看病しに行ったら、当主の“眠り”になってしまった

星乃和花

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6:持ち場は俺の部屋だ

リィナは、答えを先延ばしにした。

「……朝食の準備がございます。まずは、それを」

当主は目を閉じたまま、短く返す。

「逃げるな」

逃げてはいない。
職務を——と口にしかけて、リィナはやめた。

彼の前で「職務」を盾にした瞬間、それは彼の“理由の設計”に取り込まれる。
当主はその程度の言葉遊びに、負けない。

リィナは深呼吸し、扉の外へ出た。

廊下は冷たい。
それなのに、背中が熱い。視線を刺されている気がする。扉を閉めても、まだ彼の手の熱が手首に残っている。

(今夜、来るか)

問いを胸に抱えたまま、リィナは台所へ向かった。



朝食は、当主の分だけではない。
屋敷の朝は、使用人たちの朝でもある。黙々と動く人数の中に戻ると、リィナの頭は少しだけ冷えた。

しかし、侍女長がリィナを見つけた瞬間、その冷えは一瞬で溶けた。

「リィナ」

鋭い声。
リィナは手を止め、背筋を伸ばす。

「……はい」

侍女長はリィナの顔をじっと見た。
夜勤明けの顔。目の下の影。髪の乱れ。何より、手首のあたり——袖で隠しても、昨日の跡が消えていない。

「寝たの?」

質問が短い。
逃げられない。

リィナは正直に答えた。

「……少しだけ。椅子で」

侍女長は目を細めた。
叱責が来ると思って身構える。

けれど侍女長は、意外にも溜息を吐いた。

「あなたが倒れたら、当主がさらに荒れるわ」

リィナは目を瞬いた。

「……荒れる?」

侍女長は咳払いし、声を落とす。

「今朝、執事が当主の部屋を離れた後、当主は——」

言いかけて、侍女長は言葉を選ぶように止めた。
そして、端的に言う。

「“リィナはどこだ”と言いました」

胸が跳ねる。
当主が、そんなことを——。

侍女長はさらに続けた。

「私があなたを持ち場に戻したと言ったら、“持ち場は俺の部屋だ”と」

リィナは息を呑んだ。

侍女長は表情を変えない。
だが、目だけが少し疲れている。

「あなたが悪いと言いたいわけじゃない。ただ……当主が、普段の当主ではない」

普段の当主。
冷静で、感情を出さず、必要な命令だけを出す人。

それが、昨日から変わっている。
彼自身が望んで変わっているのか、熱のせいで崩れているのか。リィナには分からない。

「……私、どうすれば」

弱音が漏れた。

侍女長は言い切った。

「休みなさい」

「え……」

「今日のあなたの持ち場は、台所じゃない」

侍女長は普段より少しだけ強い声で言う。

「部屋へ戻って、寝なさい。昼まで」

リィナは反射的に首を振った。

「でも、当主の看病が——」

「看病は、あなた一人の仕事じゃない」

侍女長は冷たく言った。けれど、その冷たさは優しさの形だ。

「それに、あなたが倒れたら——当主は本当にあなたを“管理”し始める」

リィナは凍った。

あの言葉だ。
「勤務を管理する」「睡眠も食事も灯りも整える」。
冗談じゃない。冗談ではない。

侍女長は眉を寄せる。

「あなたは、当主の“理由”になってしまっている。……だからこそ、距離を取るなら今」

距離。

取れるのだろうか。
もう手を握られて、名前を呼ばれて、扉を閉められて。

(……でも)

リィナは頷けない。
距離を取ったら、彼が眠れないと——言われた。

医師の指示。職務。
それらを盾にしながら、結局、彼を“ひとりにする”ことになる。

侍女長はリィナの沈黙を見て、静かに言った。

「今日、眠りなさい。今夜のことは……その後で考えればいい」

今夜。
あの問い。

リィナは唇を噛み、頷いた。

「……はい」



自室へ戻る途中、リィナは一度だけ当主の部屋の前を通った。
扉は閉まっている。外には執事の姿がない。守りの気配も薄い。

(……また、鍵、開いてるのかな)

思うだけで心臓が跳ねる。
確かめる勇気はないのに、確かめたい。

リィナはそのまま通り過ぎ、自室へ入り、ベッドへ倒れ込んだ。

眠れないと思った。
頭の中がうるさすぎる。

けれど、身体は正直だった。
目を閉じると、椅子の硬さではなく柔らかい寝台が、あまりにも心地よくて。

——すとん、と意識が落ちた。

そして、夢を見た。

ランプの灯り。
弱い灯り。
その中で、誰かが自分の手を取る。

温かい。
痛くない。

ただ、離れられない。

「……ここにいろ」

夢の中の声が、低く囁く。

リィナは目を覚ました。

昼だった。

窓から差し込む光が眩しい。
身体が少し軽い。目の奥の痛みも薄い。

(……寝た)

本当に、寝てしまった。
その事実が、少しだけ嬉しい。少しだけ怖い。

起き上がった瞬間、扉が叩かれた。

「リィナ」

執事の声。

リィナは慌てて返事をし、扉を開けた。

執事はいつも通りの無表情で、しかし、いつもより一歩だけ近い距離に立っていた。

「当主がお呼びです」

胸が跳ねる。

「……今、ですか」

「はい。……目覚めたと聞いた途端に」

リィナは言葉を失った。

執事は淡々と補足する。

「当主は回復しております。……だからこそ、頭が回る」

それは、警告だった。

「おそらく今夜の件を、改めて“合理的に”詰めます」

リィナは喉を鳴らした。

(合理的に詰める……)

つまり、“逃げられない理由”を、さらにきれいに組み立てられる。

執事は一歩だけ道を空けた。

「来てください。……当主の部屋へ」

リィナは頷くしかなかった。

——廊下を歩く。
足音が、自分のものとは思えない。

当主の部屋の前に来ると、執事はノックをした。

「当主、リィナが参りました」

返事がある。

「入れ」

扉が開く。

部屋の中は、朝より少し整っていた。
ランプは消えている。カーテンは少し開いて、空気が入っている。
当主は上体を起こし、ベッド脇の椅子に座るよう示す。

その目は、もう熱に浮かされていない。

冷静な目。
そして——冷静な執着。

「リィナ」

名前を呼ばれる。
呼吸が乱れる。

当主は淡々と告げた。

「今夜、お前が来る理由を決める」

リィナの背中が冷たくなる。

「理由、など……」

「必要だろう」

当主は言い切る。

「お前が“仕事”と言い張れる理由が。……俺が“命令”と言わずに済む理由が」

——互いの言い訳を、契約にする。

当主は机の上の紙を指で叩いた。
そこには、もう新しい“指示書”が書かれている。

「選べ」

リィナは紙を見る。

案一:夜間看護当番(仮)
案二:灯り管理係(当主寝室専任)
案三:睡眠補助(会話と同席)

——全部、結局「夜に来い」じゃない。

リィナは唇を噛んだ。

当主は静かに、とどめを刺すように言った。

「拒否するなら、俺が“お前の生活”を整える」

あの約束。
“看病する側になった”未来。

リィナは椅子に座ったまま、動けない。

看病しに行ったら、看病される側になった。
その入口が、もう目の前にある。
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