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さん
しおりを挟むエディがミシュリーヌの宿で療養するようになって、一ヶ月が経とうとしている。
当初の傷から考えれば、本来ならばまだベッドの上に縛り付けておきたいものだが、当の本人はというと、三日過ぎたあたりから堪えられなくなっていた。
一晩過ぎた時点で食事も問題なく完食するような、規格外な回復力を持っているのだ。三日もよく大人しくしていたと感心するべきなのだろう。
エディは、ただ飯食いをしているわけにはいかない、と率先して店の手伝いを始めた。実際に彼は無一文の状態なのだ。
どこから来たのか、自分はだれか、記憶は相変わらず戻っていないが、日常生活には支障がないようだった。
無意識の習慣というのは身体が覚えているようで、朝晩の鍛錬を欠かしていないことをミシュリーヌは知っている。彼としては隠しているつもりのようで、街が起き出す前に、寝静まった後に中庭で身体を動かしているので、気づいていないふりをしている。
店の手伝いの申し出にミシュリーヌが戸惑ったのも最初だけで、今ではすっかり馴染んでしまった。
まず、買い出しの際に配達を頼む頻度が明らかに減った。男手があるだけで、荷物運びのなんとラクなことか。
そして、身長が高い、というのはミシュリーヌが逆立ちしてもかなわないところだ。梁の上のハタキひとつとっても、足場を用意する必要のある彼女に対して、エディはすっと腕を伸ばすだけで届くのだ。うらやましい。悔しいので、身長以上のところの掃除は任せてしまっている。
はじめこそ食堂の常連さんたちからは、厳しい目を向けられていたエディだが、三週間もすれば生暖かい視線とともに今日もがんばれと肩を叩かれるようになっていた。
それというのも、ミシュリーヌの親友こと、この街の顔役の娘、アンナが猛犬のごとく牙を向いているからだ。
今日もアンナはカウンター席に腰掛けてエディを睨み付けている。
「ねぇ、ミミ? あの男はいつまで居座るつもりなのかしら」
「いく宛もないみたいだし、まだ療養中の身だからね。アンナもそんなに邪険にしないであげて」
洗い物を流しながら、またミシュリーヌはお皿を重ねていく。
「いくらここが宿屋も兼ねてるとはいえ、若い男女がひとつ屋根の下で寝起きしてるなんて。ミミはもっと警戒心を持ちなさいよ!」
「警戒心を持てと言われても、ね?」
そもそもこの宿に彼を招き入れたのはミシュリーヌだ。お客様を警戒していては仕事にならない。
「同室なわけでもないし、私も一応、経営者の端くれですからね? 自衛ができなくもないことはアンナも知ってるでしょう?」
「それはもちろん……ミミが弱いとは思わないけど、そう思うおばかさんが多いのも事実だわ」
看板娘の柔らかい雰囲気とは裏腹に、ミシュリーヌは実際に強い。それは今は亡きお祖父さんに鍛えられたからだというのは、常連であれば周知の事実だが、新参者であればあまり信じない。
一見してふんわりとした雰囲気のミシュリーヌは、どちらかといえばお淑やかそうな、女の子らしい庇護対象だ。
それは言い換えれば、格好のカモにされかねないという危険が伴う。
幼いうちからそれを危惧していたお祖父さんは、しっかりと護身術を教え込んでいた。彼の誤算は、必要以上にミシュリーヌがのめり込んでいったことだろうか。
お年頃になってからは、自ら揉め事を起こすようなこともなく落ち着いたが、彼女のお転婆時代を知っている年寄り勢たちからしたら、上手に猫を被るようになったものだと微笑ましい限りである。
「いくらミミが弱くないからって、それでも貴女に甘えっきりのあいつのことは気に入らないわ」
結局のところ、アンナは仲良しのミシュリーヌが取られたように感じられてさみしいのだ。
お祖父さんがいなくなり、一人になったミシュリーヌが気落ちしていた過去を知っている。彼女の周りの男達は、彼女を泣かすだけの存在だと認識している。
それなら、せめて私は彼女の味方でいたい。
そんな思いで今日も屋敷から抜け出してきていた。
そう、抜け出してきているのだ。
本当ならば今の時間は、アンナは家庭教師がきているはずで、屋敷でダンスのレッスンがある。
それをすでに十分に動き回れるのだからと、逃げ回っている。
アンナの逃亡癖は街では周知の事実で、よっぽどの困りごとに巻き込まれでもしていない限り、家に通報されることもない。
ないのだが、カウンターの近くから青年の声が響く。
「そんなミシュリーヌに甘えてるお前はなんなんだ」
どうやら今日は、そのよっぽどのことがあったようで、早々にお迎えがきたようだ。
「あら、ロランってば早いのね? そんなに急いでアンナを帰さないといけなかった?」
「急ぎでもないんだが、さすがに家庭教師が可哀想でね。お兄様直々にお迎えにきたんだ、今日はもう帰るぞアンナ」
「いやよ、わたしにはあの男を見張るという大仕事があるもの」
急に現れても驚きもしないミシュリーヌは、領主の息子であろうと物怖じもしない。
当のロランも幼馴染のその様子に、今更思うところもないようで、聞き分けのない妹の首根っこをつかんでいる。
「いい加減にしないと、行儀見習いに王都に送るぞ?」
「それだけはイヤ!」
結局、アンナは大人しく屋敷へと連れ戻されるのだった。
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