月銀の温室 ーー触れない距離で、戻らない手を学ぶ。甘くて切ないじれじれ溺愛(年上寡黙×健気)

星乃和花

文字の大きさ
11 / 14

第十話 撫子の告白(ナデシコ)

しおりを挟む
 午後の星庭は、薄桃のやわらかさを空から借りてきたみたいだった。
 撫子が細い花びらの縁をほつれさせ、風にふるふるとほどけては結び直す。
 ベンチの背では、ルフが胸をふくらませ、今日はもう一羽——小さな客人が並んでいる。首にごく細い薄桃のリボン。ルフは得意げに翼で“紹介”をしてから、二羽で同時にちいさく会釈した。

 扉の陰で、リディアは襟元のレースを押さえ、そっと“伺う”。
 黒の外套、整った線。コンラッドはベンチの座面を布で一度拭い、指の腹で木目の滑らかさを確かめていた。
 近づく足音に気づくと、立ち上がるまでの一拍——今日は、いつもよりさらに短い。

「こんにちは、コンラッド様」

「ああ」
 声は低く、昼の光に溶けるやわらかさ。
 リディアは“とことこ”と近づき、ベンチの中央へ行く前に小さく立ち止まる。裾のレースをつまみ、首をこてん——“ここ、並んでいい?”を目で伺う。

「……許す」
 ためらいのない言葉が置かれた。

 リディアは、はじめて“中央”にちょこんと座る。届きそうで、もう届く距離。
 ルフと薄桃の小鳥(リリと名乗ったように鳴く)が、背で左右に別れて留まり、二羽で同時に尾をふる。——“距離、よし”。

「この子は……?」
 リディアが目で伺うと、ルフが胸を張り、リリが薄桃のリボンをつつく。

「増えた」
 コンラッドはわずかに口角を上げる。「君が来ると、星庭の数が増える」

 胸の真ん中がふうっと温かくなって、袖口をぎゅっと握る小さな手がほどける。
 リディアは小瓶を取り出し、撫子の花を一本、薄桃のリボンでゆるく結んだ。結び目を作る前に、彼の表情を“伺う”。
 視線は、いつものやさしい許可。

「撫子は……『純愛』。それから、『あなたのすべてを愛でたい』って意味も、あるそうです」

 言ってから、頬が熱くなる。
 リリが“きゅ”と短く鳴き、ルフが相づちみたいに一声。
 コンラッドの睫毛が、かすかに震えた。

「……私は、すべての扱いに自信がない」
 探す言葉をひとつずつ置く。「音も、距離も。触れたあと、戻り方ばかり覚えた」

「戻り方を知っている人は、寄り方も上手になれます」
 リディアは小さく息をのせる。「……教えてください。コンラッド——様」

 舌先で“様”が転んだ。彼女は袖口を握り、もう一度、首をこてんと小さく傾ける。
 息だけで“伺う”。——「お名前で、呼んでもいいですか?」

 彼は、星木の天蓋を一度見上げ、それからまっすぐにこちらを見る。
 昼の光の中で、低く確かな言葉。

「——望む」

「……コンラッド」

 名を置いた瞬間、露の鈴がひとつ転がった。
 ルフとリリが同時に、ひと鳴き。
 コンラッドの肩から、ほとんど見えないほど小さく力が抜ける。

「私も」
 彼は息を整え、言い添える。「……リディア」

 初めて“役割”ではない名前が往復する。
 ベンチの木目が星のように光り、撫子の花びらが一枚、ひらりと落ちてひざの上にとまった。

 少しの沈黙。
 コンラッドは指先を空中で止め——ない。
 ひざ掛けの上、手袋越しに彼女の手袋の甲へ、そっと重ねる。
 重さは羽より軽いのに、胸の真ん中が静かに沈む。

「私の名は、肩書より軽いと思っていた」
 彼はかすかに笑う。「呼ばれたことが少ない。……名は、軽いままでいいのだと、思っていた」

「軽い名は、遠くまで届きます」
 リディアは袖口をそっと撫でる。「重く抱えて落とすより、何度でも呼び合えます。——コンラッド」

 名を二度目に置くと、彼は一瞬だけ目を閉じ、胸ポケットに触れた。
 そこには、すみれとラベンダーと、白い手袋の記憶。
 彼の声が、昼下がりの光をひと筋ほどいて、静かに落ちる。

「母は、出かける前にレースの端を整える人だった」
 短く、やわらかい回想。「撫子の刺繍の襟。小さい私は、それを指でなぞって待った。——戻る音を、いつも聴き逃したくなくて、息を小さくした」

 待つために、小さくなる息。
 置いていかれた少年の沈黙が、撫子の薄桃を少しだけ濃くする。
 リディアは、彼の“戻す”を責めない距離で、そっと近づく。
 ひざ掛けの端を自分の膝から、彼の膝へ。
 触れないで触れる、最短。

「今は、戻る音をいっしょに作りましょう」
 囁きほどの声。「わたし、わざと音を残します。椅子を引く小さな音、カップを置く鈴の音、レースが擦れる音」

「私も、残す」
 彼は頷き、言葉を選ぶ。「名で呼ぶ音を、増やす。……リディア」

 名は、即席の灯り。
 ベンチの上で、撫子の結び目がきゅっと鳴った気がした。
 ルフとリリが、背の上で小さな輪を二つ、器用に作る。薄桃と白。——“二人分”。

 リディアはその輪を受け取り、一本を小瓶の首へ。もう一本を、コンラッドの胸ポケットの縁にそっと添えた。
 指先が近い。止めどころは、もう止めずに、そのまま重なる。

「重くないか」

「好きです。——コンラッド」

 名を置いた時、昼の光がすこしだけ甘くなった。
 撫子の花びらが一枚、ベンチの板目に星の形でとまる。
 触れない距離で、でもたしかに並んで、名の音を半分こにする。
 二羽の小鳥だけが、今日の“中央”の意味を知っている。

 別れ際、扉の前で、彼が短く言う。

「名で、書く」
 それから、わずかに照れて続けた。「——君の名を、紙の上で練習する」

「わたしも、同じく。……コンラッド」

 呼んだ名が、扉の蝶番の鳴らない音と混じって、静かに遠のく。

 その夜——

 広い書斎。机の右上、二つの小さな白い札。
 一つには「Conrad」、もう一つには「Lidia」。癖の少ない、ゆっくり練習した文字。
 二つ目のカップの受け皿の縁に、名前の札をそっと差し込む。
 玄関の手袋掛けにも、小さな札を一枚ずつ。
 大時計の代わりに、名を呼ぶ小さな呼び鈴を机の端へ。音はやさしく短い。

 ペン先を整え、紙片に一行だけ残す。



 ——名札を作った。呼ぶために。——“コンラッド”と“リディア”が、部屋を短くする。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

ため息ひとつ――王宮に散る花びらのように

柴田はつみ
恋愛
「離縁を、お願いしたいのです」 笑顔で、震えずに、エレナはそう言った。 夫は言葉を失った。泣いてくれれば、怒ってくれれば、まだ受け止め方があった。しかしあの静けさは、エレナがもう十分に泣き終わった後の顔だと、ヴィクトルにはわかった。 幼なじみと結ばれた三年間。すれ違いは静かに始まり、深紅のドレスの令嬢によって加速した。ため息を飲み込み、完璧な微笑みを保ち続けた公爵夫人が、最後に選んだのは――。 王宮に散る花びらのような、夫婦の崩壊と再生の物語。

元恋人が届けた、断りたい縁談

待鳥園子
恋愛
シュトルム辺境伯の末娘ソフィに隣国の帝国第二皇子から届けられた『縁談』の使者は、なんと元恋人のジョサイアだった。 手紙ひとつで別れることになったソフィは、素直になれずジョサイアから逃げ回る。 「私に届けなければ、彼は帝国に帰ることが出来ない」 そう思いようやく書状を受け取ろうと決意したソフィに、ジョサイアは何かを言い掛けて!?

【完結】どうか私を思い出さないで

miniko
恋愛
コーデリアとアルバートは相思相愛の婚約者同士だった。 一年後には学園を卒業し、正式に婚姻を結ぶはずだったのだが……。 ある事件が原因で、二人を取り巻く状況が大きく変化してしまう。 コーデリアはアルバートの足手まといになりたくなくて、身を切る思いで別れを決意した。 「貴方に触れるのは、きっとこれが最後になるのね」 それなのに、運命は二人を再び引き寄せる。 「たとえ記憶を失ったとしても、きっと僕は、何度でも君に恋をする」

【完結】無口な旦那様は妻が可愛くて仕方ない

ベル
恋愛
旦那様とは政略結婚。 公爵家の次期当主であった旦那様と、領地の経営が悪化し、没落寸前の伯爵令嬢だった私。 旦那様と結婚したおかげで私の家は安定し、今では昔よりも裕福な暮らしができるようになりました。 そんな私は旦那様に感謝しています。 無口で何を考えているか分かりにくい方ですが、とてもお優しい方なのです。 そんな二人の日常を書いてみました。 お読みいただき本当にありがとうございますm(_ _)m 無事完結しました!

ストーカーはもうしません!

エヌ
恋愛
ス、トー...カー? 自分の行為がストーカーかもしれないと気づき自重する令嬢と無表情無反応されるがままとみせかけたヤンデレ令息のお話。

地味令嬢、婚約者(偽)をレンタルする

志熊みゅう
恋愛
 伯爵令嬢ルチアには、最悪な婚約者がいる。親同士の都合で決められたその相手は、幼なじみのファウスト。子どもの頃は仲良しだったのに、今では顔を合わせれば喧嘩ばかり。しかも初顔合わせで「学園では話しかけるな」と言い放たれる始末。  貴族令嬢として意地とプライドを守るため、ルチアは“婚約者”をレンタルすることに。白羽の矢を立てたのは、真面目で優秀なはとこのバルド。すると喧嘩ばっかりだったファウストの様子がおかしい!?  すれ違いから始まる逆転ラブコメ。

物置部屋に追いやられた伯爵令嬢ですが、公爵様に見初められて人生逆転しました〜妹の引き立て役だったのに、今では社交界の花と呼ばれています〜

丸顔ちゃん。
恋愛
伯爵家の令嬢セレナは、実母の死後、継母と義妹に虐げられて育った。 与えられた部屋は使用人以下の物置、食事は残飯、服はボロ。 専属侍女も与えられず、家の運営や帳簿管理まで押し付けられ、 失敗すれば鞭打ち――それが彼女の日常だった。 そんなある日、世間体のためだけに同行させられた夜会で、 セレナは公爵家の跡取りレオンと出会う。 「あなたの瞳は、こんな場所に閉じ込めていいものではない」 彼はセレナの知性と静かな強さに一瞬で心を奪われ、 彼女の境遇を知ると激怒し、家族の前で堂々と求婚する。 嫁ぎ先の公爵家で、セレナは初めて“人として扱われ”、 広い部屋、美味しい食事、優しい侍女たちに囲まれ、 独学で身につけた知識を活かして家の運営でも大活躍。 栄養と愛情を取り戻したセレナは、 誰もが振り返るほどの美しさを開花させ、 社交界で注目される存在となる。 一方、セレナを失った伯爵家は、 彼女の能力なしでは立ち行かず、 ゆっくりと没落していくのだった――。 虐げられた令嬢が、公爵の愛と自分の才能で幸せを掴む逆転物語。

完結·婚約破棄された氷の令嬢は、嫁がされた枯れおじのもとで花開く

恋愛
ティリアは辺境にある伯爵の娘であり、第三王子ガフタの婚約者であった。 だが、この婚約が気に入らないガフタは学園生活でティリアを冷遇し、卒業パーティーで婚約破棄をする。 しかも、このまま実家に帰ろうとするティリアにガフタは一回り以上年上の冴えないおっさん男爵のところへ嫁ぐように命令する。 こうしてティリアは男爵の屋敷へと向かうのだが、そこにいたのは…… ※完結まで毎日投稿します ※小説家になろう、Nolaノベルにも投稿中

処理中です...