月銀の温室 ーー触れない距離で、戻らない手を学ぶ。甘くて切ないじれじれ溺愛(年上寡黙×健気)

星乃和花

文字の大きさ
3 / 14

第二話 忘れな草の手紙(ワスレナグサ)

しおりを挟む
 星の庭の朝は、露がちいさな鈴になって鳴る。硝子の天蓋の内側で、息を潜めるように世界がやわらぐ。
 リディアはレース縁の便箋を膝にのせ、袖口をきゅっと握った。ひと文字、またひと文字。自分の心よりも小さな字でしか書けないのは、嬉しさがこぼれないよう縫いとめる癖みたいなもの。

(うまく、届くといいな)

 青い小鳥ルフが、くちばしに空色の細リボンをくわえて降りてくる。忘れな草の色。リディアが書き終えて封をすると、ルフはちいさく首をかしげ、結び目がゆるまないかを“伺う”ように覗き込んだ。

「ありがとう、ルフ。……似合っている?」

 一声。承認の鈴。
 星木のベンチまで“とことこ”歩いて、リディアは端にちょこんと座る。硝子戸の向こうに影が揺れ、心がころりと跳ねた。こてん、と首が傾くのを自覚して、慌てて背筋を伸ばす。

 黒の外套、きちんと整った線。コンラッドは今日も“整い”をまとって現れた。近づく足音に合わせてルフがひと跳び、ベンチの背で羽をふくらませる。

「お待たせしました、コンラッド様」

「待っていた」
 短い声。その後に、ほんの一拍の、言葉を探す沈黙。「……その、雨が降っていなくとも、来た」

 星庭は、少し明るくなった気がする。リディアは両手で包んだ封筒を差し出し、そっと彼の表情を“伺う”。視線が合いかけて逸れる。その不器用さが愛しくて、胸のあたりがちくりとした。

「お手紙を。わたし、長く話すのが……あの、苦手で。これなら、上手に伝えられるかもしれなくて」

 コンラッドは受け取る指先の動きを、ゆっくりと慎重にした。まるで紙が薄い雪だと知っているかのような手つき。封蝋のリボンがほどけないのを確かめると、彼はベンチの背にもたれず、わずかに前屈みの姿勢で読み始める。

 その横顔を、リディアはレース越しの視線で“伺う”。睫毛の影、喉仏の上下。紙の端を持つ親指が、途中で少しだけ強くなる。
 露が鈴の音を落とすたび、彼の呼吸が合わせるように静かに揺れた。

 やがて、彼は息をひとつ吐いた。
「……読むと、部屋が短くなるようだ」

「お部屋が、短く?」

「長い部屋に、音が届く。君の字は小さい。けれど、音がある」

 比喩がぎこちなくて、まっすぐだ。リディアは嬉しくなって、でも頬は熱くなって、袖口のレースをそっとつまんだ。
「わたし、これからも——たまに、書いても良いですか?」

「頼む」
 彼は小さく咳払いをし、わずかに目を逸らす。「……言葉を探すのが遅い。君は、待てるか」

 待つことなら得意だ、と言いかけて飲み込む。せっかく彼が自分の速度を見せてくれたのだから、急いで答えを乗せたくなかった。リディアは首をこてん、と傾けて、待つ合図だけを目で伝える。ルフが“よくできました”とでも言うように、背で羽を鳴らした。

 ベンチの上で忘れな草が揺れる。リディアは小瓶に挿し、瓶の首に空色のリボンを結ぶ。結び終わる手元を、コンラッドが“伺う”みたいに黙って見ていた。

「……私も、書く」

「コンラッド様が?」

 小さく頷く。ジャケットの内側から質素なメモ用紙を出して、万年筆のキャップを外す手が一瞬止まる。紙に、ゆっくりと。——L i d i a。
 彼は自分の書いたそれを見て、わずかに眉根を寄せた。

「……曲がった」

「まっすぐです。わたしの名前、嬉しいです」

 言った瞬間、心臓が跳ねる。嬉しい、を渡すのは照れくさい。けれど、渡さないと届かない。
 コンラッドは紙を畳み、封もせず胸ポケットにしまった。胸の位置が、少しだけ高く見える。

「家では、名前を呼ばれない。肩書と、姓ばかりだ」

 そこに、孤独の輪郭が現れる。長い廊下、四角い机、音のないティーカップ——かつての光景が、言葉の裏から立ちのぼる。
 リディアは、迷って、袖口のレースの端を指先で撫でる。触れない代わりに、触れ方を“伺う”仕草。

「あの……呼んでも、いいですか?」

 彼は目を上げ、まっすぐに受け止める視線の形を思い出したように、少しだけ姿勢を正した。
「許す。……いや、望む」

「こ、コンラッド様」

 名を置いた場所に、露の鈴がひとつ落ちた。ベンチの木目が星のように光り、ルフが小さく跳ねる。
 彼の口角が、ほんの少しだけ、やさしい角度をつくった。

「忘れな草——君が選んだのか」

「はい。名前が、好きで。『忘れないで』って、言うみたいで」

「忘れない」
 その言葉は、低いけれど確かに温かい。
「読む。何度でも」

 小瓶のリボンを指で弾くと、結び目がきゅっと鳴った気がした。リディアはベンチの中央へ、すり、と半歩。届きそうで届かない距離。
 彼は手を持ち上げ——空中で止める。止める場所は、前より少し近い。止め方に、学びの跡がある。リディアはその空白に、そっと自分の影だけを近づけた。触れないまま、温度だけを重ねる。

 別れ際、封筒をもう一度受け取り直した彼は、それを手袋の内側に滑り込ませた。
「落ちない」

「あ……それ、わたしの真似です。手袋にしまうの、好きで」

「知っている」
 短い肯定。
「君の“好き”は、私の“覚える”になる」

 胸の真ん中で、何かがほどけて結び直される。嬉しい。やっぱり少し切ない。もっと、好きになってしまったから。
 ルフが、ちいさな羽音を残して天蓋の上へ。硝子越しの空が薄く晴れていく。

 その夜——

 広い書斎。机の左端に、レース縁の便箋が一枚。コンラッドは椅子を引く音に初めて安心を感じ、机の引き出しを整えた。左二番目には、白い封筒と柔らかい封蝋。硬い蝋はやめる。指を傷つけないように。
 彼はペン先で、さきほど書いた一語をもう一度、ゆっくりとなぞる。
 L i d i a。
 音のない部屋に、紙の摩擦音がやさしく続く。



 ——柔らかい封蝋に替えた。君の指を傷つけないために。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

ため息ひとつ――王宮に散る花びらのように

柴田はつみ
恋愛
「離縁を、お願いしたいのです」 笑顔で、震えずに、エレナはそう言った。 夫は言葉を失った。泣いてくれれば、怒ってくれれば、まだ受け止め方があった。しかしあの静けさは、エレナがもう十分に泣き終わった後の顔だと、ヴィクトルにはわかった。 幼なじみと結ばれた三年間。すれ違いは静かに始まり、深紅のドレスの令嬢によって加速した。ため息を飲み込み、完璧な微笑みを保ち続けた公爵夫人が、最後に選んだのは――。 王宮に散る花びらのような、夫婦の崩壊と再生の物語。

元恋人が届けた、断りたい縁談

待鳥園子
恋愛
シュトルム辺境伯の末娘ソフィに隣国の帝国第二皇子から届けられた『縁談』の使者は、なんと元恋人のジョサイアだった。 手紙ひとつで別れることになったソフィは、素直になれずジョサイアから逃げ回る。 「私に届けなければ、彼は帝国に帰ることが出来ない」 そう思いようやく書状を受け取ろうと決意したソフィに、ジョサイアは何かを言い掛けて!?

【完結】無口な旦那様は妻が可愛くて仕方ない

ベル
恋愛
旦那様とは政略結婚。 公爵家の次期当主であった旦那様と、領地の経営が悪化し、没落寸前の伯爵令嬢だった私。 旦那様と結婚したおかげで私の家は安定し、今では昔よりも裕福な暮らしができるようになりました。 そんな私は旦那様に感謝しています。 無口で何を考えているか分かりにくい方ですが、とてもお優しい方なのです。 そんな二人の日常を書いてみました。 お読みいただき本当にありがとうございますm(_ _)m 無事完結しました!

地味令嬢、婚約者(偽)をレンタルする

志熊みゅう
恋愛
 伯爵令嬢ルチアには、最悪な婚約者がいる。親同士の都合で決められたその相手は、幼なじみのファウスト。子どもの頃は仲良しだったのに、今では顔を合わせれば喧嘩ばかり。しかも初顔合わせで「学園では話しかけるな」と言い放たれる始末。  貴族令嬢として意地とプライドを守るため、ルチアは“婚約者”をレンタルすることに。白羽の矢を立てたのは、真面目で優秀なはとこのバルド。すると喧嘩ばっかりだったファウストの様子がおかしい!?  すれ違いから始まる逆転ラブコメ。

完結·婚約破棄された氷の令嬢は、嫁がされた枯れおじのもとで花開く

恋愛
ティリアは辺境にある伯爵の娘であり、第三王子ガフタの婚約者であった。 だが、この婚約が気に入らないガフタは学園生活でティリアを冷遇し、卒業パーティーで婚約破棄をする。 しかも、このまま実家に帰ろうとするティリアにガフタは一回り以上年上の冴えないおっさん男爵のところへ嫁ぐように命令する。 こうしてティリアは男爵の屋敷へと向かうのだが、そこにいたのは…… ※完結まで毎日投稿します ※小説家になろう、Nolaノベルにも投稿中

ストーカーはもうしません!

エヌ
恋愛
ス、トー...カー? 自分の行為がストーカーかもしれないと気づき自重する令嬢と無表情無反応されるがままとみせかけたヤンデレ令息のお話。

物置部屋に追いやられた伯爵令嬢ですが、公爵様に見初められて人生逆転しました〜妹の引き立て役だったのに、今では社交界の花と呼ばれています〜

丸顔ちゃん。
恋愛
伯爵家の令嬢セレナは、実母の死後、継母と義妹に虐げられて育った。 与えられた部屋は使用人以下の物置、食事は残飯、服はボロ。 専属侍女も与えられず、家の運営や帳簿管理まで押し付けられ、 失敗すれば鞭打ち――それが彼女の日常だった。 そんなある日、世間体のためだけに同行させられた夜会で、 セレナは公爵家の跡取りレオンと出会う。 「あなたの瞳は、こんな場所に閉じ込めていいものではない」 彼はセレナの知性と静かな強さに一瞬で心を奪われ、 彼女の境遇を知ると激怒し、家族の前で堂々と求婚する。 嫁ぎ先の公爵家で、セレナは初めて“人として扱われ”、 広い部屋、美味しい食事、優しい侍女たちに囲まれ、 独学で身につけた知識を活かして家の運営でも大活躍。 栄養と愛情を取り戻したセレナは、 誰もが振り返るほどの美しさを開花させ、 社交界で注目される存在となる。 一方、セレナを失った伯爵家は、 彼女の能力なしでは立ち行かず、 ゆっくりと没落していくのだった――。 虐げられた令嬢が、公爵の愛と自分の才能で幸せを掴む逆転物語。

記憶を無くした、悪役令嬢マリーの奇跡の愛

三色団子
恋愛
豪奢な天蓋付きベッドの中だった。薬品の匂いと、微かに薔薇の香りが混ざり合う、慣れない空間。 ​「……ここは?」 ​か細く漏れた声は、まるで他人のもののようだった。喉が渇いてたまらない。 ​顔を上げようとすると、ずきりとした痛みが後頭部を襲い、思わず呻く。その拍子に、自分の指先に視線が落ちた。驚くほどきめ細やかで、手入れの行き届いた指。まるで象牙細工のように完璧だが、酷く見覚えがない。 ​私は一体、誰なのだろう?

処理中です...