暫定女将と拾われた傭兵

宮下ほたる

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 翌朝。いつの間にか寝てしまっていたミシュリーヌは、肩になにか違和感を感じて目を覚ました。手を伸ばすと、半分に畳まれたシーツが掛けられていた。当然のことながら自分で羽織った覚えはない。


「あの…ありがとう、ございます」

 躊躇いがちに降ってきた、低い声にミシュリーヌは顔を上げる。宝石みたいな琥珀色の瞳がどこか懐かしい。

「貴女が、手当てをしてくれたんですよね。ご迷惑をおかけしました」

 掠れた声の彼は、ソファの上で半身を起こして頭を下げた。

 顔色はまだよくないが、起き上がれるほど回復していることに思考停止していた。いくらなんでも、早すぎない?

「……痛みは? ひどい怪我だったのだけど、事情の説明もしようがなくて、お医者様も呼べなかったの。ごめんなさいね」

 取り繕ったような言葉しか出てこなかったが、彼はあまり気にしていないようだ。

「身体が丈夫なだけが取り柄なので、大丈夫です。むしろ、屋根の下に入れていただいてありがとうございます」

 またペコリと頭を下げて、えへへと頬を掻く。

「ところで……自分はなんでこんな怪我していたんでしょうか?」

「それは私が知りたい」

 一体なにを言っているのだろうか。

「あなた、血塗れで外に倒れてたの。とりあえず応急処置しか私にはできなかったのだけれど。覚えていないの?」

「手の先から冷えていく感覚は覚えていのですが、そこに至るまでの理由がさっぱりで。あ、自己紹介がまだでした。自分は……誰でしょうね?」

「それも私が知りたい」

 この気の抜けるやり取りはなんなのだろうか。ミシュリーヌは脱力してソファにへたれた。

 不思議そうに両手を開いて閉じてを繰り返しながら、う~ん。と唸るのを聞きながら答えを待ってみるが、どうやらすぐには出てこないようだ。

「私は、ミシュリーヌよ。ミミでもミリィでも好きに呼んで。それよりもお腹は空いてない? 食べられそうなら、自慢のスープでもどうかしら」

 自分が空腹であることもあり、夜の残りを温めなおしてもいいだろう。彼も起き上がれるなら、おかゆを別に用意しなくても平気そうだ。

 絵に描いたような腹の虫が、ぐぅぅ…と返事をした。ミシュリーヌもくすりと笑う。

 名前がわからないなら、後回しでいいか。

 カーテンの隙間からは柔らかな光が射し込んでいる。昨日の雨は夜のうちに過ぎたようで、洗濯がはかどりそうな天気だ。

「すぐに用意するから、とりあえず着替えててもらえる? サイズはたぶん入ると思うのだけれど、あなたが着ていた服はさすがに着れたものでもないから、ほんとにとりあえず、ではあるのだけれど」

 腹の虫が元気な彼が、恥ずかしそうに赤面しつつ頷いたのを確認しながらミシュリーヌは鍋を温めに流しへと向かった。

 火をかければ、そう時間をかけずにスープは食べ頃になった。白パンと目玉焼きをつければ立派な朝食だろう。

 ソファの隣のテーブルにお皿を運び、二人でいただきます、と手を合わす。

 挨拶のあとはしばらく無言のまま、かちゃかちゃとカトラリーの音だけが響く。

 一人でいる時とも、お店を開いている時とも違う、静かすぎず騒がしすぎない空間。目の前でその空気を作っているのが、身元不明の怪我人だと誰が信じるだろうか。

 なんとなくなんですが、と彼がおもむろに口を開く。

「なんとなくなんですが、エディ、と呼ばれていた気がします。愛称だとは思うんですが、ほんとうになんとなく」

 お皿の中身をすっかり空にして憂い顔をされても、ミスマッチなことこの上ない。ミシュリーヌは笑い出さないように気をつけた。

「呼び方がないのも不便だから、貴方のことをひとまずはエディって呼ばせてもらうわね。それだけ食べられるなら、身体の中もおかしなことになってないだろうけど、まだしばらくは休んでた方がいいと思うの。とりあえずは、ベッド使ってもらえると嬉しいわ」

 ソファ横に用意している簡易ベッドに押しやり、二人分の食器をさげる。エディも片付けようと手を伸ばしたかったが、テーブルの上はあっという間にきれいになった。

 ミシュリーヌにとってはいつものことなので、流しにさげた食器も手早く洗っていく。
 洗いながら思うのは、彼の警戒心の無さについて。
 あれだけの手傷を負って、目が覚めたら知らないところで知らない人間が出す料理を躊躇なく食べるだなんて。気持ちのいい食べっぷりに、怪我人だということを忘れてしまいそうだけれど。
 エディ、と自称できる程度には思考ははっきりしているようだ。
 名前のわからないお客様を相手にするのは、珍しいことでもないので慣れている。さすがに、記憶をなくしている人を相手にするのは経験がないけれど。

 だれかに相談した方がいいだろうか?
 お医者様を呼ぶのも堪えたのに?
 快調に向かえばそのまま帰ってもらう、でいいのではないか?

 ぐるぐると思考は回る。

 ミシュリーヌ自身、あまり彼には関わらない方がいいと分かっているが、放っておけないのも事実だ。

 どうしたものかと悩んでも、これといって答えは出ない。

 さて、ここはどこだ?
 一応、宿屋兼食堂だ。
 それなら、彼はお客さまだ。宿泊していても、なにもおかしいことはない。
 昨日は、本人が動けなかったから部屋まで案内ができなかった、それだけだ。

 今日からは療養を兼ねて二階の部屋で休んでもらおう、そうしよう。

 洗い物を終える頃には、ひとまず納得できる答えを作っていた。

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