看病しに行ったら、当主の“眠り”になってしまった

星乃和花

文字の大きさ
4 / 36

4:鍵の音(きちんと掛けられた)

ランプの灯りは、弱いのに逃げ場がなかった。

夜の静けさは、柔らかいのに息が詰まる。

リィナは椅子の上で背筋を固くして座り続け、当主の寝息が安定しているのを確かめた。
——眠った。確かに眠った。呼吸は深い。咳もない。

(……帰らなきゃ)

指示書は「眠ってから離室」と書いてある。
眠った今、離室すれば指示は守れる。仕事は完了だ。言い訳も立つ。

リィナはそっと立ち上がった。

床板が鳴らない場所を選んで歩く。
盆を持ち上げ、扉へ向かう。

その時だった。

「……っ」

背後で布が擦れる音がして、リィナは立ち止まった。
振り返ると、当主の手が布団の上から伸びていた。目は閉じたまま。意識はないはずなのに、指が空を探っている。

——昨日と同じ。

胸がぎゅっと締まる。

(眠っているのに……)

リィナは迷った。
近づけば、また手を握られるかもしれない。
握られたら、今日も帰れなくなる。

でも、あの手は、明らかに何かを探している。
触れられないものを求めている。

リィナは、盆を机に置いた。
音が立たないように。呼吸を殺す。

そして、ベッドの左側——指示された椅子の位置に戻る。
当主の手が届く距離に、戻ってしまう。

(……私、何してるの)

自分に呆れそうになりながら、リィナは椅子に座り直した。
膝の上に手を置く。見せない。触れさせない。仕事だ。仕事だ。

けれど、当主の指は、空を掴むばかりで落ち着かない。
呼吸が少し浅くなり、喉が小さく鳴る。苦しい夢でも見ているのかもしれない。

リィナは、ため息を飲み込んだ。

——看病とは、体を治すことだけではない。
彼が“安心できる状態”を作ること。

なら。

リィナは、そっと自分の指先を差し出した。
ほんの少し。触れるだけでいい。握られたら終わり。だから、触れるだけ。

当主の指先が、リィナの指に触れた。

次の瞬間、迷いなく握り込まれる。

「……っ」

息が漏れた。
やっぱり。やっぱりこうなる。

握り方は強くない。けれど、確実で、逃げられない。
“落としたくない”という確信の握り方。

リィナは目を閉じた。

(……明日、侍女長にどう説明しよう)

その時、扉の外から小さな足音がした。
リィナはびくりと肩を揺らし、慌てて顔を上げる。

ノックは、ない。
かわりに、鍵が回る音。

——開く。

リィナの心臓が止まりそうになった。

扉が静かに開いて、入ってきたのは執事だった。
背筋の伸びた老人——当主の右腕と呼ばれる男。表情は何も語らないのに、目だけがすべてを見抜いているようで、リィナは咄嗟に立ち上がろうとした。

しかし、握られた手が離れない。

リィナは固まったまま、執事を見た。

執事はリィナの手元を一瞬だけ見て、すぐに視線を逸らした。
そして、当主の寝息を確認するように近づき、低い声で言う。

「……眠っておられますね」

「は、はい……。あの、私は、今、帰ろうと——」

「結構です」

執事は遮らず、淡々と続けた。

「医師の指示は、“一人にしない”でした。あなたがここにいるのは、職務上、妥当です」

職務上。
その言葉に、リィナの肺に息が戻る。

「ですが……」

執事の声が、わずかに柔らかくなる。

「当主は、あなたが来てから咳が止まりました。眠りも深い。……それは事実です」

リィナは唇を噛んだ。
そんなこと、聞きたくなかった。
自分がいることで良くなると証明されたら、ここを離れられなくなる。

「……私がいることで、回復するなら。それは、皆さまのために……」

「ええ」

執事は頷いた。

「そして、当主のためでもある」

言い切る声が、妙に優しい。
リィナは顔を上げる。執事は扉に目を向け、低く言った。

「鍵が開いていた理由を、あなたは不審に思ったでしょう」

リィナは、息を呑む。

「……はい。普段は、ありえません」

執事は、答えを急がず、ランプの灯りを見た。
それから、静かに言う。

「当主が、命じたのです。守りを下げろ、と」

リィナは言葉を失った。

「……私が来やすいように、ですか」

自分でも気づかないほど小さな声。

執事は否定もしない。肯定もしない。
ただ、事務的な顔で続けた。

「当主は命令を使いたくないと言いましたね。……しかし、あの方は命令の扱いに慣れすぎています」

リィナの手が、じわりと熱くなる。
握られているせいだけではない。

「命令しない代わりに、環境を設計する」

執事は淡々と結論を言った。

「あなたがここに来る“当然”を、増やす。あなたが帰りにくい“当然”を、増やす」

——捕獲。
その言葉が頭の中で揺れた。

リィナは震える息で、抗議するように言う。

「……でも、それでは。私は……」

「使用人です」

執事は静かに言った。

「しかし、あなたが“ただの使用人”でいられるかどうかは、当主次第です」

当主次第。
そんなこと、あっていいはずがない。

リィナは握られた手を見た。
当主の指は、眠っているのに緩まない。
まるで、彼女が消えるのを恐れているみたいに。

執事は一歩下がり、扉の方へ戻った。

「リィナ」

呼びかけられて、リィナは顔を上げる。

執事は、ふっと目元だけを柔らかくした。

「あなたが倒れないように。……それだけが、屋敷の望みです」

そう言って、執事は出ていった。
扉が閉まる。鍵の音。今度は、きちんと掛けられた。

リィナは固まったまま、鍵の音を聞いた。

(……閉めた?)

閉めた。
つまり——。

リィナは立ち上がろうとした。
でも、握られた手が離れない。

泣きたいのに、涙が出ない。
怒りたいのに、怒りの向け先がない。

ただ、熱い。

当主が眠りながら、彼女の指を握り続ける。
その熱が、リィナの心までじわじわと溶かしていく。

しばらくして、当主が小さく息を吐いた。
そして、眠ったまま、かすれた声を落とす。

「……逃げるな」

リィナは息を呑む。

目は閉じたまま。
意識があるのか、ないのか分からない。

でも、確かに聞こえた。

「……リィナ」

名前を呼ばれる。

それだけで、胸の奥が柔らかく痛くなる。
言葉を返してしまいそうになる。

リィナは唇を噛み、震える声で、ぎりぎりの言い訳を作った。

「……逃げません。看病ですから」

言い終えた瞬間、当主の指がほんの少しだけ緩む。
満足したように、呼吸が深くなる。

——捕獲されている。
理屈では分かるのに。

リィナはランプの灯りを見つめた。

弱い灯り。
でも、ここにある限り、彼は眠れる。

そして、ここにいる限り——
彼は、彼女を離さない。
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】無口な旦那様は妻が可愛くて仕方ない

ベル
恋愛
旦那様とは政略結婚。 公爵家の次期当主であった旦那様と、領地の経営が悪化し、没落寸前の伯爵令嬢だった私。 旦那様と結婚したおかげで私の家は安定し、今では昔よりも裕福な暮らしができるようになりました。 そんな私は旦那様に感謝しています。 無口で何を考えているか分かりにくい方ですが、とてもお優しい方なのです。 そんな二人の日常を書いてみました。 お読みいただき本当にありがとうございますm(_ _)m 無事完結しました!

白い結婚は無理でした(涙)

詩森さよ(さよ吉)
恋愛
わたくし、フィリシアは没落しかけの伯爵家の娘でございます。 明らかに邪な結婚話しかない中で、公爵令息の愛人から契約結婚の話を持ち掛けられました。 白い結婚が認められるまでの3年間、お世話になるのでよい妻であろうと頑張ります。 小説家になろう様、カクヨム様にも掲載しております。 現在、筆者は時間的かつ体力的にコメントなどの返信ができないため受け付けない設定にしています。 どうぞよろしくお願いいたします。

側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、陛下は私を離してくれません!

花瀬ゆらぎ
恋愛
「おまえには、国王陛下の側妃になってもらう」 婚約者と親友に裏切られ、傷心の伯爵令嬢イリア。 追い打ちをかけるように父から命じられたのは、若き国王フェイランの側妃になることだった。 しかし、王宮で待っていたのは、「世継ぎを産んだら離縁」という非情な条件。 夫となったフェイランは冷たく、侍女からは蔑まれ、王妃からは「用が済んだら去れ」と突き放される。 けれど、イリアは知ってしまう。 彼が兄の死と誤解に苦しみ、誰よりも孤独の中にいることを──。 「私は、陛下の幸せを願っております。だから……離縁してください」 フェイランを想い、身を引こうとしたイリア。 しかし、無関心だったはずの陛下が、イリアを強く抱きしめて……!? 「離縁する気か?  許さない。私の心を乱しておいて、逃げられると思うな」 凍てついた王の心を溶かしたのは、売られた側妃の純真な愛。 孤独な陛下に執着され、正妃へと昇り詰める逆転ラブロマンス!

【完結】冷徹執事は、つれない侍女を溺愛し続ける。

たまこ
恋愛
 公爵の専属執事ハロルドは、美しい容姿に関わらず氷のように冷徹であり、多くの女性に思いを寄せられる。しかし、公爵の娘の侍女ソフィアだけは、ハロルドに見向きもしない。  ある日、ハロルドはソフィアの真っ直ぐすぎる内面に気付き、恋に落ちる。それからハロルドは、毎日ソフィアを口説き続けるが、ソフィアは靡いてくれないまま、五年の月日が経っていた。 ※『王子妃候補をクビになった公爵令嬢は、拗らせた初恋の思い出だけで生きていく。』のスピンオフ作品ですが、こちらだけでも楽しめるようになっております。

「氷の公爵子息は、平凡令嬢を手放さない」

白瀬しおん
恋愛
ただぶつかっただけのはずだった。 なのに気づけば、氷の公爵子息は隣に座り、手を取り、名前を呼ぶ。 そして—— 「逃げてもいい。でも、逃げ切れない」 平凡令嬢を静かに囲い込む、逃げ場なしの溺愛。 最後に待つのは、拒否権のない婚約だった。 ※初投稿のため、至らない点があるかもしれませんが、温かく見守っていただけると嬉しいです。

【完結】目覚めたら男爵家令息の騎士に食べられていた件

三谷朱花*Q−73@文フリ東京5/4
恋愛
レイーアが目覚めたら横にクーン男爵家の令息でもある騎士のマットが寝ていた。曰く、クーン男爵家では「初めて契った相手と結婚しなくてはいけない」らしい。 ※アルファポリスのみの公開です。

生贄として捧げられた「忌み子」の私、あやかし皇帝の薬膳料理番になります ~呪いで拒食症の白虎陛下は、私のおかゆに胃袋を掴まれたようです~

腐ったバナナ
恋愛
実家の「一条家」で霊力なしの忌み子として虐げられてきた凛。生贄としてあやかしの国・天厳国へ捧げられた彼女を待っていたのは、呪いによって食事がすべて「泥の味」に変わる孤独な白虎皇帝・白曜だった。 死を覚悟した凛だったが、前世で培った「管理栄養士」の知識は、あやかしの国では伝説の「浄化の力」として目醒める! 最高級の出汁、完璧な栄養バランス、そして食べる者を想う真心。凛が作る一杯の「黄金の粥」が、数年間不食だった王の味覚を劇的に呼び起こした。 「美味い。……泥ではない味がする」 胃袋を掴まれた皇帝の態度は一変。冷酷な暴君から、凛を誰にも触れさせたくない「超絶過保護な独占欲の塊」へと豹変してしまい……!? 嫌がらせをする後宮の妃や、手の平を返して擦り寄る実家を「料理」と「陛下からの愛」で一掃する、美味しくて爽快な異世界中華風ファンタジー。

【完結】ハメられて追放された悪役令嬢ですが、爬虫類好きな私はドラゴンだってサイコーです。

美杉日和。(旧美杉。)
恋愛
 やってもいない罪を被せられ、公爵令嬢だったルナティアは断罪される。  王太子であった婚約者も親友であったサーシャに盗られ、家族からも見捨てられてしまった。  教会に生涯幽閉となる手前で、幼馴染である宰相の手腕により獣人の王であるドラゴンの元へ嫁がされることに。  惨めだとあざ笑うサーシャたちを無視し、悲嘆にくれるように見えたルナティアだが、実は大の爬虫類好きだった。  簡単に裏切る人になんてもう未練はない。  むしろ自分の好きなモノたちに囲まれている方が幸せデス。