取り出した。
 磐余彦が放った矢と瓜二つである。
 だが比べてみると美しさといいやじりの黒い耀かがやきといい、明らかに見劣りする。
 これまで本物と信じて疑わなかった偽の天羽羽矢である。
「これは偽物であろう!」
 ニギハヤヒが怒りに顔面を紅潮させて長髄彦に詰め寄った。
「さて、何のことやら」
 長髄彦はとぼけたが、ひそかに舌打ちしていた。
 今から十数年前、長髄彦が偶然出会って気まぐれに弓矢を授けた少年が、成長して日向軍の首領として現れた。
 なんという偶然だ。
――あの時吾は、ニギハヤヒに渡すぐらいならと、あの小僧に呉れてやった。
 そして偽の天羽羽矢と歩鞆かちゆきを作り――作ったのは吉備時代の剣根つるぎねである――ニギハヤヒに献上したのだ。
 そうとも知らず、ニギハヤヒは王権のあかしを得たと満足し、増長してヤマトを治めた。
「弓矢と歩鞆は、我ら天孫族てんそんぞくのみに許された王権の証じゃ。ところが敵も同じ物を持っていた。むしろ磐余彦という田舎者が持っていた矢のほうが正統だった」

 ヤマトは間もなく滅び、ニギハヤヒも王の座を追われるであろう。
 だがそれは断じて弓矢の有無のせいではない。
 ひとえにおのれの力と徳の無さのせいだ。
 ニギハヤヒは偽の天羽羽矢を目の前に掲げ、両手に力を込めた。
 あっけないほど乾いた音とともに、矢が二つに折れた。
 ニギハヤヒの目にくらきらめきが宿った。
 「よくも……吾を虚仮こけにしたな」
 長髄彦は瞑目めいもくしたまま返答しなかった。
「吾は磐余彦にくだることにした。他の豪族たちも賛同している」
 ニギハヤヒは赤い目をぎらつかせて冷酷な笑みを浮かべた。
「ついては土産がいる」
 ニギハヤヒが「裏切り者を殺せ!」と叫ぶと同時に、十数人の兵士がいっせいに長髄彦に襲いかかった。
 こうしてヤマトきっての勇将とうたわれた男は、味方である兵卒の刃にかかってたおれた。
 血に染まった大地をかき消すように、大和盆地に砂塵が舞った。
 兵士たちに刃を向けられても、長髄彦はなぜか剣を抜かなかった。
 長髄彦ほどの歴戦の勇者なら、血塗ちまみれになっても切り結び、血路を開くことも可能だった筈だ。
 それが一合も交えず、切り刻まれたのはなんとも不可解だった。
 むしろ、大地に崩れてなお長髄彦の目には、ニギハヤヒに対する憐みの色さえ浮かんでいた。
 それは仕える甲斐のない主君に対する、絶望と憐憫れんびんの情だったのかもしれない。 
 こうしてヤマト随一の忠臣長髄彦は、主君ニギハヤヒの裏切りにより、あえない最期を遂げた。
                             (第十章終わり)

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