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派遣の朝比奈さん
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市役所三年目。
配属先は市民課、窓口の雑務担当。
名刺の肩書きに「主任補」の文字はあるが、実際はコピー機と苦情対応と書類運搬の奴隷だ。
毎日、定時の鐘が鳴っても帰れた試しがない。家に着くのは九時過ぎ。
缶のストゼロを開けて、画面の向こうで仲間とMMOをする――それだけが、俺のささやかな現実逃避だった。
あの日までは、だ。
派遣職員として朝比奈さんが来たのは、四月の初めだった。
背が高く、スーツの着こなしもどこか洗練されていて、最初は派遣とは思えなかった。
一見つんとした雰囲気なのに、話すと驚くほど穏やかで、声もやさしい。
音大を出たが就職先が見つからず、派遣で食いつないでいる――と、自己紹介でさらりと言ってのけた。
そして、そのあとに続いた一言に、会議室の空気が少しだけ止まった。
「……αなので、ご迷惑をおかけすることがあるかもしれません」
あまりにも自然に口にするものだから、誰も反応できなかった。
隣の席の先輩が苦笑まじりに「芸術肌の人ってちょっと変わってるしね」と囁いて、
みんなは曖昧に笑い、何事もなかったように自己紹介を続けた。
俺もそのときはただ、「少し風変わりな人だな」としか思っていなかった。
けれど仕事をしてみると、彼は本当に有能だった。
段取りは早く、入力も正確、上司の無茶ぶりも笑顔で受け流す。
何より、誰にでも平等にやさしかった。
俺が深夜まで残っていたある日も、彼はさりげなく残って手伝ってくれた。
「野々宮さん、ここの整理、僕がやります」
「いや、派遣さんに残業させるの悪いし」
「僕は好きで残ってるんです。稼がせてください」
といって仕事を半分奪うと、唇の前に一本指を立てた。
以後、俺は無意識に彼の所在を気にするようになった。
そんなある夜、残業を終えて庁舎を出ると、朝比奈さんが門の前でスマホを見ていた。
顔を上げると、街灯の光が髪に反射して、金の糸みたいに見えた。
春の風が通り抜け、桜の花びらが二、三枚、肩に落ちる。
「お疲れさまです。野々宮さんも?」
「うん。今日もやばかった。課長、例の書類置いて帰りやがった」
「そうでしたね。僕も見てました」
思わずふたりで笑った。
その瞬間、心の中の何かが緩んだ気がした。
夜風がシャツの襟を抜けていく。
いつもなら真っすぐ帰ってストゼロを開けるところだが、ふと足が止まった。
通りの角の居酒屋から、焼き鳥の匂いが漂ってきた。
赤提灯の灯りがゆらゆらと揺れている。
「……一杯、飲んでく?」
口にしてから、我ながら間抜けだと思った。
「いや、ごめん、こんなの迷惑だよな。急に誘うとか、俺らしくないし」
「いいですよ?」
その返事は、風に乗って静かに響いた。
柔らかな笑みを浮かべた朝比奈さんの目は、
どこか遠い場所の光を映しているようで、見ているだけで息が詰まった。
配属先は市民課、窓口の雑務担当。
名刺の肩書きに「主任補」の文字はあるが、実際はコピー機と苦情対応と書類運搬の奴隷だ。
毎日、定時の鐘が鳴っても帰れた試しがない。家に着くのは九時過ぎ。
缶のストゼロを開けて、画面の向こうで仲間とMMOをする――それだけが、俺のささやかな現実逃避だった。
あの日までは、だ。
派遣職員として朝比奈さんが来たのは、四月の初めだった。
背が高く、スーツの着こなしもどこか洗練されていて、最初は派遣とは思えなかった。
一見つんとした雰囲気なのに、話すと驚くほど穏やかで、声もやさしい。
音大を出たが就職先が見つからず、派遣で食いつないでいる――と、自己紹介でさらりと言ってのけた。
そして、そのあとに続いた一言に、会議室の空気が少しだけ止まった。
「……αなので、ご迷惑をおかけすることがあるかもしれません」
あまりにも自然に口にするものだから、誰も反応できなかった。
隣の席の先輩が苦笑まじりに「芸術肌の人ってちょっと変わってるしね」と囁いて、
みんなは曖昧に笑い、何事もなかったように自己紹介を続けた。
俺もそのときはただ、「少し風変わりな人だな」としか思っていなかった。
けれど仕事をしてみると、彼は本当に有能だった。
段取りは早く、入力も正確、上司の無茶ぶりも笑顔で受け流す。
何より、誰にでも平等にやさしかった。
俺が深夜まで残っていたある日も、彼はさりげなく残って手伝ってくれた。
「野々宮さん、ここの整理、僕がやります」
「いや、派遣さんに残業させるの悪いし」
「僕は好きで残ってるんです。稼がせてください」
といって仕事を半分奪うと、唇の前に一本指を立てた。
以後、俺は無意識に彼の所在を気にするようになった。
そんなある夜、残業を終えて庁舎を出ると、朝比奈さんが門の前でスマホを見ていた。
顔を上げると、街灯の光が髪に反射して、金の糸みたいに見えた。
春の風が通り抜け、桜の花びらが二、三枚、肩に落ちる。
「お疲れさまです。野々宮さんも?」
「うん。今日もやばかった。課長、例の書類置いて帰りやがった」
「そうでしたね。僕も見てました」
思わずふたりで笑った。
その瞬間、心の中の何かが緩んだ気がした。
夜風がシャツの襟を抜けていく。
いつもなら真っすぐ帰ってストゼロを開けるところだが、ふと足が止まった。
通りの角の居酒屋から、焼き鳥の匂いが漂ってきた。
赤提灯の灯りがゆらゆらと揺れている。
「……一杯、飲んでく?」
口にしてから、我ながら間抜けだと思った。
「いや、ごめん、こんなの迷惑だよな。急に誘うとか、俺らしくないし」
「いいですよ?」
その返事は、風に乗って静かに響いた。
柔らかな笑みを浮かべた朝比奈さんの目は、
どこか遠い場所の光を映しているようで、見ているだけで息が詰まった。
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