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第二話 忘れな草の手紙(ワスレナグサ)
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星の庭の朝は、露がちいさな鈴になって鳴る。硝子の天蓋の内側で、息を潜めるように世界がやわらぐ。
リディアはレース縁の便箋を膝にのせ、袖口をきゅっと握った。ひと文字、またひと文字。自分の心よりも小さな字でしか書けないのは、嬉しさがこぼれないよう縫いとめる癖みたいなもの。
(うまく、届くといいな)
青い小鳥ルフが、くちばしに空色の細リボンをくわえて降りてくる。忘れな草の色。リディアが書き終えて封をすると、ルフはちいさく首をかしげ、結び目がゆるまないかを“伺う”ように覗き込んだ。
「ありがとう、ルフ。……似合っている?」
一声。承認の鈴。
星木のベンチまで“とことこ”歩いて、リディアは端にちょこんと座る。硝子戸の向こうに影が揺れ、心がころりと跳ねた。こてん、と首が傾くのを自覚して、慌てて背筋を伸ばす。
黒の外套、きちんと整った線。コンラッドは今日も“整い”をまとって現れた。近づく足音に合わせてルフがひと跳び、ベンチの背で羽をふくらませる。
「お待たせしました、コンラッド様」
「待っていた」
短い声。その後に、ほんの一拍の、言葉を探す沈黙。「……その、雨が降っていなくとも、来た」
星庭は、少し明るくなった気がする。リディアは両手で包んだ封筒を差し出し、そっと彼の表情を“伺う”。視線が合いかけて逸れる。その不器用さが愛しくて、胸のあたりがちくりとした。
「お手紙を。わたし、長く話すのが……あの、苦手で。これなら、上手に伝えられるかもしれなくて」
コンラッドは受け取る指先の動きを、ゆっくりと慎重にした。まるで紙が薄い雪だと知っているかのような手つき。封蝋のリボンがほどけないのを確かめると、彼はベンチの背にもたれず、わずかに前屈みの姿勢で読み始める。
その横顔を、リディアはレース越しの視線で“伺う”。睫毛の影、喉仏の上下。紙の端を持つ親指が、途中で少しだけ強くなる。
露が鈴の音を落とすたび、彼の呼吸が合わせるように静かに揺れた。
やがて、彼は息をひとつ吐いた。
「……読むと、部屋が短くなるようだ」
「お部屋が、短く?」
「長い部屋に、音が届く。君の字は小さい。けれど、音がある」
比喩がぎこちなくて、まっすぐだ。リディアは嬉しくなって、でも頬は熱くなって、袖口のレースをそっとつまんだ。
「わたし、これからも——たまに、書いても良いですか?」
「頼む」
彼は小さく咳払いをし、わずかに目を逸らす。「……言葉を探すのが遅い。君は、待てるか」
待つことなら得意だ、と言いかけて飲み込む。せっかく彼が自分の速度を見せてくれたのだから、急いで答えを乗せたくなかった。リディアは首をこてん、と傾けて、待つ合図だけを目で伝える。ルフが“よくできました”とでも言うように、背で羽を鳴らした。
ベンチの上で忘れな草が揺れる。リディアは小瓶に挿し、瓶の首に空色のリボンを結ぶ。結び終わる手元を、コンラッドが“伺う”みたいに黙って見ていた。
「……私も、書く」
「コンラッド様が?」
小さく頷く。ジャケットの内側から質素なメモ用紙を出して、万年筆のキャップを外す手が一瞬止まる。紙に、ゆっくりと。——L i d i a。
彼は自分の書いたそれを見て、わずかに眉根を寄せた。
「……曲がった」
「まっすぐです。わたしの名前、嬉しいです」
言った瞬間、心臓が跳ねる。嬉しい、を渡すのは照れくさい。けれど、渡さないと届かない。
コンラッドは紙を畳み、封もせず胸ポケットにしまった。胸の位置が、少しだけ高く見える。
「家では、名前を呼ばれない。肩書と、姓ばかりだ」
そこに、孤独の輪郭が現れる。長い廊下、四角い机、音のないティーカップ——かつての光景が、言葉の裏から立ちのぼる。
リディアは、迷って、袖口のレースの端を指先で撫でる。触れない代わりに、触れ方を“伺う”仕草。
「あの……呼んでも、いいですか?」
彼は目を上げ、まっすぐに受け止める視線の形を思い出したように、少しだけ姿勢を正した。
「許す。……いや、望む」
「こ、コンラッド様」
名を置いた場所に、露の鈴がひとつ落ちた。ベンチの木目が星のように光り、ルフが小さく跳ねる。
彼の口角が、ほんの少しだけ、やさしい角度をつくった。
「忘れな草——君が選んだのか」
「はい。名前が、好きで。『忘れないで』って、言うみたいで」
「忘れない」
その言葉は、低いけれど確かに温かい。
「読む。何度でも」
小瓶のリボンを指で弾くと、結び目がきゅっと鳴った気がした。リディアはベンチの中央へ、すり、と半歩。届きそうで届かない距離。
彼は手を持ち上げ——空中で止める。止める場所は、前より少し近い。止め方に、学びの跡がある。リディアはその空白に、そっと自分の影だけを近づけた。触れないまま、温度だけを重ねる。
別れ際、封筒をもう一度受け取り直した彼は、それを手袋の内側に滑り込ませた。
「落ちない」
「あ……それ、わたしの真似です。手袋にしまうの、好きで」
「知っている」
短い肯定。
「君の“好き”は、私の“覚える”になる」
胸の真ん中で、何かがほどけて結び直される。嬉しい。やっぱり少し切ない。もっと、好きになってしまったから。
ルフが、ちいさな羽音を残して天蓋の上へ。硝子越しの空が薄く晴れていく。
その夜——
広い書斎。机の左端に、レース縁の便箋が一枚。コンラッドは椅子を引く音に初めて安心を感じ、机の引き出しを整えた。左二番目には、白い封筒と柔らかい封蝋。硬い蝋はやめる。指を傷つけないように。
彼はペン先で、さきほど書いた一語をもう一度、ゆっくりとなぞる。
L i d i a。
音のない部屋に、紙の摩擦音がやさしく続く。
——柔らかい封蝋に替えた。君の指を傷つけないために。
リディアはレース縁の便箋を膝にのせ、袖口をきゅっと握った。ひと文字、またひと文字。自分の心よりも小さな字でしか書けないのは、嬉しさがこぼれないよう縫いとめる癖みたいなもの。
(うまく、届くといいな)
青い小鳥ルフが、くちばしに空色の細リボンをくわえて降りてくる。忘れな草の色。リディアが書き終えて封をすると、ルフはちいさく首をかしげ、結び目がゆるまないかを“伺う”ように覗き込んだ。
「ありがとう、ルフ。……似合っている?」
一声。承認の鈴。
星木のベンチまで“とことこ”歩いて、リディアは端にちょこんと座る。硝子戸の向こうに影が揺れ、心がころりと跳ねた。こてん、と首が傾くのを自覚して、慌てて背筋を伸ばす。
黒の外套、きちんと整った線。コンラッドは今日も“整い”をまとって現れた。近づく足音に合わせてルフがひと跳び、ベンチの背で羽をふくらませる。
「お待たせしました、コンラッド様」
「待っていた」
短い声。その後に、ほんの一拍の、言葉を探す沈黙。「……その、雨が降っていなくとも、来た」
星庭は、少し明るくなった気がする。リディアは両手で包んだ封筒を差し出し、そっと彼の表情を“伺う”。視線が合いかけて逸れる。その不器用さが愛しくて、胸のあたりがちくりとした。
「お手紙を。わたし、長く話すのが……あの、苦手で。これなら、上手に伝えられるかもしれなくて」
コンラッドは受け取る指先の動きを、ゆっくりと慎重にした。まるで紙が薄い雪だと知っているかのような手つき。封蝋のリボンがほどけないのを確かめると、彼はベンチの背にもたれず、わずかに前屈みの姿勢で読み始める。
その横顔を、リディアはレース越しの視線で“伺う”。睫毛の影、喉仏の上下。紙の端を持つ親指が、途中で少しだけ強くなる。
露が鈴の音を落とすたび、彼の呼吸が合わせるように静かに揺れた。
やがて、彼は息をひとつ吐いた。
「……読むと、部屋が短くなるようだ」
「お部屋が、短く?」
「長い部屋に、音が届く。君の字は小さい。けれど、音がある」
比喩がぎこちなくて、まっすぐだ。リディアは嬉しくなって、でも頬は熱くなって、袖口のレースをそっとつまんだ。
「わたし、これからも——たまに、書いても良いですか?」
「頼む」
彼は小さく咳払いをし、わずかに目を逸らす。「……言葉を探すのが遅い。君は、待てるか」
待つことなら得意だ、と言いかけて飲み込む。せっかく彼が自分の速度を見せてくれたのだから、急いで答えを乗せたくなかった。リディアは首をこてん、と傾けて、待つ合図だけを目で伝える。ルフが“よくできました”とでも言うように、背で羽を鳴らした。
ベンチの上で忘れな草が揺れる。リディアは小瓶に挿し、瓶の首に空色のリボンを結ぶ。結び終わる手元を、コンラッドが“伺う”みたいに黙って見ていた。
「……私も、書く」
「コンラッド様が?」
小さく頷く。ジャケットの内側から質素なメモ用紙を出して、万年筆のキャップを外す手が一瞬止まる。紙に、ゆっくりと。——L i d i a。
彼は自分の書いたそれを見て、わずかに眉根を寄せた。
「……曲がった」
「まっすぐです。わたしの名前、嬉しいです」
言った瞬間、心臓が跳ねる。嬉しい、を渡すのは照れくさい。けれど、渡さないと届かない。
コンラッドは紙を畳み、封もせず胸ポケットにしまった。胸の位置が、少しだけ高く見える。
「家では、名前を呼ばれない。肩書と、姓ばかりだ」
そこに、孤独の輪郭が現れる。長い廊下、四角い机、音のないティーカップ——かつての光景が、言葉の裏から立ちのぼる。
リディアは、迷って、袖口のレースの端を指先で撫でる。触れない代わりに、触れ方を“伺う”仕草。
「あの……呼んでも、いいですか?」
彼は目を上げ、まっすぐに受け止める視線の形を思い出したように、少しだけ姿勢を正した。
「許す。……いや、望む」
「こ、コンラッド様」
名を置いた場所に、露の鈴がひとつ落ちた。ベンチの木目が星のように光り、ルフが小さく跳ねる。
彼の口角が、ほんの少しだけ、やさしい角度をつくった。
「忘れな草——君が選んだのか」
「はい。名前が、好きで。『忘れないで』って、言うみたいで」
「忘れない」
その言葉は、低いけれど確かに温かい。
「読む。何度でも」
小瓶のリボンを指で弾くと、結び目がきゅっと鳴った気がした。リディアはベンチの中央へ、すり、と半歩。届きそうで届かない距離。
彼は手を持ち上げ——空中で止める。止める場所は、前より少し近い。止め方に、学びの跡がある。リディアはその空白に、そっと自分の影だけを近づけた。触れないまま、温度だけを重ねる。
別れ際、封筒をもう一度受け取り直した彼は、それを手袋の内側に滑り込ませた。
「落ちない」
「あ……それ、わたしの真似です。手袋にしまうの、好きで」
「知っている」
短い肯定。
「君の“好き”は、私の“覚える”になる」
胸の真ん中で、何かがほどけて結び直される。嬉しい。やっぱり少し切ない。もっと、好きになってしまったから。
ルフが、ちいさな羽音を残して天蓋の上へ。硝子越しの空が薄く晴れていく。
その夜——
広い書斎。机の左端に、レース縁の便箋が一枚。コンラッドは椅子を引く音に初めて安心を感じ、机の引き出しを整えた。左二番目には、白い封筒と柔らかい封蝋。硬い蝋はやめる。指を傷つけないように。
彼はペン先で、さきほど書いた一語をもう一度、ゆっくりとなぞる。
L i d i a。
音のない部屋に、紙の摩擦音がやさしく続く。
——柔らかい封蝋に替えた。君の指を傷つけないために。
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