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16:続け方
次の日、リィナは“行かなかった”。
意地ではない。
約束の枠を守るためだ。
週に二回まで——それは、当主のためでもある。自分のためでもある。
それでも、朝から胸がざわついた。
鍋をかき混ぜる手が、いつもより速い。
湯気の向こうに、あの部屋の弱い灯りが見える気がする。
(……行かない)
何度も自分に言い聞かせる。
行ったら、枠が溶ける。
溶けたら、戻れない。
昼、侍女長がリィナの動きを見て、短く言った。
「今日は行かないのね」
「……はい。枠ですから」
侍女長は頷いた。
「えらい」
その一言が、妙に救いだった。
褒められるほどのことではないのに、褒められなかったら崩れてしまいそうだった。
夕方。
執事が台所に現れた。
いつもの無表情。
しかし、目の奥に“用件”の色がある。
「リィナ」
名前を呼ばれただけで、胸が跳ねた。
枠なのに。枠のはずなのに。
「当主が……お茶をお望みです」
リィナの背中が冷たくなる。
「それは……」
執事は言葉を継いだ。
「“仕事”としてではなく。……あなたに断られることを分かった上で、伝えろと」
断られることを分かった上で。
つまり、当主も枠を守ろうとしている。
それでも、欲しがっている。
リィナは喉を鳴らした。
「……今日、私は行きません」
執事はわずかに頷いた。
「承知しました」
そして、少しだけ声を落とす。
「当主は“迎えに行かない”と約束しました。……ですから、あなたが来ない日は、ただ冷えます」
冷える。
言わない約束だったのに、執事が言ってしまう。
でも、執事は責めていない。事実を言っているだけだ。
リィナは胸を押さえた。
「……私は、どうすればいいんですか」
執事は淡々と答えた。
「枠を守ってください。……当主も、それを望んでいる」
望んでいる。
本当に?
欲しがるのに、望んでいる。
矛盾の中で、二人は息をしている。
執事は去った。
その夜、リィナは自室で眠ろうとした。
しかし、眠れない。
当主が眠れないのではない。
リィナが眠れない。
胸の奥が冷えている。
あの部屋が冷えているからかもしれない。
いや、それは言い訳だ。
自分が冷えている。
(……私、何をしてるんだろう)
枠を守るのは、自分のため。
でも、守るほど、彼が冷える。
その事実が痛い。
深夜。
リィナは起き上がり、窓を開けた。
夜の空気が頬を撫でる。冷たい。
星が少しだけ見える。
(……明日)
明日は、週二回のうちの二回目にできる。
枠の中だ。
だから——行ける。
そう考えた瞬間、胸が少しだけ温かくなる。
それが、捕獲なのか、意思なのか分からない。
・
翌日、夕方。
リィナは自分の足で当主の部屋へ向かった。
盆の上には、いつもより少しだけ濃い茶。
甘い焼き菓子も一つ添えた。侍女長が「これくらいなら」と許してくれた。
(短く。お茶だけ)
ノック二回。
「……入れ」
声が返ってくる。
いつもより、少しだけ掠れている。
昨日、眠れなかったのだろう。
リィナは扉を開けた。
当主は机に向かっていた。
書類は少ない。
けれど、肩が固い。目が少し赤い。
リィナの胸が痛んだ。
「……来た」
当主の声が、低く落ちる。
喜びを隠して、抑えた声。
「はい。枠の中です」
枠、と言うと当主の口元がわずかに動く。
笑いとも、苦みとも取れる。
「……分かっている」
リィナはお茶を淹れた。
香りが立つ。今日は濃い。
当主は一口飲んで、ふっと息を吐いた。
「……温かい」
いつもと同じ言葉。
でも今日は、救われた人の言葉だった。
沈黙が落ちる。
当主はカップを持ったまま、目を伏せて言った。
「昨日、伝言が来た」
リィナの胸が跳ねる。
「……執事が?」
当主は頷く。
「お前が来ない、と」
リィナは息を詰めた。
責められるかもしれない。
約束は守ると言ったのに。
当主は、静かに言った。
「……守ってくれて、ありがとう」
リィナは目を見開いた。
「……え?」
当主はカップを机に置き、淡々と続ける。
「俺は欲しがる。勝手に。……それを止めるのは、俺の枠だ」
リィナの胸がきゅっと痛む。
「だから、お前が来ない日は、俺は冷える。……だが、それをお前にぶつけない」
約束を守っている。
彼の枠を、守っている。
当主は目を上げた。
その目が、真っ直ぐで、少しだけ弱い。
「リィナ。俺は——」
言いかけて、止まる。
言えば枠を壊すと分かっている顔。
リィナは息を呑む。
続きを待つ。怖いのに、待つ。
当主は、代わりに低く言った。
「……今日は、触れていいか」
リィナは頬が熱くなる。
掴まない。言葉で言う。
努力している。
リィナは小さく頷き、手を差し出した。
当主の指先が重なる。
握らない。触れるだけ。
それなのに、胸が痛いほど満ちる。
当主が囁く。
「……来た」
また、その二文字。
リィナは小さく返した。
「……来ました」
二人の間で、言葉が静かに繋がる。
捕獲ではない。枠の中。
そう言い聞かせる。
でも、リィナは分かっている。
枠は“終わり”ではない。
枠は“続き方”だ。
そして、当主は回復している。
回復した当主は、眠るためではなく、
“生きるため”に彼女を欲しがり始めている。
意地ではない。
約束の枠を守るためだ。
週に二回まで——それは、当主のためでもある。自分のためでもある。
それでも、朝から胸がざわついた。
鍋をかき混ぜる手が、いつもより速い。
湯気の向こうに、あの部屋の弱い灯りが見える気がする。
(……行かない)
何度も自分に言い聞かせる。
行ったら、枠が溶ける。
溶けたら、戻れない。
昼、侍女長がリィナの動きを見て、短く言った。
「今日は行かないのね」
「……はい。枠ですから」
侍女長は頷いた。
「えらい」
その一言が、妙に救いだった。
褒められるほどのことではないのに、褒められなかったら崩れてしまいそうだった。
夕方。
執事が台所に現れた。
いつもの無表情。
しかし、目の奥に“用件”の色がある。
「リィナ」
名前を呼ばれただけで、胸が跳ねた。
枠なのに。枠のはずなのに。
「当主が……お茶をお望みです」
リィナの背中が冷たくなる。
「それは……」
執事は言葉を継いだ。
「“仕事”としてではなく。……あなたに断られることを分かった上で、伝えろと」
断られることを分かった上で。
つまり、当主も枠を守ろうとしている。
それでも、欲しがっている。
リィナは喉を鳴らした。
「……今日、私は行きません」
執事はわずかに頷いた。
「承知しました」
そして、少しだけ声を落とす。
「当主は“迎えに行かない”と約束しました。……ですから、あなたが来ない日は、ただ冷えます」
冷える。
言わない約束だったのに、執事が言ってしまう。
でも、執事は責めていない。事実を言っているだけだ。
リィナは胸を押さえた。
「……私は、どうすればいいんですか」
執事は淡々と答えた。
「枠を守ってください。……当主も、それを望んでいる」
望んでいる。
本当に?
欲しがるのに、望んでいる。
矛盾の中で、二人は息をしている。
執事は去った。
その夜、リィナは自室で眠ろうとした。
しかし、眠れない。
当主が眠れないのではない。
リィナが眠れない。
胸の奥が冷えている。
あの部屋が冷えているからかもしれない。
いや、それは言い訳だ。
自分が冷えている。
(……私、何をしてるんだろう)
枠を守るのは、自分のため。
でも、守るほど、彼が冷える。
その事実が痛い。
深夜。
リィナは起き上がり、窓を開けた。
夜の空気が頬を撫でる。冷たい。
星が少しだけ見える。
(……明日)
明日は、週二回のうちの二回目にできる。
枠の中だ。
だから——行ける。
そう考えた瞬間、胸が少しだけ温かくなる。
それが、捕獲なのか、意思なのか分からない。
・
翌日、夕方。
リィナは自分の足で当主の部屋へ向かった。
盆の上には、いつもより少しだけ濃い茶。
甘い焼き菓子も一つ添えた。侍女長が「これくらいなら」と許してくれた。
(短く。お茶だけ)
ノック二回。
「……入れ」
声が返ってくる。
いつもより、少しだけ掠れている。
昨日、眠れなかったのだろう。
リィナは扉を開けた。
当主は机に向かっていた。
書類は少ない。
けれど、肩が固い。目が少し赤い。
リィナの胸が痛んだ。
「……来た」
当主の声が、低く落ちる。
喜びを隠して、抑えた声。
「はい。枠の中です」
枠、と言うと当主の口元がわずかに動く。
笑いとも、苦みとも取れる。
「……分かっている」
リィナはお茶を淹れた。
香りが立つ。今日は濃い。
当主は一口飲んで、ふっと息を吐いた。
「……温かい」
いつもと同じ言葉。
でも今日は、救われた人の言葉だった。
沈黙が落ちる。
当主はカップを持ったまま、目を伏せて言った。
「昨日、伝言が来た」
リィナの胸が跳ねる。
「……執事が?」
当主は頷く。
「お前が来ない、と」
リィナは息を詰めた。
責められるかもしれない。
約束は守ると言ったのに。
当主は、静かに言った。
「……守ってくれて、ありがとう」
リィナは目を見開いた。
「……え?」
当主はカップを机に置き、淡々と続ける。
「俺は欲しがる。勝手に。……それを止めるのは、俺の枠だ」
リィナの胸がきゅっと痛む。
「だから、お前が来ない日は、俺は冷える。……だが、それをお前にぶつけない」
約束を守っている。
彼の枠を、守っている。
当主は目を上げた。
その目が、真っ直ぐで、少しだけ弱い。
「リィナ。俺は——」
言いかけて、止まる。
言えば枠を壊すと分かっている顔。
リィナは息を呑む。
続きを待つ。怖いのに、待つ。
当主は、代わりに低く言った。
「……今日は、触れていいか」
リィナは頬が熱くなる。
掴まない。言葉で言う。
努力している。
リィナは小さく頷き、手を差し出した。
当主の指先が重なる。
握らない。触れるだけ。
それなのに、胸が痛いほど満ちる。
当主が囁く。
「……来た」
また、その二文字。
リィナは小さく返した。
「……来ました」
二人の間で、言葉が静かに繋がる。
捕獲ではない。枠の中。
そう言い聞かせる。
でも、リィナは分かっている。
枠は“終わり”ではない。
枠は“続き方”だ。
そして、当主は回復している。
回復した当主は、眠るためではなく、
“生きるため”に彼女を欲しがり始めている。
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