今時、珍しいことじゃないんです。

宮下ほたる

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日常の終わり

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 ――その瞬間、俺の世界は色を失った。



 春風が、どこからか熱気をまとって流れてくる。
 からりとした晴天で、太陽は今日も憎たらしいほど元気だ。

「昨日つくったてるてる坊主のおかげだね」

 そう笑いながら姉の未紗みさは歩いていた。
 わざわざ昨日のうちに、てるてる坊主なんてものを作っていたらしい。退院前にヒマなことを。
 未紗は一歩一歩を踏みしめるように、大股になったり小走りになったりスキップしてみたり。
 何がそこまで楽しいんだか……。親も喜ぶ健康体な俺にとっては理解に苦しむ。
 俺は荷物を肩に掛けながら、彼女がたまに転びそうになるのを横目で見ていた。

「あんまり遅いと、おいて帰るぞ?」

 と、おどけて言う。すると彼女は決まってあわてる。

「え…っ待ってよ彼方かなた、また迷子になっちゃうんだから!」

 ちなみに、ここでいう迷子になるのは俺ではない。美紗が方向音痴と知ったうえで意地悪をしているだけだ。
 ほとんど病院と家の往復ばかりで、それも車に乗っての移動が多かった彼女の頭には、地形図というものがあまりはっきりと記憶されていない。
 だからそれをからかってやると、これがまた面白い。相手が姉だとちゃんと理解したうえでの言動だから、俺は性格が悪いかも知れない。



 突然、鈍い音が響いたと思って振り返ると、スクランブル交差点の真ん中で人間が倒れていた。すぐに周囲に人垣ができた。
 騒然とした雑音を聞きながら、あぁ事故が起きたのかと思った。俺たち間一髪で巻き込まれなくてよかったな、と声を掛けようとして俺は固まった。


 美紗はどこだ?


 俺のすぐ後ろを歩いていたはずだ。
 病院からずっと一緒に歩いてきた。
 久々に散歩しながら帰りたいという本人の希望で、珍しくタクシーも拾わなかった。
 当然、家までの案内係兼荷物持ちは俺だ。といっても、美紗の持ち帰る荷物はエナメルかばんに詰めても余裕があった。このくらいの重さ、苦でも何でもない。
 本当に長期入院をしていた患者かと疑うほど、少ない荷物だ。
 不意に病室で白いワンピースの裾をつまんで、くるりと回ってみせたときの彼女が頭を横切った。こんなの着るの久しぶり、と頬を染めてはにかんでいたのだ。
 正直、ちょっとかわいかった。



 俺は辺りを見回しながら人垣を掻き分けて進んだ。
 中心の倒れた人間を目にした瞬間、俺の世界は色を失った。その中で、白とも黒ともつかない濃淡だけの灰色の世界で、脈打ってあふれ流れてくる紅だけが鮮明に存在を誇示していた。


「――――――!」


 俺は何かを、確かに姉の名前を叫んだ。ただそれはつもりになっていただけで、実際には声にすらならなかった。
 慌てて駆け寄ると、美紗はいつものように病室で眠っているのかと思わせる表情で目を閉じていた。
 もしここが公園だったなら俺は、なんだ寝てるのか、で済ませたはずだ。いつもの昼寝か、と。
 だがここは交差点のまんなかだ。そしてすぐ近くでトラックがスリップしている。
 紅く染まっていくワンピースが、今ここで事故に遭ったのは自分なんだと主張していた。
 何度となく見てきた、きれいな紅色だった。
 サイレンが聞こえた。救急車かパトカーか分からないが、どちらでもいい。この状況を、美紗が紅く染まっていく、この状況を、誰かどうにかしてくれ。
 周囲では車が進めずに交通マヒを起こしていた。俺が美紗を少しでも歩道に寄せればよかったのだが、パニック状態の俺はそんなことにまで思考が回らない。
 クラクションが鳴っているが気にもならない。
 ただの人だかりも今はどうでもいい。
 失血で冷たくなっていく美紗の身体を抱きしめたままで、俺は動けなくなっていた。
 流れていく血は熱を持っているようでいて、血溜まりに染まっていく俺の足は冷めていった。
 そのうち救急車が到着して、中に乗せられていく彼女に付き添いながら、また病院に逆戻りだなと、誰に聞かせるでもない小さな声で自嘲気味に呟いた。



 救急車で運ばれてからのことはよく覚えてない。

 美紗と、さっき出てきたばかりの病院に戻って、ロビーで呆然としていたはずだ。
 手術中だということを知らせる赤ランプが、それを見つめる俺の頭の働きを鈍くしていた。

 姉はきっと戻ってこない。今度こそ川の向こうに逝っちまったんだ。父さんと母さんになんて言えばいいんだろう……。

 美紗がやっと退院するって喜んでたのに、家につく前にお陀仏になったとか……。いや、そんな縁起でもない。
 否定しながらでも、どこか冷静な思考が、取り返しのつかないことになっていると俺に囁く。
 でもそれは本当に、俺にはどうしようもないことなんだと、抗えるものでもないんだと知っている。涙は、出てこなかった。

 生まれてから今までのほとんどを病院で過ごしてきた美紗。
 学校にもろくに行けずに、入退院ばかりを繰り返していた。かといって、悲壮感を漂わすような人じゃなかった。
 いつも花がほころんだような笑顔で、見舞いという名目で遊びにきた俺を迎えてくれた。
 正直言って、かわいい部類だったと思う。
 シスコン、と言われても否定はしない。俺にも友達はいたけど、姉と会うことの方が大事だった。だから、病院に行くことは俺には苦でもなんでもなかった。
 彼女はさすが、というか何というか、ほとんど独学に近い状態でそれなりに勉強していて頭はよかった。

『ここってやることが何もないから』

 そう言って、やっぱりいつも笑っていた気がする。
 ただ、高校に入学できたまではよかったが、出席日数が足らずに留年しっぱなしだ。この春から俺と同級生で通い直す。……はずだったんだ。

 動けない、ということもあってか本もよく読んでいた彼女は物知りだった。俺から見たら尊敬できる人だった。
 何をきいても嫌な顔せずに聞いてくれて、母さんはお姉ちゃんの負担になるから面倒ごとを持ち込むのは止めなさい、と叱るけれど当の姉はと言えば、わたしも楽しいからいいんだよと笑うのが常だったんだ。

 そんなやり取りがもうできないのかと思うと、悲しくて仕方がなかった。



 いつの間にか赤ランプが消えていた。扉は一向に開かない。
 次第に俺は、なんでこんなところにいるんだ? と思うようになってきた。

 ここにいる必要なんて無い。美紗は退院したじゃないか。
 もう手術中のランプがみせる不安に縛られる必要なんてないじゃないか。
 いつも不安だったんだ。この扉の向こうに彼女が入ったきり、もう出てこなくなるんじゃないかと。
 怖いからこそ、俺は次第に手術日には病院に来なくなったんだ。
 家でおとなしく、彼女の手術のことは頭の片隅からも追い出して、別の何かに没頭していればいい。
 次の見舞いのときに本人から、「手術成功したんだよ」と聞かされるほうが断然よかった。

 そうだ、俺はいつまで病院なんかにいるんだ。早く帰らないと。
 きっと母さんがお祝い用にケーキを買ってきてるはずだ。
 父さんは置き場所に困るくらいにでかいぬいぐるみを用意してるんだ。

 ……いつまで俺はこんなところにいるんだ。早く帰ってやらないと、お祝いもなにも始められないじゃないか。
 美紗の姿がない。……ってことは、もしかして俺、置いていかれたのか?
 迎えに来ておいて、そりゃねぇよな。
 でも、こんな時間になるまで一般人が病院にいるのもおかしな話だ。

「……やっぱり、早く帰らないと」

 呟いて、俺は病院をあとにした。
 帰る途中で美紗に追いつくかもしれない。
 そんなことを思いながら。
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