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14:私の意思で
リィナは、指先を引き抜いた。
ゆっくり、丁寧に。
当主の指を傷つけないように。——それがもう、彼女の癖だと気づいて、胸が痛んだ。
当主の手が空を掴む。
けれど、追いかけて掴むことはしない。
“掴むのは禁止”。条件を守っている。
その代わりに、当主の目が鋭くなる。
「……逃げるのか」
「逃げません」
リィナは息を吸い、まっすぐ当主を見る。
「選びます。私の条件で」
当主の眉がわずかに動いた。
自分の用意した二択から外れた答え。
想定外。それでも怒らない。
「言え」
「“休養係”は、引き受けません」
当主の目が細くなる。
しかし、声は静かだ。
「理由は」
「仕事にしてしまったら、私は自分で止められなくなるからです」
リィナは、言葉を続けた。
「私は優しいから、ではなく……弱いから。仕事と言われたら、無理をします。枠が消えます」
当主は黙って聞いている。
その沈黙が、以前より少しだけ“待つ”に近い。
リィナはさらに言った。
「それから、“迎えに行く”のも嫌です」
当主の目が一瞬だけ揺れた。
「嫌な理由は」
「私が私のままでいられなくなるからです」
喉が震える。
でも言う。
「当主の“守る”は、私の生活を飲み込みます。……私は、それが怖い」
当主はしばらく黙った。
手を下ろし、視線を落とす。
そして、小さく息を吐いた。
「……なら、どうする」
問いが、初めて“設計”ではない問いに聞こえた。
リィナは胸の奥の震えを抑え、言った。
「看病は終わりました。だから……会うなら、私の意思で会いたいです」
当主が顔を上げる。
目が、僅かに鋭い。
「意思?」
「はい」
リィナは続けた。
「仕事でも、命令でも、提案でもなく……私が“行きたい”と思ったときに行きたい」
言った瞬間、頬が熱くなる。
言ってしまった。
“行きたい”。
それはもう、看病ではない。
当主の目が、静かに揺れた。
理解したのだ。
言葉に含まれたものを。
「お前は……行きたいのか」
問いが低い。
リィナは唇を噛んだ。
頷いたら終わる。
でも、もう言ってしまった。
「……行きたい日も、あります」
当主の喉が小さく動いた。
息を飲んだのが分かる。
「それなら」
当主は一歩だけ近づきかけて——止まる。
掴まない。努力している。
「条件を作れ」
リィナは目を瞬いた。
「また、枠を」
「そうだ」
当主は淡々と言う。
「俺は、お前が来る“理由”を設計する癖がある。……それを止めたいなら、お前が枠を作れ」
その言い方は、珍しく弱かった。
自分の癖を認めている。
頼っている。
リィナは息を吸い、思い切って言った。
「……では、約束を二つ」
当主が頷く。
「一つ。私に“迎えに行く”と言わない」
「……言わない」
「二つ。私が来ない日を、責めない。冷えると言わない」
当主の目が、わずかに細くなる。
痛いところだ。
でも、言わなければ枠にならない。
当主は長い沈黙の後、低く言った。
「……努力する」
努力、ではなく、守ると言ってほしかった。
でも、努力でも——今は前進だ。
リィナは頷いた。
「その代わり」
胸が痛む。
でも、言う。
「私が“行きたい”と思った日は、行きます。短く。お茶を淹れて、話して……帰ります」
当主の目が、少しだけ柔らかくなる。
「条件は」
「週に二回まで」
言った瞬間、リィナの胸が締まった。
少ない。
でも枠だ。枠は必要だ。
当主は黙って考えた。
そして、頷いた。
「……いい」
それだけで、リィナの肩が少し落ちた。
当主は机の上の白紙を引き寄せ、短く書いた。
約束:リィナの意思で来る(週二回まで)
迎えに行かない
来ない日を責めない
最後に、自分の署名。
そしてペンをリィナへ差し出す。
リィナはペンを握り、震える手で署名した。
契約ではない。
でも、約束だ。
当主は紙を畳み、引き出しにしまった。
大事なものを扱う手つきだった。
「……リィナ」
当主が呼ぶ。
その声が、少しだけ幼く聞こえた。
「週二回。……次はいつだ」
リィナは苦笑した。
「それは、私が決めます」
当主は小さく息を吐く。
不満そうなのに、納得している。
「分かった」
その返事が、奇妙に素直だった。
リィナは立ち上がり、頭を下げる。
「では、失礼します」
扉へ向かう。
背中に視線を感じる。
でも、鍵の音はしない。追ってくる気配もない。
廊下へ出ると、執事が立っていた。
「終わりましたか」
「……はい。約束を」
リィナが言うと、執事はわずかに目を細めた。
「当主は、“枠”を守ろうと努力なさるでしょう」
努力。
その言葉が、少しだけ頼もしい。
リィナは小さく頷いた。
「私も、守ります」
——その夜、リィナは自室で眠った。
当主の部屋の灯りを思い出して、少しだけ胸が疼いた。
でも、枠があるから眠れる。
そして、二日後。
リィナは、夕方の厨房でふと手を止めた。
鍋の火が穏やかだ。
心臓も穏やかだ。
(……行きたい)
理由ではない。
義務でもない。
ただ、行きたい。
リィナは布で手を拭き、侍女長に告げた。
「……今夜、当主の部屋へ行きます。短く、お茶だけ」
侍女長はリィナを見て、ゆっくり頷いた。
「あなたの意思ね」
「はい」
その夜、リィナは自分の足で、当主の部屋へ向かった。
——捕獲ではない。
そう言い聞かせながら。
ゆっくり、丁寧に。
当主の指を傷つけないように。——それがもう、彼女の癖だと気づいて、胸が痛んだ。
当主の手が空を掴む。
けれど、追いかけて掴むことはしない。
“掴むのは禁止”。条件を守っている。
その代わりに、当主の目が鋭くなる。
「……逃げるのか」
「逃げません」
リィナは息を吸い、まっすぐ当主を見る。
「選びます。私の条件で」
当主の眉がわずかに動いた。
自分の用意した二択から外れた答え。
想定外。それでも怒らない。
「言え」
「“休養係”は、引き受けません」
当主の目が細くなる。
しかし、声は静かだ。
「理由は」
「仕事にしてしまったら、私は自分で止められなくなるからです」
リィナは、言葉を続けた。
「私は優しいから、ではなく……弱いから。仕事と言われたら、無理をします。枠が消えます」
当主は黙って聞いている。
その沈黙が、以前より少しだけ“待つ”に近い。
リィナはさらに言った。
「それから、“迎えに行く”のも嫌です」
当主の目が一瞬だけ揺れた。
「嫌な理由は」
「私が私のままでいられなくなるからです」
喉が震える。
でも言う。
「当主の“守る”は、私の生活を飲み込みます。……私は、それが怖い」
当主はしばらく黙った。
手を下ろし、視線を落とす。
そして、小さく息を吐いた。
「……なら、どうする」
問いが、初めて“設計”ではない問いに聞こえた。
リィナは胸の奥の震えを抑え、言った。
「看病は終わりました。だから……会うなら、私の意思で会いたいです」
当主が顔を上げる。
目が、僅かに鋭い。
「意思?」
「はい」
リィナは続けた。
「仕事でも、命令でも、提案でもなく……私が“行きたい”と思ったときに行きたい」
言った瞬間、頬が熱くなる。
言ってしまった。
“行きたい”。
それはもう、看病ではない。
当主の目が、静かに揺れた。
理解したのだ。
言葉に含まれたものを。
「お前は……行きたいのか」
問いが低い。
リィナは唇を噛んだ。
頷いたら終わる。
でも、もう言ってしまった。
「……行きたい日も、あります」
当主の喉が小さく動いた。
息を飲んだのが分かる。
「それなら」
当主は一歩だけ近づきかけて——止まる。
掴まない。努力している。
「条件を作れ」
リィナは目を瞬いた。
「また、枠を」
「そうだ」
当主は淡々と言う。
「俺は、お前が来る“理由”を設計する癖がある。……それを止めたいなら、お前が枠を作れ」
その言い方は、珍しく弱かった。
自分の癖を認めている。
頼っている。
リィナは息を吸い、思い切って言った。
「……では、約束を二つ」
当主が頷く。
「一つ。私に“迎えに行く”と言わない」
「……言わない」
「二つ。私が来ない日を、責めない。冷えると言わない」
当主の目が、わずかに細くなる。
痛いところだ。
でも、言わなければ枠にならない。
当主は長い沈黙の後、低く言った。
「……努力する」
努力、ではなく、守ると言ってほしかった。
でも、努力でも——今は前進だ。
リィナは頷いた。
「その代わり」
胸が痛む。
でも、言う。
「私が“行きたい”と思った日は、行きます。短く。お茶を淹れて、話して……帰ります」
当主の目が、少しだけ柔らかくなる。
「条件は」
「週に二回まで」
言った瞬間、リィナの胸が締まった。
少ない。
でも枠だ。枠は必要だ。
当主は黙って考えた。
そして、頷いた。
「……いい」
それだけで、リィナの肩が少し落ちた。
当主は机の上の白紙を引き寄せ、短く書いた。
約束:リィナの意思で来る(週二回まで)
迎えに行かない
来ない日を責めない
最後に、自分の署名。
そしてペンをリィナへ差し出す。
リィナはペンを握り、震える手で署名した。
契約ではない。
でも、約束だ。
当主は紙を畳み、引き出しにしまった。
大事なものを扱う手つきだった。
「……リィナ」
当主が呼ぶ。
その声が、少しだけ幼く聞こえた。
「週二回。……次はいつだ」
リィナは苦笑した。
「それは、私が決めます」
当主は小さく息を吐く。
不満そうなのに、納得している。
「分かった」
その返事が、奇妙に素直だった。
リィナは立ち上がり、頭を下げる。
「では、失礼します」
扉へ向かう。
背中に視線を感じる。
でも、鍵の音はしない。追ってくる気配もない。
廊下へ出ると、執事が立っていた。
「終わりましたか」
「……はい。約束を」
リィナが言うと、執事はわずかに目を細めた。
「当主は、“枠”を守ろうと努力なさるでしょう」
努力。
その言葉が、少しだけ頼もしい。
リィナは小さく頷いた。
「私も、守ります」
——その夜、リィナは自室で眠った。
当主の部屋の灯りを思い出して、少しだけ胸が疼いた。
でも、枠があるから眠れる。
そして、二日後。
リィナは、夕方の厨房でふと手を止めた。
鍋の火が穏やかだ。
心臓も穏やかだ。
(……行きたい)
理由ではない。
義務でもない。
ただ、行きたい。
リィナは布で手を拭き、侍女長に告げた。
「……今夜、当主の部屋へ行きます。短く、お茶だけ」
侍女長はリィナを見て、ゆっくり頷いた。
「あなたの意思ね」
「はい」
その夜、リィナは自分の足で、当主の部屋へ向かった。
——捕獲ではない。
そう言い聞かせながら。
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