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第十話 撫子の告白(ナデシコ)
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午後の星庭は、薄桃のやわらかさを空から借りてきたみたいだった。
撫子が細い花びらの縁をほつれさせ、風にふるふるとほどけては結び直す。
ベンチの背では、ルフが胸をふくらませ、今日はもう一羽——小さな客人が並んでいる。首にごく細い薄桃のリボン。ルフは得意げに翼で“紹介”をしてから、二羽で同時にちいさく会釈した。
扉の陰で、リディアは襟元のレースを押さえ、そっと“伺う”。
黒の外套、整った線。コンラッドはベンチの座面を布で一度拭い、指の腹で木目の滑らかさを確かめていた。
近づく足音に気づくと、立ち上がるまでの一拍——今日は、いつもよりさらに短い。
「こんにちは、コンラッド様」
「ああ」
声は低く、昼の光に溶けるやわらかさ。
リディアは“とことこ”と近づき、ベンチの中央へ行く前に小さく立ち止まる。裾のレースをつまみ、首をこてん——“ここ、並んでいい?”を目で伺う。
「……許す」
ためらいのない言葉が置かれた。
リディアは、はじめて“中央”にちょこんと座る。届きそうで、もう届く距離。
ルフと薄桃の小鳥(リリと名乗ったように鳴く)が、背で左右に別れて留まり、二羽で同時に尾をふる。——“距離、よし”。
「この子は……?」
リディアが目で伺うと、ルフが胸を張り、リリが薄桃のリボンをつつく。
「増えた」
コンラッドはわずかに口角を上げる。「君が来ると、星庭の数が増える」
胸の真ん中がふうっと温かくなって、袖口をぎゅっと握る小さな手がほどける。
リディアは小瓶を取り出し、撫子の花を一本、薄桃のリボンでゆるく結んだ。結び目を作る前に、彼の表情を“伺う”。
視線は、いつものやさしい許可。
「撫子は……『純愛』。それから、『あなたのすべてを愛でたい』って意味も、あるそうです」
言ってから、頬が熱くなる。
リリが“きゅ”と短く鳴き、ルフが相づちみたいに一声。
コンラッドの睫毛が、かすかに震えた。
「……私は、すべての扱いに自信がない」
探す言葉をひとつずつ置く。「音も、距離も。触れたあと、戻り方ばかり覚えた」
「戻り方を知っている人は、寄り方も上手になれます」
リディアは小さく息をのせる。「……教えてください。コンラッド——様」
舌先で“様”が転んだ。彼女は袖口を握り、もう一度、首をこてんと小さく傾ける。
息だけで“伺う”。——「お名前で、呼んでもいいですか?」
彼は、星木の天蓋を一度見上げ、それからまっすぐにこちらを見る。
昼の光の中で、低く確かな言葉。
「——望む」
「……コンラッド」
名を置いた瞬間、露の鈴がひとつ転がった。
ルフとリリが同時に、ひと鳴き。
コンラッドの肩から、ほとんど見えないほど小さく力が抜ける。
「私も」
彼は息を整え、言い添える。「……リディア」
初めて“役割”ではない名前が往復する。
ベンチの木目が星のように光り、撫子の花びらが一枚、ひらりと落ちてひざの上にとまった。
少しの沈黙。
コンラッドは指先を空中で止め——ない。
ひざ掛けの上、手袋越しに彼女の手袋の甲へ、そっと重ねる。
重さは羽より軽いのに、胸の真ん中が静かに沈む。
「私の名は、肩書より軽いと思っていた」
彼はかすかに笑う。「呼ばれたことが少ない。……名は、軽いままでいいのだと、思っていた」
「軽い名は、遠くまで届きます」
リディアは袖口をそっと撫でる。「重く抱えて落とすより、何度でも呼び合えます。——コンラッド」
名を二度目に置くと、彼は一瞬だけ目を閉じ、胸ポケットに触れた。
そこには、すみれとラベンダーと、白い手袋の記憶。
彼の声が、昼下がりの光をひと筋ほどいて、静かに落ちる。
「母は、出かける前にレースの端を整える人だった」
短く、やわらかい回想。「撫子の刺繍の襟。小さい私は、それを指でなぞって待った。——戻る音を、いつも聴き逃したくなくて、息を小さくした」
待つために、小さくなる息。
置いていかれた少年の沈黙が、撫子の薄桃を少しだけ濃くする。
リディアは、彼の“戻す”を責めない距離で、そっと近づく。
ひざ掛けの端を自分の膝から、彼の膝へ。
触れないで触れる、最短。
「今は、戻る音をいっしょに作りましょう」
囁きほどの声。「わたし、わざと音を残します。椅子を引く小さな音、カップを置く鈴の音、レースが擦れる音」
「私も、残す」
彼は頷き、言葉を選ぶ。「名で呼ぶ音を、増やす。……リディア」
名は、即席の灯り。
ベンチの上で、撫子の結び目がきゅっと鳴った気がした。
ルフとリリが、背の上で小さな輪を二つ、器用に作る。薄桃と白。——“二人分”。
リディアはその輪を受け取り、一本を小瓶の首へ。もう一本を、コンラッドの胸ポケットの縁にそっと添えた。
指先が近い。止めどころは、もう止めずに、そのまま重なる。
「重くないか」
「好きです。——コンラッド」
名を置いた時、昼の光がすこしだけ甘くなった。
撫子の花びらが一枚、ベンチの板目に星の形でとまる。
触れない距離で、でもたしかに並んで、名の音を半分こにする。
二羽の小鳥だけが、今日の“中央”の意味を知っている。
別れ際、扉の前で、彼が短く言う。
「名で、書く」
それから、わずかに照れて続けた。「——君の名を、紙の上で練習する」
「わたしも、同じく。……コンラッド」
呼んだ名が、扉の蝶番の鳴らない音と混じって、静かに遠のく。
その夜——
広い書斎。机の右上、二つの小さな白い札。
一つには「Conrad」、もう一つには「Lidia」。癖の少ない、ゆっくり練習した文字。
二つ目のカップの受け皿の縁に、名前の札をそっと差し込む。
玄関の手袋掛けにも、小さな札を一枚ずつ。
大時計の代わりに、名を呼ぶ小さな呼び鈴を机の端へ。音はやさしく短い。
ペン先を整え、紙片に一行だけ残す。
——名札を作った。呼ぶために。——“コンラッド”と“リディア”が、部屋を短くする。
撫子が細い花びらの縁をほつれさせ、風にふるふるとほどけては結び直す。
ベンチの背では、ルフが胸をふくらませ、今日はもう一羽——小さな客人が並んでいる。首にごく細い薄桃のリボン。ルフは得意げに翼で“紹介”をしてから、二羽で同時にちいさく会釈した。
扉の陰で、リディアは襟元のレースを押さえ、そっと“伺う”。
黒の外套、整った線。コンラッドはベンチの座面を布で一度拭い、指の腹で木目の滑らかさを確かめていた。
近づく足音に気づくと、立ち上がるまでの一拍——今日は、いつもよりさらに短い。
「こんにちは、コンラッド様」
「ああ」
声は低く、昼の光に溶けるやわらかさ。
リディアは“とことこ”と近づき、ベンチの中央へ行く前に小さく立ち止まる。裾のレースをつまみ、首をこてん——“ここ、並んでいい?”を目で伺う。
「……許す」
ためらいのない言葉が置かれた。
リディアは、はじめて“中央”にちょこんと座る。届きそうで、もう届く距離。
ルフと薄桃の小鳥(リリと名乗ったように鳴く)が、背で左右に別れて留まり、二羽で同時に尾をふる。——“距離、よし”。
「この子は……?」
リディアが目で伺うと、ルフが胸を張り、リリが薄桃のリボンをつつく。
「増えた」
コンラッドはわずかに口角を上げる。「君が来ると、星庭の数が増える」
胸の真ん中がふうっと温かくなって、袖口をぎゅっと握る小さな手がほどける。
リディアは小瓶を取り出し、撫子の花を一本、薄桃のリボンでゆるく結んだ。結び目を作る前に、彼の表情を“伺う”。
視線は、いつものやさしい許可。
「撫子は……『純愛』。それから、『あなたのすべてを愛でたい』って意味も、あるそうです」
言ってから、頬が熱くなる。
リリが“きゅ”と短く鳴き、ルフが相づちみたいに一声。
コンラッドの睫毛が、かすかに震えた。
「……私は、すべての扱いに自信がない」
探す言葉をひとつずつ置く。「音も、距離も。触れたあと、戻り方ばかり覚えた」
「戻り方を知っている人は、寄り方も上手になれます」
リディアは小さく息をのせる。「……教えてください。コンラッド——様」
舌先で“様”が転んだ。彼女は袖口を握り、もう一度、首をこてんと小さく傾ける。
息だけで“伺う”。——「お名前で、呼んでもいいですか?」
彼は、星木の天蓋を一度見上げ、それからまっすぐにこちらを見る。
昼の光の中で、低く確かな言葉。
「——望む」
「……コンラッド」
名を置いた瞬間、露の鈴がひとつ転がった。
ルフとリリが同時に、ひと鳴き。
コンラッドの肩から、ほとんど見えないほど小さく力が抜ける。
「私も」
彼は息を整え、言い添える。「……リディア」
初めて“役割”ではない名前が往復する。
ベンチの木目が星のように光り、撫子の花びらが一枚、ひらりと落ちてひざの上にとまった。
少しの沈黙。
コンラッドは指先を空中で止め——ない。
ひざ掛けの上、手袋越しに彼女の手袋の甲へ、そっと重ねる。
重さは羽より軽いのに、胸の真ん中が静かに沈む。
「私の名は、肩書より軽いと思っていた」
彼はかすかに笑う。「呼ばれたことが少ない。……名は、軽いままでいいのだと、思っていた」
「軽い名は、遠くまで届きます」
リディアは袖口をそっと撫でる。「重く抱えて落とすより、何度でも呼び合えます。——コンラッド」
名を二度目に置くと、彼は一瞬だけ目を閉じ、胸ポケットに触れた。
そこには、すみれとラベンダーと、白い手袋の記憶。
彼の声が、昼下がりの光をひと筋ほどいて、静かに落ちる。
「母は、出かける前にレースの端を整える人だった」
短く、やわらかい回想。「撫子の刺繍の襟。小さい私は、それを指でなぞって待った。——戻る音を、いつも聴き逃したくなくて、息を小さくした」
待つために、小さくなる息。
置いていかれた少年の沈黙が、撫子の薄桃を少しだけ濃くする。
リディアは、彼の“戻す”を責めない距離で、そっと近づく。
ひざ掛けの端を自分の膝から、彼の膝へ。
触れないで触れる、最短。
「今は、戻る音をいっしょに作りましょう」
囁きほどの声。「わたし、わざと音を残します。椅子を引く小さな音、カップを置く鈴の音、レースが擦れる音」
「私も、残す」
彼は頷き、言葉を選ぶ。「名で呼ぶ音を、増やす。……リディア」
名は、即席の灯り。
ベンチの上で、撫子の結び目がきゅっと鳴った気がした。
ルフとリリが、背の上で小さな輪を二つ、器用に作る。薄桃と白。——“二人分”。
リディアはその輪を受け取り、一本を小瓶の首へ。もう一本を、コンラッドの胸ポケットの縁にそっと添えた。
指先が近い。止めどころは、もう止めずに、そのまま重なる。
「重くないか」
「好きです。——コンラッド」
名を置いた時、昼の光がすこしだけ甘くなった。
撫子の花びらが一枚、ベンチの板目に星の形でとまる。
触れない距離で、でもたしかに並んで、名の音を半分こにする。
二羽の小鳥だけが、今日の“中央”の意味を知っている。
別れ際、扉の前で、彼が短く言う。
「名で、書く」
それから、わずかに照れて続けた。「——君の名を、紙の上で練習する」
「わたしも、同じく。……コンラッド」
呼んだ名が、扉の蝶番の鳴らない音と混じって、静かに遠のく。
その夜——
広い書斎。机の右上、二つの小さな白い札。
一つには「Conrad」、もう一つには「Lidia」。癖の少ない、ゆっくり練習した文字。
二つ目のカップの受け皿の縁に、名前の札をそっと差し込む。
玄関の手袋掛けにも、小さな札を一枚ずつ。
大時計の代わりに、名を呼ぶ小さな呼び鈴を机の端へ。音はやさしく短い。
ペン先を整え、紙片に一行だけ残す。
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